「ひろゆき論」批判(1)

§ 批判の目的

 2023年の2月に岩波書店が発行する総合誌『世界』の2023年3月号が発売された。本稿はそこに掲載された伊藤昌亮氏による「ひろゆき論――なぜ支持されるのか、なぜ支持されるべきではないのか」を批判するものである。

 2023年の3月11日には岩波書店が運営する「WEB世界」というウェブサイトに、当該原稿の増補改訂版が掲載された。本稿ではこの増補改訂版を批判対象として採用する。ただ必要な箇所については雑誌掲載版を引用する。そのさいはWEB版との異同を明らかにする。

(特別掲載「〈特別公開〉ひろゆき論――なぜ支持されるのか、なぜ支持されるべきではないのか」https://websekai.iwanami.co.jp/posts/7067

「ひろゆき論」はその題名のとおり西村博之氏(以後、通りのよい「ひろゆき」と記す)についての文章だ。そして文章のなかではひろゆき氏の著作が引用され、筆者が考えるひろゆき氏の思想が解説されている。

 インターネット上で公開するというこの文章の性質上、Kindleなどの電子書籍を用いたほうが参照が容易となるかもしれないが、どのプラットフォームの電子書籍を利用するかによって参照指示が変わってしまうため、本稿では物理書籍版の頁を参照先として示すことにする。

 本稿の目的は「ひろゆき論」の批判である。しかしなぜこの文章は批判されなければならないのか。それはこの文書が「書き手の倫理」を意識的にか無意識的にか踏み外した文章だと、私には感じられるからだ。

 むろんその感覚は読者ひとりひとりによって異なるだろう。しかし、まだよちよち歩きとはいえ、書き手として世界に踏み出そうとしている私にとって、この文章は到底受け入れがたいものに感じられた。

 だからといって私は本稿の掲載取り下げなどの処置を求めるわけではない。ただ私は批判するだけである。その作業によって、この文書が大きな批判の対象となりうる(そして私はなるべきだとも思うが)ことを示すのが目的だ。

 この文章を開いていただいた方はすでにご存知だと思うが、この文章は長い。これだけ長ければ開いたとたんに文章を閉じる読者も多いと思う。

 文章を短くすることもできる。もっとも批判に値する部分のみを切り出して、そこに対して吟味を行うとよい。しかしそのようにしなかったのは、「ひろゆき論」がその段落のひとつひとつで批判が必要な文章だと私には思われたからである。

 私はこの文章を批判することでどこかの陣地に自分を置きたいわけではない。私はただただこの文章を批判したいのだ。書き手であり、読者であるひとりの人間として、この文章のはじめから終わりまでを批判したいのだ。だからこの文章にはまとまりがない。ひとつの問題を批判したいのではなく、すべてを批判したいからだ。

 対象文章をいくつかに分け、それぞれの批判を節に分割しているので、気になった節だけ読んでもらってもかまわない。それでも私の批判の意思は伝わるはずだ。

 最後にふたつエクスキューズを記しておく。私の目的は「ひろゆき論」を批判することだ。そのためこの文章の目的は以下にはない。

 ひとつ。著者を批判すること。ふたつ。「ひろゆき論」を掲載した『世界』の編集部を批判すること。そのような批判はむしろ容易だ。人格批判も版元批判も雛形は世にあふれている。ただ私が批判したいのは「ひろゆき論」という文章だけだ。

 なぜそのような禁欲的な批判姿勢にこだわるか。それは「ひろゆき論」という文章にひとつの時代の症候があらわれていると、私が考えているからだ。

「ひろゆき論」を批判することで、私はその症候をあきらかにし、可能であるならばその症候を批判するための道筋を明らかにしたい。なによりもそのような禁欲を解いてしまえば、私が批判しようとしている「ひろゆき論」と同じ落とし穴に、私もはまってしまうと思う。

どういうことか。本論に移ろう。

§ 「ひろゆき論」の構成

 はじめに「ひろゆき論」の構成を確認しよう。当文書は6節からなる。「はじめに」では、ひろゆき氏の略歴と最近の動向、そして当文書の目的が「ひろゆき人気」の背後にあるものを論じることにあることが示される。

