「ひろゆき論」批判(4)
前回→https://note.com/illbouze_/n/n1de0d4209e8c
本日、2023年3月17日、私が批判対象としている「ひろゆき論」の著者の手による文章が毎日新聞に掲載された。らしい。というのも私はウェブ版でしかこの記事を読んでいないからだ。紙版では確認していない。
内容としては「ひろゆき論」が下敷きになっている。だから関連文書として読むことはできるだだろう。
詳しい内容についてはネット版では有料記事となっているので、深く言及することはしない。
ただしその記事にも私が本批判文で問題視しているのと同じ問題があらわれている。気になったひとは読んでほしい。
毎日新聞「ひろゆき氏はなぜ支持されるのか」
https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20230316/pol/00m/010/004000c
では批判に移ろう。
§ 「ひろゆき論」第4節の批判
「ひろゆき論」の第4節は「『ダメな人』のための『優しいネオリベ』」と題されている。それぞれカッコが付されているが、それが誰の言葉なのかは、もはやわからない。しかし「ネオリベ」と短縮系で書くのなら、なにか断りが必要だと思う。
第1回でも書いたが、筆者はネオリベリラリズムという言葉を、経済思想上の特定の考え方を指すためというよりも、ネオリベリラリズム的な経済体制のなかで情勢された社会的な雰囲気を指すために使っているようなのだが、そのような解説はすっとばして、いきなり短縮形が出てくるので面食らうのである。
32段落。「ここであらためて考えてみよう」とあるので話に展開がある。「『日本の未来は暗い』にもかかわらず、なぜひろゆきは『あなたの未来は明るい』と言うことができるのだろうか」。
ひろゆき氏であれ誰であれ、そう思うことは勝手だし、そういうことも勝手だ。なぜ、といわれれば自由だからとしかいいようがない。
「通常の考え方では日本の未来が暗ければ、そこに住む人々の未来も暗くなるはずだ。しかし彼はそう考えない」。
「~れば」「~はずだ」といえるほど、緊密な関係がある項目だろうか。「通常の考え方」とまでいえることか。筆者がそう考えているから、ひろゆき氏の考えが不思議に思えるというだけではないか。
「通常の考え方」というのは怠惰な言葉だ。この言葉で騙せるのは著者自身だけである。実際はそれを「通常の考え方」だとは思わないひともいる。
それは常識がないからではなく、単にひとによって考え方はいろいろであるからだ。書き手はこういうときに読者を説得しなければいけない。そうしなければ考えを共有しない読者はここで躓いてしまうだろう。
しかし怠惰という点でいえば、そもそも、著者はひろゆき氏の著書の本文から言葉を引く手間すら惜しんで、表紙や帯文から言葉を引き、それをひろゆき氏の言葉だとして議論を進めているので、この程度の怠惰さはむしろかわいいものである。次に進もう。
33段落。「彼によればこれまでの日本は、工場のラインに見られるような『横並び』の体制で、『みんながトクする』という構造を大事にしてきた」。
「彼によれば」と書かれているが出典は記されていない。もう何度も書いているが、出典は明示するべきである。
しかもこの箇所は明らかに、ひろゆき氏がそのようなことを言った、というテンションで記されているので、なおさらだ。出典を記さなければ、デマだと言われても仕方がないだろう。
「しかし昨今ではとくにIT産業に見られるように、『一人で稼ぎ』『一人で利益を受け取る』というビジネスモデルが増え、『ほかの人にも分配する必要がなく』なった」
著者はこれをひろゆき氏の考えとして記しているが、出典が記されていないので、残念ながらこの言葉を本当にひろゆき氏が言ったのかどうかは判断できない。
「その結果、『みんなのことを気にせず、自分だけがトクする』ことが可能になったという」
