見出し画像

「原発の近く、行けるところまで行ってみよう」福島ダークツーリズム

2014年にノリで福島へ行った話。

臨床心理学を専攻する大学院生だった友人のWが、福島県で研修があるから来ないかと誘われたのは2014年の3月のことだった。私は臨床心理学なんてまったくの門外漢の法学部の学生だったが、その誘いに乗ったのは若者らしい冒険心からだったし、Wにしてもほいほい従いてきそうな旅の道連れがほしかっただろう。

個人でガイガーカウンターを持っている人も案外いたし、国会前を始め各地では毎日のように反原発デモが開かれていた。

私はデモに参加するタイプではなかったが、学生ながら社会問題や時事について論評することで金を得ていた立場だったのでスルーはできないと感じていた打算的な面もある。

しかし痛みも感じた。
もちろん戦災や災害に遭遇した他国の人たちをニュースで見ても痛みを感じる。
しかしそれよりも強く、皮膚感覚として痛みを感じた。ナショナリズムや民族的帰属意識とは縁遠いタイプだと思っていたが、自分が感じた痛みによって自分のアイデンティティが日本という土地と文化に深く根付いているものだと実感した。

同じ言葉を喋り、同じ文化圏に属するいわゆる「同胞」の出来事だ。もちろん被災者には外国語話者や外国人もいるが、彼らを排除するつもりはない。同じ痛み(私よりも強烈な)を受けた隣人だ。

とにかく、その土地で、なにがあって、どうなって、これからどうなるのかを見たかったし、知りたかった。

夕方にWの車で出発して東名高速をひたすら東へ進む。車内では連想ゲームのように一曲ごとに曲を流して遊んだ。
その中でWが挙げたフラワーカンパニーの「深夜高速」がとても印象に残っている。

ヘッドライトの光は手前しか照らさない
真暗な道を走る胸を高ぶらせ走る
目的地はないんだ帰り道も忘れたよ
壊れたいわけじゃないし壊したいものもない
だからといって全てに満足してるわけがない
夢の中で暮らしてる夢の中で生きていく
心の中の漂流者
明日はどこにある?

深夜高速/フラワーカンパニーズ

私達は迷走状態だった。
Wは神学の大学院から挑んだ就活で挫折を味わい、専門職に就こうと2つ目の大学院に通っていた。私は躁状態のまま書き散らかしていたらいつの間にか作家先生に祭り上げられ、その反動のうつ状態を行ったり来たりしていた。
知力と体力と若さを持て余していたのだと思う。常にフラストレーションだった。

馬鹿話にも飽きてぐったりとした明け方に福島県へついた。ネットカフェで仮眠をしてWの研修についていく。正直眠かった。

終わってから現地のホスト役の人に連れて行ってもらった居酒屋で食べたあんこう鍋がものすごく美味しかった。しかしそのあんこうも福島沖は漁獲制限があったため他所で捕れたものだった。

翌日はそのホスト役の人の紹介で仮設住宅に招かれてお昼ごはんをごちそうになった。
住宅の近くの海沿いはなにもなかったように雑草が繁っているが、近くにくると住宅の土台がそのまま残っていた。すべて津波で流されたのだ。

Wとどちらからともなく原発の近くまで行ってみようとなり車を北へ走らせた。

それからあっさりと検問で追い返されて引き返すこととなる。防護服を着て立っていたのは私と同じ歳くらいの若い警察官だった。
そのまま常磐自動車道から東名高速に乗り継ぎ夜8時頃には名古屋へ戻ってきた。たった数時間で行ける距離だったことが一番の驚きだった。

10年経った今でも私は迷走しているし、まだ災害の被害は続いている。その後Wとは疎遠になっている。風の噂でそれなりに元気にやっているとは聞いた。
そんなわけで毎年この時期になるとあの行き当たりばったりな旅を思い出す。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?