 つづく「プログラミング思考で権威に切り込む」では、筆者がひろゆき氏の著作を読んで、引き出した、ひろゆき氏の行動原理と思われるものが「プログラミング思考」と名指され、その問題点が指摘される。

「ライフハックによる自己改造と社会批判」では、「プログラミング思考」と類似するものとして「ライフハック」が取りあげられ、ひろゆき氏がライフハック的な思考にもとづいて自己改造と社会批判を行い、それを支持者へと呼びかけていることへの警鐘がならされている。

「『ダメな人』のための『優しいネオリベ』」では、ここではひろゆき氏の思考とネオリベラリズムの近接性が指摘されるが(筆者はネオリベラリズムをどのような意味で使用しているか詳述してない。しかし文章を読むと経済的な意味でのネオリベラリズムというより、ネオリベラリズム的経済体制のなかで形成された一種の社会的な傾向を名指すためにその言葉を使っているようなので、以降はそれを社会的ネオリベラリズムと仮に呼ぶことにする)、ひろゆき氏の思考は、従来の社会的ネオリベラリズムとは異なり、その呼びかけの対象が「ダメな人」になっていることを指摘する。

 いよいよ我慢ができなくなってきたので、批判を先取りしておく。批判の対象としている人物の思想を、その構造を分析し、その綻びを指摘することは、批判の王道である。

 しかし、思想が訴えかける対象にレッテルを貼り(しかもこの文章はそのレッテルをひろゆき氏の言葉からとることで保身を行っている)、その対象にとってその思想に順ずることは不利益なはずだ、と諭すのは、邪道である。

 もしその思想の需要が問題である場合にも、それは思想が需要された結果を具体的に批判することで指摘されるべきだ。

 この文章はそのような労力を賭す素振りすらみせていない。こういえば「この文章はそういう目的のために記されたわけではない」と誰かがいうだろう。では、どのような目的で記されているのか。

 明確な答えが返ってくることを期待する。ただそのまえに私はこの文章を読み、その目的をあくまで「書かれたもののレベル」で判断しようと思う。

 さきに言っておくとこの文章は、ひろゆき氏の思考の内在的批判を目的とした文章ではなく、ひろゆき氏の思考の需要の在り方を論じることを目的にしていると思われる。それもあまりに杜撰なやり方でだ。だから私は批判を書いている。各節の解説にもどろう。

「なぜリベラル派を嫌うのか」では、なぜひろゆき氏とその支持者が(筆者のいう)「ダメな人のためのリベラリズム」に傾倒し、既存のリベラリズムに向かうことがなかったのかという疑問に対して、既存のリベラリズムがひろゆき氏の支持者のような(筆者のいう)「弱者」を包摂してこなかったことに理由があるという、筆者の見解が明かされる。

 なおここでは、「ダメな人のためのリベラリズム」に対して「リベラル派」という言葉がたびたび対置されていることから、純粋な思想内容の吟味というよりも、特定の派閥に代表される思想の在り方の差異こそが問題とされているように思える。

 つづく「情報強者の立場からのポピュリズム」では、ひろゆき氏の振る舞い方に焦点があたる。そこでひろゆき氏の振る舞いにはポピュリズム的な性格、そして(筆者のいう)ポピュリズムに特有の反知性主義的な性格がみてとれるとされる。

「差別的な志向と陰謀論的な思考」では、前節で言われたひろゆき氏のポピュリズム的性格が、差別的な言説と陰謀論的な言説をともに増幅する装置として機能するのではないか、という危惧が語られる。

 具体的な事例に即した批判が期待される部分ではあるが、かつて、ひろゆき氏が管理人をつとめていた「4chan(4ちゃん)」という主にアメリカ合衆国から利用されている匿名掲示板が特定の陰謀論者たちの温床になっているという、まあそれはそれでよく知られた話が言及される程度にとどまり、隔靴掻痒の感がある。

「おわりに」では、なにかのまとめらしいものと、展望らしきものが書かれているのだが、前節からの強い流れも感じられないので、あくまで本文章全体の結論を、筆者なりにまとめたものだと思われる。