こちらもまた前の二段と同じである。出典が記されていない。なのでこの内容の是非を論じる以前の問題である。
これだけ批判的文脈で他人の言葉を取り上げているのにもかかわらず、その出典を記さないという態度はなにに由来するものなのだろうか。
34段落。「だからこそ、「日本が『オワコン化』しても大丈夫」だと彼は断じる。『国の幸福と、個人の幸福とはまったく無関係』なのだから(文献1)」
さて。ここでようやく出典が明らかになる。これまでみてきた言葉ももしかしたらここから引かれたものかもしれない。はたしてそうであった。
つまり33から34段落は執筆段階ではひとつの段落だったのかもしれない。そのかたちであればいちおう出典は記されていることになる(それでもこの示し方ではだめなのだが)。
ただ組版の段階で見栄えを重視して、ふたつの段落に分けられたのかもしれない。であるならば各段落の末尾にも出典を明示するべきである。著者はゲラを確認したのだろうか。
いちおう33と34段落のひろゆき氏の言葉の出典を確認しよう。また細切れではなくある程度文脈がわかるように引用しよう。引用元はSBクリエイティブから2019年に出版された『自分は自分、バカはバカ。他人に振り回されない一人勝ちメンタル術』だ。
まず33段落の「横並び」。この言葉は一度しか登場しないので特定が容易だ。
終身雇用、年功序列などの昭和の日本型雇用は、こうした地域に根ざしたコミュニティが沢山存在していた時代にはすごくマッチしていました。
大勢の人たちが工場のラインに並んで、同じ製品を大量に作る。モノを作る端から売れて、みんな「基本横並び」で豊かになっていったわけですよね。
――「序章 リターンを全員で分配した昭和の日本型雇用の終焉」『自分は自分、バカはバカ。他人に振り回されない一人勝ちメンタル術』
ここでひろゆき氏が語っているのは、日本の高度経済成長時代の社会のすがたを描くさいに、社会学などで用いられるある種定型的なストーリーだ。そのためとくに奇抜な話ではない。
なお「ひろゆき論」の著者は「工場のラインに見られるような『横並び』の体制」と引いているが、ひろゆき氏が言っているのは、横並びでみんなが豊かになっていった、ということであって、工場のラインに横並びがかかっているわけではない。誤読だし、それに基づく記述を行うことはミスリードだ。
つぎに「みんながトクする」だが、この言葉は本書のなかには登場しない。「自分だけがトクする」や「ひとりでトクする」という言葉はそれぞれ登場する。
カッコをつける部分を間違えたのだろうか。であるならば、公に公開されてしまった以上、訂正するべきだ。この言葉は表紙にも帯文にもなかった。
ところでなぜ引用のチェックをするさいに、いちいち表紙や帯文まで確認しなければいけないのだろうか。
「一人で稼ぎ」「一人で利益を受け取る」は、ならべて引かれている以上、同じ箇所から引用されていることが期待できる。しかしこのような言葉は本書には登場しない。
登場するのは「ひとりで稼ぎ」「ひとりで利益を受け取る」という言葉だ。タイプミスだろう。編集者はチェックしなかったのだろうか。一応該当箇所を引いておく。
でも今は儲かる仕事を始めた人がいたら、かつての日本企業では社内に担当者がいた「経理」とか「営業」とか、自分の得意な領域以外の仕事は、外注するようになってきました。ITの世界なんかは、とくにそうですね。
「個人があげた利益」を、ほかの人にも分配する必要がなく、「ひとりで稼ぎ」「ひとりで利益を受け取る」ビジネスモデルの会社が増えてきました。
――「序章 リターンを全員で分配した昭和の日本型雇用の終焉」『自分は自分、バカはバカ。他人に振り回されない一人勝ちメンタル術』
その後に引かれている「ほかの人にも分配する必要がなく」という言葉もここに出てくる。
であるならば著者は上に引いた文章の二段落目をそのまま引用すればよかっただけで、わざわざ順番を入れ替えて、自分の言葉(とはいえそれもひろゆき氏の文章の言葉と重なっているのだが)を差し挟む必要はなかったのではないか。
