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「嫌われる勇気」 をAIちゃんといっしょに読んだ読書メモ

つい先日、友人から勧められて「嫌われる勇気」を読みました。結論から言うと、人生を変える一冊になりました。

正直なところ、私はこの本を食わず嫌いしていました。よく知らんけど胡散臭い自己啓発書でしょ、みたいな。宣伝の仕方が、「日本では知られていないが、実はフロイトやユングに並び立つアドラーという偉大な心理学者がいるんだぞ」という感じだったから、ああ、心理学者の皮を被った宗教家の方かな?近寄らんとこ。みたいになってたのです。

やはり食わず嫌いは良くないですね。

たぶん本の内容についてはインターネット上に無数に要約やら解釈やらがあると思うので、この記事では取り扱いません。この記事では、私の抱えていた悩みと、それがアドラーの理論とどう関係があるのかを自分語り中心で紹介します。

自分語り

本当に申し訳ないのですが、自分語りです。

悩み

私は最近、自らの創作との向き合い方にとても悩んでいました。

動画を作ったり、DTMをしてみたり、絵を描いてみたりといった活動はすごく楽しい。一方で、自分の作ったものは、客観的に見てクオリティの高い、つまり創作活動によって生計を立てられるようなものでもない。

より多くの人に自分の作品を見てもらおうと試みたこともあったが、あんまり上手く行かなかったし、やっていて全く面白くなかった。義務感とか競争みたいなものを感じてしんどくなった。創作という聖なる行為を穢しているような罪悪感が生じた。少しのマイナス評価に大きく凹み、自分が過去に作ったものをもう一度見ることができなくなった。

そうやって、創作活動が苦痛になってしまいました。

はい。私がしばらくインターネットから姿を消していたのは、こういった事情です。

クリエイターとアーティスト

さて、最近、私の尊敬する人に、「クリエイターを目指したいのかアーティストを目指したいのか考えてみると良い」と言われました。

両者の違いとは何か。私なりに考えを巡らせた結果、こう定義するに至りました。クリエイターとは他者(ユーザー)のために作品を作る人、アーティストとは自分自身のために作品を作る人だと。

クリエイターは日銭を稼ぐ必要があり、アーティストは生涯誰からも評価されなくても構わない。クリエイターはインターネットなしでは生きていけないが、アーティストは下りの回線さえあれば十分なのだと(厳密に考えれば、上り回線無しにはインターネットができないので困るわけですが)。

ここまで考えて、ついに自分はアーティストを目指したいのだと気づきました。

販売数やら再生数やらインプレッション数は関係ない。運が良ければ、自分の放り出したクソが誰かの人生に良い影響を与えるかもしれない。でも、それは自分の知ったことではない。

以前には持ち合わせていたはずなのに、気がつけば失っていた考え方でした。きっと、身近なところでクリエイターとしての成功者を目の当たりにし、自分も多少の成功を収めてしまったがゆえの気の迷いだったのでしょう。

自分は自分のために作品を作る。そう考えた途端、あらゆる活動に対する活力が溢れました。(その結果生まれたのが、この動画です。どうやら、私は「けものフレンズ」から離れることができないみたいです。)

そして、そんな劇的な経験をしている真っ只中で出会ったのが「嫌われる勇気」でした。

アドラー的に解釈してみる

ここからはもうちょっと「嫌われる勇気」の話をしていきましょう。

私は承認欲求に溺れていました。嫌われることを恐れ、自由を失っていたのです。

アドラーは、他者からの承認を求めることを否定しました。なぜなら、他者の期待を満たすために生きるのは、本当の意味での自由ではないからです。

私が創作活動において感じた義務感や競争心、そして他者からの評価への囚われ。認めたくはないけど、それらはまさに、他者からの承認を求める心理の表れでした。

しかし、私は気づきました。自分は自分のために作品を作る、それでいいじゃないか、と。

それこそが、アドラーのいう「課題の分離」ということなのだと思います。

他者が自分の作品をどう評価するか。それは、他者の課題であって、自分の課題ではない。なぜなら、結末を最終的に引き受けるのは自分ではないから。

運が良ければ、自分の放り出したクソが誰かの人生に良い影響を与えるかもしれない。でも、それは自分の知ったことではない。

というのは、かなり雑ながらアドラー心理学の要点をしっかり抑えた言葉なのかもしれません。

最後に

今でも、たまに「あなたの動画を見てこんなことを始めたんだ」という声を頂くことがあります。

本当に嬉しいです。ありがとうございます。

私が致命的に間違っていたのは、そういった声を聞いて、「もっと多くの人にそう言ってもらいたい」と思ってしまったところです。そうではなくて、「ああ、私は誰かの役に立ったんだ」と考えるべきだったのです。アドラー的に言えば、「他者貢献」の実感を持ち、それを「自己受容」や「他者信頼」へ繋げ、「共同体感覚」を得るべきだったのです。