§ 1節「はじめに」の批判

 いよいよ批判を始めなければならない。まず1節から取り掛かろう。1節は8の段落からなる。

 1段落から5段落までは、ひろゆき氏の来歴と最近の動向がまとめられている。

 4段落目で、ひろゆき氏が過去多くの損害賠償を、筆者の言葉でいえば「踏み倒し」たことから、ひろゆき氏の「倫理観の欠如」が指摘される。

 この問題に関しては、ひろゆき氏もYoutube上の配信などで、ひろゆき氏なりの見解を示しているので、その見解を吟味する作業を行わないのであれば、もう少し穏当な言葉で表現したほうがよいと思う。

 しかし筆者は「倫理観の欠如」について「指摘する声も多い」としているので、どうやら筆者がそう思っているわけではないらしい。そのためあまりここをつついても仕方がない。

 しかしわざわざ「倫理観の欠如」ということが「指摘する声も多い」と書かれているので、どこかの媒体でそのような指摘がなされているのかと気になる。

 すこし調べてみると、ニューヨーク・タイムズの2022年12月8日付けの「In the U.S., His Site Has Been Linked to Massacres. In Japan, He’s a Star.」という、ひろゆき氏を扱った記事のなかに、「lack of ethics」という文言がみられ、この部分を引いているのだと考えられる(https://www.nytimes.com/2022/12/18/business/4chan-hiroyuki-nishimura.html)。

 ニューヨーク・タイムズの記事のなかで、この言葉はひろゆき氏がなにかのインタビューで「自負(taken pride)」しているものだとされているが、実際にこの言葉がひろゆき氏から発されたものか、またどのインタビューで発されたものかは判然としない。

 なおニューヨーク・タイムズの記事には、そのように出典を明示しないまま、ひろゆき氏の言葉として引かれている文章が多い。それはそれで問題だとは思う。

 文章中でこの言葉を暗黙のうちに引用するにしても、せめて出典を示してほしい。まずニューヨーク・タイムズの記事は、公開当時ある程度、話題になったとはいえ、この文章を読む人間すべてが目を通しているとは限らない。

 実際この記事には日本語訳がないので、日本における読者はかなり限定されているだろう。「指摘する声も多い」などとぼやかさずに、はっきりと「ニューヨーク・タイムズの記事で指摘されている」と記せば、まだ記事を読んでいない読者のなかで、この記事を読んでみようと思う人が出てくるかもしれない。むろん少数だろうが、出典を示さなければその可能性は極限まで低くなる。

 そのように別の文献への道が明示されなければ、この文章は特定の読者共同体に閉じられる。その共同体のなかでは「倫理観の欠如」という言葉がある種の目配せとして機能するかもしれない。であるから「倫理観の欠如」はすでに言われたこととして扱われるだろう。

 ただこの文章はそのような目配せが機能する範囲ではなく、より広い読者に向けられたものではないのか(そうでなければもはや私は何も言うことはなくなるのだが)。

 そこには、ひろゆき氏に「倫理観」が「欠如」していると思わないひとも含まれるかもしれない。そのようなひとに向けて、まずはどこでそのようなことが言われたのか、という情報を提供しなければ、読者はここで躓いてしまうだろう。ある論を広く受け入れさせようと思うのなら、そのような躓きの石は丁寧に取り除かれなければならない。

 このように出典が明示されないという問題は、この文章の各所に見られるので、その都度指摘する。

 ただここまでいろいろと書いてきたが、そもそも出典も明示しないままで、実在の個人の「倫理観の欠如」を指摘するというのは危険だと私は思う。それはあまりに強い言葉だ。

 自分がそのように言われたらと想像すると恐怖しか湧いてこない。一度公の場でそう言われてしまえば、そのあと私は「倫理観の欠如」した人間だと世間から認知されてしまうのではないかと想像してしまうからだ。

 この文章では、そのような想像力への配慮がなされていない。ひろゆき氏がそう思うかは関係ないのだ。一般に他人に読ませる文章では、そのような配慮をしなければならない。それが書き手の倫理だと私は思う。しかしいい加減さきに進もう。