このように無駄なことをしていると、なにか下心があるのではないかと探りを入れたくなる。
「みんなのことを気にせず、自分だけがトクする」はどうだろう。
かつてのビジネスパーソンは「みんなでトクせざるをえない」構造の中で生きていました。それが現代は「ひとりでトクする」ことが可能になった。日本だけじゃなく、世界中こんな感じになってきています。
「基本的にみんなのことを気にせず、自分だけがトクする」ことができるのは、ビジネスだけではありません。趣味や娯楽といった、プライベートに関する領域でも同じことがいえます。
――「序章 リターンを全員で分配した昭和の日本型雇用の終焉」~「序 『自分だけがトクする』領域は拡張し続ける」『自分は自分、バカはバカ。他人に振り回されない一人勝ちメンタル術』
ここでひろゆき氏が言っているのは、桎梏としてあった「みんなでトクをせざるをえない」構造が崩れてきたため、ひとは自分のためだけに仕事をしたり趣味・娯楽に興じることができるようになった、ということだ。
本全体でみるとなんともいえないが、すくなくともこの部分だけをみると、現状分析からくる結論としてそのようなことが言える、という程度のことであって、それをひろゆき氏の積極的主張のようにとりあげる著者の引用は相も変わらず不正確である。
つぎに「日本が『オワコン化』しても大丈夫」だが、これは本文には登場しない言葉で、本書の第5章21節の節の名前である。あいかわらず自由自在な引用のスタイルには感服せざるをえない。
さいごに「国の幸福と、個人の幸福とはまったく無関係」だが、この文章は本書のなかに登場しない。かろうじてこれかなと思う部分が以下に引く文章である。
自分は自分、他人は他人。ぜんぜん気にしなければ、世界的に見ても、日本はお金を使わずに幸せになりやすい国です。
国として衰退しようが、産業の競争力が弱くなろうが、個人の幸福度とは別問題だということを理解しましょう。
――「5章 周りがどうなろうと「ノーダメージ」の個人になれる 22 これから日本の職場はもっと働きやすくなる」『自分は自分、バカはバカ。他人に振り回されない一人勝ちメンタル術』
本書には各章の最後にその章のポイントを箇条書きでまとめている箇所があるのだが、上の引用文にあたる箇所はそこでは「日本が沈んでも、国の衰退と個人の幸福度は、ぜんぜん別物」とある。当然の認識だ。それに異を唱えるひとがいるのだろうか。
さてここまで33節と34節で著者がひろゆき氏の著書からひいた言葉の出典を確認してきた。そもそもの話、正確に出典を記していないことや、とくにことわりもなく本文ではなく節名から言葉をひいていることは大問題なのだが、そのほかにも大きな問題がふたつある。
ひとつ。もっともわかりやすいところからいこう。出典を確認したところ、序文と最終章(第5章が最終章)からしか言葉が引かれていない。
考えたくはないが、著者がそこだけしか読んでいないということはないだろうか。表紙や帯文から自由に言葉を引く著者の引用スタイルとその不真面目さをすでに知っている人間からすると、そのような疑問を抱かざるをえない。
ふたつ。私が特定し、ひろゆき氏の著書から引用した部分をみてもらえればわかるとおり、著者はひろゆき氏が現状分析として書いていることを、ひろゆき氏の主張にみえるようにミスリードしている。これは言い逃れのしようがないのではないか。
そもそもひろゆき氏の『自分は自分、バカはバカ。他人に振り回されない一人勝ちメンタル術』という著書の内容は、簡単に要約すれば、他人に振り回される生き方をやめ自分の幸福を優先しよう、そして社会もそのように変化してきている、というものであって、筆者が、「だからこそ、『日本が「オワコン化」しても大丈夫』だと彼は断じる」ということはいっていない。
個人がなにをしようとも、社会はそうなっていっているということだけを言っているし、主眼はそのなかで個人がどう幸福に生きるかということだ。