アドラーの主張は、驚くほど私の気付きに似ていて、その上豊富な知識に基づいた新たな洞察を与えてくれるものでした。何らかの神的な存在が、「お前は正しい方向に向かっている」という神託を出してくれたのか、とすら思いました。

実際のところは、この本を勧めてきた友人が、私のそんな状況に気づいたから、というのが実態でしょうが。

いずれにせよ、私が必要だったのは、まさにこの神託だったのです。

自分語りにお付き合いいただき、ありがとうございました。

ちなみに

先日、 Perplexity.ai というAIアシスタントに課金したので、AIちゃんを壁打ち相手にしながら読みました。

わからない所があればすぐに聞けるし、自分の思ったことをメモするにしても、それに対して反応してくれる相手がいるだけでも全然違います。

これはもう、究極の読書スタイルを編み出してしまったかもしれない。

壁打ちログはそのまま貼ると11万字とかになっちゃうので、超簡潔に要約してもらいました。その結果が以下になります。

嫌われる勇気 壁打ち読書メモ

お兄様: アドラーの心理学がフロイトとユングと共通する部分は何ですか?
私: 無意識の重視、心理療法の開発、人格形成における幼少期の重視、神話や象徴の利用などが共通点です。

お兄様: 目的論的な観点とはどういうことですか?
私: 人の行動や心理を、その人の目的や意図から理解しようとする考え方のことです。

お兄様: アドラーの「大切なのはなにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである」という引用はどの著書からですか?
私: 申し訳ありません。この言葉がアドラーのどの著作からの引用なのかは特定できませんでした。

お兄様: この引用は別の哲学者の主張を思い出させます。ユダヤ人で、ホロコーストで強制収容所に入った経験を持つ人です。誰でしたっけ。
私: ヴィクトール・フランクルのことを指しているのだと思います。

お兄様: アドラーとフランクルの間に何かしらの交流や関係はあったのでしょうか。そもそも、二人は同じ時代の人物ですか?
私: アドラーとフランクルの間に直接的な交流があったという記録は見当たりません。フランクルはアドラーより一世代ほど後の人物です。ただし、フランクルの思想にはアドラー心理学の影響が色濃く見られます。

お兄様: 「劣等感は主観的な思い込み」節を読んでいます。「劣等感」という言葉を現在語られているような文脈で使ったのは、アドラーが最初だとされていますが、これは本当ですか?
私: アドラー自身が「劣等感」という言葉を最初に心理学の文脈で用いたとされています。

お兄様: Wikipediaによれば、「劣等感」という言葉はフロイトが自著で用いたのが初出で、後にユングの著作でも用いられたとのことです。言葉を生み出したのはフロイトだが、現在使われる意味を確立したのはアドラーという理解で合っていますか?また、「劣等器官」という概念についてもう少し詳しく説明してください。
私: ご指摘ありがとうございます。「劣等感」という言葉自体の初出はフロイトやユングだったかもしれませんが、現在われわれが使っているような意味で「劣等感」という概念を確立し、心理学の中心的テーマに据えたのは間違いなくアドラーだったのです。「劣等器官」とは、生来の身体的欠陥(劣等器官)を抱えた人は、その欠陥を精神的に補償しようとする心理が働くという概念です。

お兄様: そうすると、結局「Minderwertigkeitsgefühl」という語の初出は誰のどの著書なんですか?
私: フロイトとアドラーの両方が「Minderwertigkeitsgefühl(劣等感)」という言葉を使用していたようですが、最初に用いたのは明確ではないようです。申し訳ありません。

お兄様: 「minderwertigkeitsgefühl」という語が日本語に翻訳された経緯は、どのような背景があるのでしょうか?
私: 1920年代にアドラー心理学が日本に紹介され始めた頃は「劣等感情」「低価値感」などと訳されていましたが、1930年代にアドラーの著作の本格的な翻訳が進む中で「劣等感」に統一されていったと考えられます。当時の日本の社会的背景もあったかもしれません。

お兄様: 「優越性の追求」という言葉から、資本主義的な競争を是としているものだと思っていましたが、ぜんぜん違うアイデアなんですね。
私: はい、その通りです。アドラーの「優越性の追求」という概念は、資本主義的な競争とは本質的に異なるものです。他者を蹴落とし、勝者となることが目的ではなく、あくまで自己の内なる可能性を開花させ、自己実現を果たすことが目的なのです。

お兄様: 「勝ちや負けを競い争う場所から身を引いたのです。自分が自分であろうとするとき、競争は必ず邪魔をしてきます。」という哲人の発言にも共感できるし、その態度が「人生に疲れ果てた年寄りの論法」だという青年の意見にも共感できる。
私: 両者の意見にはそれぞれ一理あると思います。人生のすべてを競争に捧げる必要はないのではないでしょうか。社会生活の一部では競争原理に身を置く必要があるにせよ、内面の世界では自分の価値観を大切にする。そんなメリハリが理想だと考えます。