 つづく5段落から7段落までは、2022年10月3日にひろゆき氏が辺野古新基地建設現場前の座り込みの看板写真と座り込み運動への所感をTwitter上に投稿したことから始まった一連の騒動についての言及がなされる。

 5段落には、この騒動とそれに対するひろゆき氏の態度に「リベラル派は一斉に反発し、批判の論陣を張った」と書かれている。この筆致に私は疑問を覚える。ひろゆき氏に端を発する辺野古の座り込みについての騒動、そこから再度辿られた新基地問題は、実際がどうであれ、そのような派閥闘争に矮小化していい問題ではなかったのではないか。あの騒動は安倍晋三元首相の銃殺事件のあと、はじめにおおきな注目を浴びた社会的なトピックであった。

 たしかにここで「リベラル派」といわれている人々からの批判が目立ったのはたしかだ。しかし私はおよそリベラル派というのにくくられる人間ではないが、この問題に対して批判的な関心を抱いていた。そのような人間も多くいたと思う。むろんそのような人間の存在がこの文章から排除されているわけではない。

 しかし「ひろゆき氏」と「リベラル派」という対立におさめてしまうと、そこにおさまらない人間としてはいささか居心地が悪い。「社会的に大きな反発を呼んだ」というふうにあの騒動を総括したほうが、今後のためにもよいのではないか。

 つづく6段落では、辺野古の騒動をうけて、ひろゆき氏は「良識派、とりわけリベラル派のメディアや知識人などからすこぶる評判が悪い」と書かれる。ここで良識派のなかに、リベラル派のメディアと知識人が包含されるような記述があるのは気色悪い。

 さきほど批判したような派閥闘争的な見方をとりたくない。しかし、本論文が掲載された岩波書店の『世界』はまさにリベラル派のメディアであるし、そこに書いている著者はリベラル派の知識人ということになるだろう。

 本人がどう抗弁しようと読者はそう思う。むしろ岩波の『世界』に書くのであれば、その著者には「私は良識派で、リベラル派の知識人である」と言ってほしいし、そうでなければ別の雑誌に文章を掲載してほしい。『世界』はそれだけおおきな歴史的な重みを背負った雑誌だ。

 しかし暗黙のうちに自身の陣営を、良識派で、リベラルで、知識人だと書くのはいただけない。それは読者がそう思うべきことだし、あまつさえ、つづく文章で、筆者の意見によると「倫理観の欠如」と「政治思想の浅はかさ」によって特徴づけられるひろゆき氏とが対置されているから、そこにはなおさらいやらしさがある。

 悪しき性質が帰属される存在に対すれば、それに対するひとびとは「良い」ものである、という、あまりに原始的な陣営分割がここでは行われている。実際の世界には、悪しき性質しか持たない存在というのは存在しないし(だからフィクションが求められる)、それが存在したとして、そこに対する存在が必然的に「良い」わけではない。

「良」さはそれ自体で定義されるべきであり、相対的に定義されるべきものではない。それが理念だ。理念を捨てるのは容易いが、その態度はもはや「良識派」とは呼べないだろう。自身が良識派であること、それは精密な筆致で読者に納得させるべきものであり、間違っても自分で書くことではない。そして他人をダシにして書くことでもない。

 そこまで理詰めでいかなくとも、まず「倫理観の欠如」と同じように「政治思想の浅はかさ」も強い言葉だ。そして「政治思想の浅はかさ」という言葉には、「倫理観の欠如」という言葉に付けられていた「指摘する声も多い」という言葉もなく、とくに出典も示されていないので、筆者自身による言葉だと考えざるを得ない。

 しかし他人の政治思想を批判するのには、多大な労力がいる。むろんそのような労力は報われるべきものではあるが、この文章にそれだけの労力がかけられているとは考えられないし、そもそもこの文章はひろゆき氏の政治思想の批判を目的としたものとは読めない。

 なのである種、通り魔的に、本来ならば多大な労力を賭したあとにこそいえる「政治思想の浅はかさ」などという言葉を、ひろゆき氏に帰属したあと、この文章はそそくさと次の話に移るのであるが、これは決して褒められた態度ではないだろう。