筆者はひろゆき氏が言っていないことを、言葉を切り貼りすることで、言ったことにしている。筆者もまた書籍を出版しているので、自分に対して同じことがされたらどう思うか、ということを考えてほしい。
そして考える以前の問題として、論文作法にも抵触している。編集者はチェックをしなかったのだろうか。
私は同人誌の編集をしているが、ひとからもらった原稿内で引用が行われていれば、出典にあたって誤りがないかをチェックしている。
商業出版にはより充実したチェック体制が存在するはずだ。そのチェック体制をこの文章がどのようにすり抜けたかについては版元として説明責任があるのではないか。
ふつうにチェック体制が機能していれば、原稿がこの状態で雑誌に掲載されることはありえない。であるから、ハンロンの剃刀にしたがえば、この雑誌の版元の能力が急激に低下したのだ、というふうに考えざるをえないのだが、その考え自体がすでに不自然であるという袋小路に私は追い込まれている。なぜ私が追い込まれなければいけないのかは、わからない。この文章をしっかり読んだからだろうか。
想像はしたくないが、ありうるひとつのシナリオとしては、著者と版元が意図的に、ひろゆき氏を悪魔化するために、このような無理筋の文章を掲載したというものがあるが、もしそうだったとしたら、もはや私も批判をどうこうしている場合ではなくなるので、このシナリオについては考えないようにしておく。いいかげん次の文章に進もう。
35段落である。「ここに見られるのは、ネオリベラリズム、もしくはリバタリアニズムに特有の考え方だと言えるだろう」。
「ここ」とあるのは前段の末尾に引かれた「国の幸福と、個人の幸福とはまったく無関係」という言葉だろう。しかしこの言葉もひろゆき氏の本のなかにはなく、ほとんど著者の創作であるため、誰のなにを解説しているのかはわからない。たぶんこれを言いたかっただけだと思う。
それにしても「国の幸福と、個人の幸福とはまったく無関係」というのは、そもそも近代の政治思想の基盤となる考えであって、ネオリベリラリズム、リバタリアニズムに特有のものではない。
筆者が自身の陣営として置いているリベラリズムもそうだ。そのなかで程度問題を論じているのであって、基盤となる認識は変わらない。その認識を共有していないのは全体主義くらいなのではないだろうか。
続く文章では「公的なものを信任せず、自己責任に基づく市場競争を通じて自己利益の最大化のみを追求しようとする立場だ」とあり、なるほどたしかにこれはネオリベリラリズムやリバタリアニズムの立場の解説としては納得する。
しかし「ここに見られる」は明らかに前の文章の末尾にかかっていて、であるからその後ろに続く文章は前の文章とあるていど等価の関係に置かれてなければならない。
つまりこの書き方では、「国の幸福と、個人の幸福とはまったく無関係」と「公的なものを信任せず、自己責任に基づく市場競争を通じて自己利益の最大化のみを追求しようとする立場だ」というのは、等しい、もしくは前者の詳細な解説が後者という関係になるのだが、どんなに考えてもこれらの文章はそのふたつの関係にはあてはまらない。
幸福の問題と利益の問題が混同されている。著者は古典的な功利主義者なのであろうか。その古典主義的功利主義者でもここまで無理筋の等値、あるいは、関係づけは行わなかったのであって、これが著者の主張であるとするならば、それは斬新である。そして斬新であればいいというわけではない。
これだけアクロバットな文章の繋ぎが行われているので、もはやこのさきは読まなくてもいいのではないか、と読者は思うだろう。
しかしTwitterなどでこの文章に対する言及をみてみると、アカデミシャンや業界関係者のなかでこの文章を評価しているひとはそれなりにいるので、やはり最後まで読んだほうがいいのかもしれない。それと同じくらいの確からしさで読まなくていいのかもしれない。とりあえず前に進もう。
36段落。段落ごと引用しよう。