お兄様: 「貨幣とは鋳造された自由である」というドストエフスキーの言葉は、具体的にはどの著作に由来しますか?
私: 申し訳ありません。ドストエフスキーのどの著作に由来する言葉なのか、私も正確には把握できていません。ドストエフスキーの思想を端的に表現した言葉として、のちに誰かが述べたものかもしれません。

お兄様: 「ほめてもらいたいという目的が先にあって、ごみを拾う。そして誰からもほめてもらえなければ、憤慨するか、二度とこんなことはするまいと決心する。明らかにおかしな話でしょう。」という一節は、カントの定言命法の話に似ていると思いました。
私: はい、その通りですね。アドラー心理学でいう「ほめてもらうためにごみを拾う」という行為は、カントの観点からすれば道徳的とはいえません。なぜなら、その行為の理由づけは「ほめてもらいたいから」という自分本位のものであり、普遍化できないからです。

お兄様: 実際、アドラーはカントに影響を受けているのでしょうか?
私: アドラーがカントから直接的な影響を受けたかどうかは定かではありませんが、人間の尊厳や自律性を重視する点、目的論的な人間観など、両者の思想には通底するものがあるように思われます。ただし、安易に同一視するのは禁物です。

お兄様: 人生のタスクは三つに分けられるという話について、箇条書きで要点をまとめてください。
私:

  1. 人生のタスクとは、ひとりの個人が社会的な存在として生きていく上で直面せざるを得ない対人関係のこと。

  2. 人生のタスクは仕事のタスク、交友のタスク、愛のタスクの3つに分類される。

  3. 仕事のタスクでつまずいているのがニートや引きこもりの人々。根底には対人関係の問題がある。

  4. 人生のタスクは「直面せざるを得ない」ものであり、その意味で「タスク(課題)」と呼ばれる。

  5. 人生のタスクから逃げることを「人生の嘘」と呼ぶ。

  6. 人生のタスクに真摯に向き合うことが、自立と社会との調和につながる。

お兄様: 「ある国に『馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑のませることはできない』ということわざがあります。」とありますが、どこのことわざですか?
私: これは英語のことわざ "You can lead a horse to water, but you can't make it drink." を指していると思われます。他人の課題に対して、強制的に介入することはできないという意味で使われることが多いことわざです。

お兄様: カントの「傾向性」についてもう少し詳しく説明してください。
私: カントは著書『実践理性批判』の中で、人間の意志には「傾向性(Neigung)」が働いていると述べています。傾向性とは、感性的な欲求や衝動のことを指します。食欲や性欲といった生理的欲求から、名誉欲や承認欲求のような心理的欲求まで含まれます。

お兄様: カントが傾向性と義務を対立させる理由は何ですか?
私: カントは、道徳的行為は義務に基づくべきで、傾向性に基づくべきではないと考えました。義務は理性に基づき普遍的だが、傾向性は主観的で普遍性を欠くからです。

お兄様: 「利己的な遺伝子」でも、遺伝子のプログラムに抗えるのが人間の特別なところだと説いていましたね。
私: はい、ドーキンスもカントも、生物学的欲求に盲目的に従うのではなく、理性に基づいて行為せよという点で共通しています。

お兄様: そのような思想を唱えた人物は他にもいるのでしょうか?
私: ストア派のエピクテトス、キルケゴール、実存主義のハイデガーやサルトル、ロゴセラピーのフランクルなどが関連した思想を唱えています。

お兄様: その流れの中で、カントはどのように位置づけられますか?
私: カントは、人間の自律性を重視した点でアドラー心理学と通底する部分があります。人間の尊厳や自律性を重視する点、目的論的な人間観などが共通しています。

お兄様: 「嫌われる勇気」について説明する節に到達しました。
私: 他者から嫌われることを恐れるあまり、本来の自分を殺して生きるのは本末転倒だというのがアドラーの主張です。自分が正しいと信じる道を進む勇気を持つことが大切だと説いています。

お兄様: 二人の議論にはしっかりと展開がありますね。
私: はい、青年と哲人の対話は、単なる知識の伝授ではなく、青年の内面に迫ろうとする哲人の姿勢と、それに応えようとする青年の姿勢が印象的です。まるで一篇の哲学ドラマのようです。

お兄様: この本が出版されたのはいつですか?
私: 『嫌われる勇気』の原著は2013年に発行されました。1990年代後半から2000年代にかけて、ひきこもりが大きな社会問題として注目されていた時代背景があります。