 6段落についての言及は最後にしておきたいが、ひろゆき氏の態度で批判の的となる部分として、「『冷笑』と呼ばれる」と「『論破』と呼ばれる」部分があげられているが、このカッコ書き内の言葉もどこに由来するものかは定かではない。

 たしかに見たことのある言葉ではあるが、すこし探せばひろゆき氏に対して「冷笑」「論破」という言葉をあてている文章はあるだろうから、そこから引けばいいだけだ。そのような作業を怠っているあたりに、さきほども書いた、目配せの効く範囲の読者しか相手にしないという閉鎖性があらわれている。

 しかしこれは純粋に私の感想なのだが、著者が想定している読者層のなかにも、「冷笑」「論破」という言葉がひろゆき氏に、よくあてられていることを知らないひとは多いのではないかと思う。本筋にもどろう。

 7段落では、ひろゆき氏のリベラル派に対する冷笑的な態度に、ひろゆき氏の支持者は「一斉に喝采を送り、彼にならってリベラル派に反駁」するとされている。その傍証としてあげられているのが、辺野古新基地工事現場前の看板を撮影したひろゆき氏のツイートに付された約28万個の「いいね」だとされている。

 ここでこの文章全体の最大の問題だと、私が思うところの、「ひろゆき氏の支持者」といわれる存在の悪魔化が行われている。ここで悪魔化といっているのは、あくまでこの批判文における私の用語であって、なにか別の学知から借りたものではない。

 悪魔化という言葉で、私は(1)対象を概念的に定義せず(どのような人が支持者なのかということを筆者は語らない)(2)しかしそれは多数でなにかの陣営に対立するものとして描写され(「一斉に喝采を送り」「リベラル派に反駁」する)(3)さきほども述べたように、その存在が対立している陣営の正しさは、論述を行わずともその大部分がすでに証だてられたものとされる、という一連の操作のことを言おうとしている。

 悪魔化を使えば、誰かを無限に批判することができる。誰かを無限に悪者にすることができる。しかしそれはあまりに万能なので学的な意味をなさない。悪魔化を受け入れて、その土壌で戦うかぎり反論が不可能だからだ。

 そして悪魔化を解除するためには、それこそ私がいま行っているような労力をかけた批判が必要となる。そして多くのひとはそれほど暇ではない。

 なので悪魔化を受け入れるかぎり理論的な反論は不可能であるし、悪魔化を解除しようとするならば時間的・経済的な理由で反論はかぎりなく不可能に近くなる。

 そのように言説の呼吸を閉ざしてしまう操作が悪魔化なのであって、私はこの批判でそのような悪魔化を批判したいのだ。

 本批判の基本的なモチーフを抽出できたところで、7段落の批判を終えよう。8段落について特にいうことはない。どうやらこの文章は「ひろゆき人気」の背後にある何かを論じることが目的らしい、ということが書かれている。

 人気の背後にあるのはふつう支持者だとは思うが、さきほどひろゆき氏の支持者についての悪魔化が行われていると指摘した私としては、そのような安直な推測を受け入れることはできない。そのため「どうやら」「らしい」としか書けない。

 それにしてもここまで原稿用紙約3枚分ほどの文章に対して批判を行ってきたのだが、それが成されるまでにすでに原稿用紙20枚分ほどの文章を書いているわけで、いささか途方に暮れている。「ひろゆき論」全体の文量が原稿用紙約30枚分ほどなので、単純計算でいえば、この批判文は原稿用紙約200枚分ほどの容量になることになる。

 批判するのは大変だな、と思う。そしてそれを読むのも大変だなと思う。なので急遽予定を変更し、この批判文は連載形式をとることにする。そのため今回の批判はここで終えよう。

 次回は第2節にあたる「プログラミング思考で権威に切り込む」以降の文章を批判する。今週末はイベントに参加するため、3月20日以降の更新となると思う。

 ここまで読んでいただいた方に感謝する。

次回 → https://note.com/illbouze_/n/ncc9e9caa03f1

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