「そもそも彼は成功した起業家であり、さらにマスクやベゾズなど、桁外れの大富豪の名をしばしば挙げていることからも窺われるように、ネオリベラルな考え方の持ち主であることは、とくに不思議なことではない」
起業家として成功して、イーロン・マスクやジェフ・ベゾスの名前を挙げれば、ネオリベリラリズム的な考え方をもっていても不思議ではないのだろうか。
つまりそのような人がリバタリアニストであったり、リベラリストであることは不思議なことなのだろうか。社会的な位置によってそのひとの思想が決定する、というのは古く悪しきマルクス主義的思考の香りを感じて、懐かしい気分になる。
マルクスのよい部分をこそ私たちは受け継いでいかなければならないと思うのだが、こういう人が一定数いることは認めていかなければならない。
そして何度も指摘しているが筆者はネオリベリラリズムをどのような意味で利用しているのか、まったくといっていいほど明らかにしない。
明らかにしないわりには、その言葉はなんとなく悪いものとして、レッテルのように使われている。しかし筆者は経済学者でもないのだし、掲載元も経済専門誌でもないのだから、経済思想由来の言葉を使用するさいには、自身の文脈でどのような意味で使おうとしているのかという解説が必要である。
この文章に対するTwitter上の反応では、このネオリベリラリズムという言葉のレッテル的使用に乗っかり、その末尾では「ひろゆき氏はハイエク読んでないでしょうけど」という揶揄をとばしている人がいたが(そしてそのひとはアカデミシャンなのだが)、それはそうで、ふつうハイエクは読まないのである。ハイエクを読んでないと悪いのだろうか。
そのひとはひろゆき氏にだけ言葉を向けているつもりなのであろうが、そのような権威主義的なふるまいをしていては、読者からの信用をなくすというものだ。
37段落。短いのでこちらもまた全文を引こう。
「では彼は典型的なネオリベラルなのだろうか。実はそうではない。その議論には、むしろそこからはみ出るようなところが多く見られる」
「逆張り」や「倫理観の欠如」に対しても筆者は同じ操作を行っていた。つまり特に立証されたわけでもない主張を、つぎの段落では既成事実として扱い、そして自分でその主張を否定し深掘りするという身振りだ。それは口喧嘩や言いがかりの手法なのであって、決して学問的な言葉の運用方法ではない。
一段目の主張をしっかりと読者に説得して納得させたうえでなければ、二段目のひっくり返しも機能しない。私はこのような技を否定するわけではなく、たんに筆者の使い方が下手だと言っているのだ。しかし「はみ出るところ」があるらしいので先にすすもう。
38段落。「一般にネオリベラリズムとは『弱肉強食の論理』だとされる」らしいのだが、どう一般なのか。手元にある経済事典や思想事典を引いてみたが、そんな解説はされていなかった。せめて誰かがそう言っていると引用をしてほしい。そうしなければ筆者がそう思っているとしか、読者には反応のしようがない。
「とりわけIT業界ではいわゆるネットワーク経済の法則から、"winner-take-all"、すなわち勝者総取りの原理が働き、強者はどこまでも強くなっていく」。
これはかなり地味な指摘なのだが、ふつう"winner-take-all"は選挙方式について言われる言葉で、それが転じてインターネット上の経済特性を指すために生まれた言葉は、ふつう"winner takes all"と記される。しかしふつうもいろいろあるので置いておこう。
ここでようやく筆者のいわんとするネオリベラリズムの輪郭が見えてきたのであるが、しかしいまだにぼやんとしている。インターネット上の経済特性として"winner takes all"というものがあることは経験的事実から観測されているところではあるが、しかしそれがIT業界の経済構造に妥当するかといえば、即座にそうはいえない。これは純粋に論理の問題だ。