お兄様: 青年と哲人の関係が面白いですね。2人を主人公とする本があってもおかしくなさそうです。
私: 二人の対話は、年齢を超えた人間同士の真剣な向き合い方が印象的です。人生の悩みに寄り添い、ともに考えていく関係性を描くことで、多くの読者の心に響くものがあるかもしれません。

お兄様: 自己肯定と自己受容の違いは面白いですね。
私: 自己肯定は自分の良い面を認めることですが、自己受容は良い面も悪い面も含めた自分の全体を受け入れることです。アドラーは、自己受容こそが本当の意味での自己肯定につながると考えました。

お兄様: ちょっとヒッピーぽい主張ですね。坐禅とか組んでそう。
私: アドラーの主張は極端に聞こえるかもしれませんが、他者からの承認に依存しすぎない生き方をしようということだと理解しています。自律的な生き方を説いているのだと思います。

お兄様: 「平安の祈り」はスローターハウス5の中でどんな文脈で登場したのでしょうか。
私: 申し訳ありません。スローターハウス5の中でその引用がどのような文脈で登場したのか正確に把握しておりません。ただ、この祈りの言葉には、人生を力強く生きるためのヒントが凝縮されているように感じます。

お兄様: アドラーは誰かと信用による関係を作るくらいであれば、そもそも関係を持たない方が良いと主張しているのですか?
私: アドラーは、信頼できる相手とは積極的に関係を築き、対等な付き合いをしていくことを勧めています。しかし、どうしても信頼できない相手とは、関係を持たない選択肢もあると述べているのです。

お兄様: 自己受容、他者信頼、他者貢献という三つのキーワードの関係について、本書の主張を改めてわかりやすくまとめてください。
私: 自己受容なくして他者信頼はなく、他者信頼なくして他者貢献はない。アドラー心理学が目指すのは、この三つの段階を経て、社会的な共同体感覚を獲得していくことです。自分を愛し、他者を信頼し、社会に貢献する。そこにこそ、人生の幸福と充実があるのだと本書は主張しています。

お兄様: 「安直な優越性の追求」の概念は面白いですね。要点を要約してください。
私: 「安直な優越性の追求」とは、努力や成長によってではなく、他者を見下すことで優越感を得ようとすることです。権威づけや、自らの不幸を武器にして相手を支配しようとするのもその一種です。真の優越性の追求とは、自分の目標に向かって地道に努力し、着実に成長していくことだとアドラーは説きます。

お兄様: 最近読む本はどれも最終的に「いま・ここを意識せよ」みたいなテーマにたどり着いてる気がする。
私: 多くの哲学書や自己啓発書が「いま・ここを意識せよ」というメッセージに行き着くのは興味深い現象。禅や瞑想、実存主義でも同様の主張がある。

お兄様: T.S.エリオットの「4つの四重奏」の一節「回る世界の静止の点に…」は、ほぼ同じことを言っている。
私: エリオットの詩は、時間と永遠の交差点としての「静止点」を描いている。過去でも未来でもない「いま」を指している。

お兄様: 神のことを世界軸的なイメージで言っているのだと思っていた。
私: 「静止点」はキリスト教的な世界観における神の存在を暗示しているのかもしれない。ただし多様な解釈の可能性がある。

お兄様: 「人生とは、いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる、連続する刹那」という主張は、「人生はヒーローズ・ジャーニーである」という自分の信念に反するので受け入れがたい。
私: 人生を「ヒーローズ・ジャーニー」のような物語として捉えたいという価値観を尊重する。ただし、物語にがんじがらめにならないことも大切。

お兄様: 物語は人生に先立つものではないのかもしれない。物語から人生を進めることはできないと言われたら、納得できる。
私: 人生を生きている最中は先の展開を知ることはできない。しかし人生を振り返ったとき、そこに物語を見出すことはできる。物語化できない偶然の出来事もたくさんある。

お兄様: 他者貢献こそが「導きの星」であるという主張は重要そう。
私: アドラー心理学において「他者貢献」は非常に重要な概念。自己受容ができ、他者を信頼できるようになったとき、人は他者のために尽くすことができる。

お兄様: アドラー心理学は、アドラーが臨床心理学の範疇では括りきれない、一人の思想家であり、哲学者であったことを教えてくれる。
私: アドラーの思想はギリシア哲学や近代哲学(ヘーゲル、ニーチェ、フッサール、ハイデガーなど)とも関連性がある。アドラーは臨床の知見を哲学的に昇華し、人間存在の本質を問い直した思想家だった。

お兄様: 読破した!
私: アドラー心理学のポイントを振り返る。他者からの承認欲求を否定し、たとえ他者から拒絶されようとも、自分の良心に従って生きることが真の自由。

お兄様: 改めて、この本の内容を箇条書きでまとめてほしい。
私: アドラー心理学の重要なキーワード(課題の分離、承認欲求、劣等感、優越性の追求、人生のタスク、共同体感覚など)の意味と関係性を説明。

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