39段落。「そうした世界でネオリベラルな論者であろうとすれば、その視線は強者に向けられるのが普通だろう」。
もうなにがふつうなのかはわからない。そしてネオリベラリストであったひろゆき氏は、ネオリベラルな論者になろうとしていることになっていて、その視線は、定義がなされていないのでどういうことかわからないが、強者に向けられるのがふつうであるそうだ。
強者に向けられる視線というのもさまざまあって、羨望、敵対、同一視など、すくなくともみっつは思いつくのだが、どのような意味での視線を向けることがふつうなのかは、この文章のなかでとくに解説されることはない。
そして文面以上に筆者の考えを読み取ろうという気持ちもだいぶ削がれているので、視線についてはもう深追いしないことにしよう。
「しかし彼の議論は、むしろ弱者、それも彼なりの見方に基づく弱者としての、いわば『ダメな人』に向けられることが多い」
向けるものが「視線」なのか「議論」なのかははっきりさせてほしいが、後段のほうは語りかける対象という意味で、議論を向けているらしい。
もうこれまでの議論の進め方がズタズタなので、ここで書かれてることは、それこそ筆者の「感想」としか読みようがないのだが、感想文というジャンルはこの世界に間違いなく存在するので、感想が記されること自体を否定することはできない。
ただそれが論述文のスタイルを模倣していることは批判しなければならないし、これまでも批判してきた。
しかしここにはより大きな問題がある。読者の方には注意しておきたいのだが、これ以降、私が引く「ひろゆき論」の文章には、ひとによってはとてつもなく不快に思う表現が含まれている。その端緒が上の文章に含まれる「ダメな人」という言葉だ。
この言葉を筆者はひろゆき氏の言葉として引用している。しかしこれまでも確認したとおり、筆者はひろゆき氏の著作から、ときには表紙や帯文から、言葉を引き抜き、もとあった文脈は無視して、パッチワークを行っている。
そして作られるのはひろゆき氏が言っていないことを、ひろゆき氏が言ったかのようにみせるための卑劣な文章である。そこに書かれた言葉はもうひろゆき氏の言葉ではない。著者がひろゆき氏に言ってほしいと思っている言葉だ。
以降の段落では「ダメな人」よりも、さらに苛烈な、それこそ差別的とすらいえるような文章がつづくのだが、そのような文章に耐性のないひとは、以降の私の文章は、申し訳ないが読み飛ばしてもらいたい。
その部分は私が「ひろゆき論」をはじめて読んだときにもっとも怒りを感じた部分であり、この批判はそこを批判するためにはじめられたといっても過言ではない。だからこの部分だけを見過ごすというわけにはいかないのだ。ご寛恕願いたい。では進もう。
40段落。あまりにもひどい文章だが全文を引こう。
「たとえば「コミュ障」「ひきこもり」「なまけもの」などがその代表格だが、さらに彼が生まれ育った東京・赤羽の団地には、「社会の底辺と呼ばれる人たち」がたくさんいたという。「生活保護の大人」「子ども部屋おじさん」「ニート」「うつ病の人」などだ(文献2、5、4)」
なぜこの文章を私がひどいと思うかを解説する。それはここにカッコ書きであげられた、ほとんどの言葉が、より穏当な言葉に言い換えることが可能だからだ。
ここにあげられた言葉のほとんどは蔑称である。しかし著者はその蔑称を、ひろゆき氏の言葉として引き、そしてそのような蔑称を文章に登場させることに対する読者へのサポートを一切行っていない。
これまでどおりひとつひとつ出典を確認していこう。たしかにひろゆき氏の著作にはこれらの言葉が書かれている。しかしひろゆき氏は著者とは全く異なる文脈でこの言葉を使っている。
まずさっそくで恐縮なのだが「コミュ障」は「文献」としてあげられたひろゆき氏の著作のなかに一度も登場しない。
であるから、そこに続く「ひきこもり」や「なまけもの」という言葉に付されたカッコも、引用ではなく強調のためのものであろう。
しかし、その直後には引用のためにカッコを利用していて、個別にどこが引用でどこが強調なのかということも示していないので、ここにはそのような言葉をひろゆき氏が言ったことにしたいという著者の意図がみてとれるだろう。
もしその意図がないのだとすれば、たんに著者の文章作成能力が低いというだけの話になるのだが、まがりなりにも自身の研究結果を本として出版していて、教鞭をとり、そして雑誌に文章を掲載しているので、文章作成能力を必要以上に低く見積もる必要はないだろう。
ただにもかかわらず文章作成能力が低いだけという話なのであれば、なぜその文章を雑誌に掲載したのか、という版元の判断能力の問題になる。
いずれにしてもだ。そのような意図のもとで言葉にカッコが付されている可能性がある以上、私は一応それぞれの文献に「なまけもの」と「ひきこもり」という言葉が含まれているかは確認する必要がある。
まず「なまけもの」という言葉は三冊のいずれにも登場しない。ひろゆき氏の2020年の著作に『なまけもの時間術 管理社会を生き抜く無敵のセオリー23』というものがあるが、まさかそこから引いてきたわけではあるまい。
参考文献にこの本は含まれているが、しかしこの段落の「文献」という部分にはこの本の参照指示が含まれていない。うっかりだろうか。
つぎに「ひきこもり」だ。この言葉はのちに引かれている言葉が含まれる部分とも重なるので長めに引用しよう。
「いま、ネット上では「子ども部屋おじさん」というスラングが流行っている。
20歳を過ぎても実家に住み続け、子ども部屋にいるまま、勉強机やベッドを使い続けて30歳、40歳、50歳……になっていく独身の人たちのことだ。
晩婚化と高齢化が進み、子ども部屋おじさんが増えていっている。
こうやって新しい言葉が出てくると、新たな人種が現れた気がするだろう。
草食系男子、毒親、ひきこもり、モンスター部下……。
しかし彼らは、あるとき突然現れたのではない。
「昔からずっといた」のだ。
ニートという言葉も、2004年頃に使われはじめた言葉だが、それ以前にもニートはいたし、江戸時代にもいたし、きっと原始時代にもいた。
急に言葉が生まれて、しかも批判に晒されているときは、こう考えよう。「彼らは太古からずっといた」
幸いなことに桐ヶ丘団地(引用者註:ひろゆき氏が幼少のころ住んでいた場所の近くにあった団地)には、生活保護の大人がすごく多かった。
子ども部屋おじさんも、ニートも、うつ病の人も、僕のまわりにはずっといた。
だから、大人が働いていない状況を、僕は当たり前に感じられる。
[…中略…]
家庭によっては、子ども部屋おじさん・おばさんである息子や娘が家にいることを恥ずかしく思う人たちがいる。
桐ヶ丘団地の場合、子ども部屋おじさんがたくさんいすぎたので、「あそこんちの子は何してんだろうね」「昼間ぷらぷらしてるけど大丈夫かね」と、よその人が日常的に心配する光景をよく目にした。
それがそんなに悪いことだと思っていなかったようで、親御さんたちも隠そうともしなかった。
守らなければならない世間体のラインが、異様に低かったのだ。
[…中略…]
貧乏だった団地の光景は、一周まわっていい環境だったんじゃないかと最近思うようになってしまった。
ただ「昔にもどればいい」と言いたいわけではない。「共同体」のような生態系の中で、競争せずにダラダラ過ごせる支え合いが大事なのではないかと思うのだ。」
――「第1章 団地の働かない大人たち――「前提条件」の話」「子ども部屋おじさん」「守るべきラインはどこにある」『1%の努力』
ここに筆者が引いた「生活保護の大人」「子ども部屋おじさん」「ニート」「うつ病の人」が登場する。
「ひろゆき論」が法外であるために、感動すらしてしまうのだが、ひろゆき氏はこの文章をはじめるにあたり、「こども部屋おじさん」がスラングであること、つまりはそのままの意味で使われてはいけない言葉であることを、明記している。
そしてひろゆき氏は、「ひろゆき論」の著者がするように、これらの言葉を乱雑に登場させるのではなく、しっかりとした文脈のなかに登場させている。
ひろゆき氏はそれらの言葉が指す存在を、自分が実際に接したことがある人間たちとして、そして世間の批判から守るべき対象として、あえて世間で流通している蔑称をもちいて登場させている。そのような蔑称で呼ぶひとたちのほうこそがおかしいのだと。
そしてひろゆき氏はそのようにいまでは世間から蔑称で呼ばれる存在たちが、ふつうに身の回りにいた自身の幼少期をおもいだし、そのような存在たちがダラダラと支え合いながら生活する共同体こそが重要なのだと主張する。そのような意味の転換を行うためにこそ蔑称とされる言葉を用いている。
そこには世間から蔑称でもって名指される存在に対する配慮がある。ひろゆき氏自身が実際どうであるかは、もはや関係がなく、すくなくともこの文章にはそのような配慮がある。ひろゆき氏がしたものなのか、編集者がしたものなのかは、分からない。しかし配慮があるのだ。
転じてみたときに、「ひろゆき論」の著者はどうか。その文章にこのような配慮はあるか。ない。だから批判している。
配慮がないだけならまだしも、その言葉をカッコ書きで使い、ひろゆき氏の言葉であることを不十分な形で明かし、ひろゆき氏が文章のなかで行っている配慮をすべて無化したうえで、ひろゆき氏がこの言葉を蔑称として使っているかのように、あたかもひろゆき氏がそのような存在を見下しているかのようにみせている。
「ひろゆき論」をはじめて読んだとき、私はこの文章に怒りを覚えた。しかしにもかかわらず、私は著者にある程度はだまされていた。どういうことかというと、そのときの私はひろゆき氏の著作を読んだことがなかった。だから、ひろゆき氏もある程度、これらの蔑称が指す存在を見下すような文章を書いているのではないか、と思ってしまった。
しかし実際はまったくちがった。ひろゆき氏の文章には、このような言葉を扱うさいに行われなければいけない配慮と慎みがあった。そのような感覚を共有しているからこそ、私は「ひろゆき論」の文章に怒ったのだ。
ひろゆき氏が「ひろゆき論」のこの部分を読んで怒るかどうかはわからない。ひろゆき氏からみればこの文章の著者などとるに足らない存在だろう。
しかし私は怒る。なによりも私が愛する人文知の、そして一時期はその代表的存在でもあり、その責任を自分でも任じていたであろう『世界』という雑誌のうえに、この文章が載っていて、その文章を少数ではあれ、人文系のアカデミシャンや出版関係者が好意的にとりあげているからだ。
なぜこれほどまでに人文系の人間は愚かになったのか。なぜ「おかしい」と誰も声をあげないのか。私はいつのまにか平行世界にでもやってきたのか。それとも私が見ていないあいだに密かに地盤沈下は進んでいたのか。それがこのタイミングで私の目にも明らかになっただけなのか。わからない。
わからないが、批判しなければいけないことはたしかだ。以前の文章で書いたとおり、のちの世代にこの文章を批判しなかった人間だと扱われることだけはがまんならない。
著者も賛同者もこの文章は読まないかもしれない。実際問題、著者は批判対象であるひろゆき氏の著作を本当に読んでいるかすら怪しい状態だ。であるならば自身の文章への批判文も読まないだろう。
だからこの文章は「ひろゆき論」の著者に向けては書かれていない。声をあげれない者たちにむけて、そして後の世代で人文の世界に参入してくる者たちに向けて書かれている。
おかしいと。この文章はおかしい。そしてこの文章に両手をあげて賛同している人間はおかしいと。ただそれだけを伝えるために書かれている。それ以外の思いは、もはや私にはないのである。
もう予定していた文字数を大幅に超過している。あまりに長すぎては読むのにも苦労するだろう。そのため今回ここで作業を終えたい。次回は4節の残りの部分を批判する。
ここまで読んでいただいた方に感謝する。
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