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バレンタインデー side A

 いつもより早めにセットした目覚ましが、静かな部屋に鳴り響いた。目を開けずにのばした右手でその音を黙らせた俺は、ゆっくりとベッドの上で起き上がった。

 首を回して、凝った肩をほぐす。いつもより目覚めの良い頭で、壁にかけられたカレンダーを確認する。好きなアイドルの写真が載ったポスター型のそのカレンダーには、今日の日付に赤マルが打たれていた。二月十四日の金曜日。そう、今日はバレンタインデーだった。

 手早く制服に着替えたあと、二階にある自室から一階へと降りていく。洗面台で顔を洗い、入念に髪型をセットしてから、朝食の用意してあるリビングへと向かった。

「あれ、恭介、今日は早いじゃない」

 リビングへと続く扉を開けた瞬間、そんな言葉が飛んでくる。声の方向へ顔を向けると、我が姉君が先に朝食をとっていた。

「つか、なにその髪型。ダッサ」

 俺が言葉を返す間も与えず、そんな二言目が投げかけられた。人がせっかくいつもより時間をかけてセットした髪型を、バッサリと切り捨てやがって。こいつにはこの髪型の素晴らしさがわからんのか。

 朝から失礼な態度をとる女子大生様には近づきたくもないが、近づかなければ朝食を取る机に座れない。俺はいやいやながらも、姉の向かいに位置する自分の席へと向かった。

「ああ~、そうか。今日はバレンタインデーだもんね。それで朝早くから浮かれてちょっとおしゃれしちゃったのか。うんうん、思春期だね~」

 俺が喋らないのを無視して、姉貴は勝手に話し続ける。その見透かした態度が頭にきたけど、図星を突かれているので何も言い返せない。自分だって、二日ほど前に彼氏への手作りチョコなんぞを作ってたじゃないか。普段は台所に立って料理の一つすらしないくせに、やたら上機嫌に鼻歌まで歌って。

「ま、義理チョコのひとつでももらえるように頑張るんだね。クラス中の女子に土下座でもして頼み込めば、誰か一人くらいはお情けでくれるかもしれないよ?」

 その物言いに、さすがにカチンときた俺は姉貴を睨みつけた。からかうような顔をした姉貴は、お? と驚いた反応を示す。その顔めがけて何か言ってやろうと口を開きかけたところで、俺の前に白米の盛られた茶碗が差し出された。

「余分なこと言ってないで、沙希は早く大学行きなさい。今日は一コマ目から講義なんでしょ?」

 母親がいつの間にか俺の味噌汁とご飯をもってきていた。手際よくそれらを並べると、今度は俺に向かって口を開く。

「恭介も、沙希になんか構ってないでさっさと食べちゃいなさい。いつも遅刻ギリギリなんだから」

 有無を言わせないその言葉に、俺と姉貴はおとなしくしたがった。うちでは基本、母親の言葉は絶対となる。言われっぱなしは悔しかったが、黙って手を合わせたあと、俺は朝食を食べ始めた。

 駅の改札口で友人の中島と待ち合わせし、いつもの電車に乗り込んだ。中島からはいつもはしないはずの香水の匂いが少しだけ漂っていた。すぐさま、 中島も今日という日を意識していることがわかったが、俺たちはバレンタインデーのことについて一切触れずに、他愛のない話を続けた。いつもなら中島がそんな洒落たことをして来ればすぐさまからかうところだが、バレンタインデーという日がそれをさせなくしていた。からかうにしろ冗談にしろ、どんな形でもバレンタインデーという日を意識した途端、恥ずかしさでまともに会話も出来なくなりそうだったからだ。

「あ、中島くん、おはよう」

 そう中島が声をかけられたのは、学校の昇降口、下駄箱の中にラブレターやチョコレートがないのを確認してすこし気落ちしていた時だった。

 声がする方を見ると、女子バレー部の折原早苗が下駄箱の奥に立っていた。他のバレー部の女の子数人と鞄を持ったまま一緒にいる。どうやら登校してきたところ、友達とたまたま出会ったために、そこでおしゃべりに興じていたらしい。

「あ、折原さんおはよう」

 男子バレー部の中島は、気軽に手を上げて挨拶を返す。折原はなんの気なしにこちらに近づいてきた。

「ちょうどよかった。今日、部活ないから渡すタイミング考えてたんだ」

 そう言って折原は、カバンの中からおもむろに一つの箱を取り出す。借りていた漫画でも返すような、気軽な調子で差し出されたのは、綺麗にラッピングされた箱だった。

「はい、チョコレート」

「・・・・・・へ?」

 中島と、そのやり取りをすこし後ろで見ていた俺の時間が止まった。今折原はなんといっただろうか。チョコレート? チョコレートって、あのチョコレート?

 その余りにも気軽に差し出された現実に、頭がついていかない。中庭に呼び出されたり、机の中に密かに入れられていたり、人気のないところで告白と同時に渡されたり。そんな妄想をしていた俺の脳が、いとも簡単に現れたチョコにどう反応していいのか困っている。

 そしてそれは中島も同じようで、差し出された箱をを見たまま固まっていた。やがてゆっくりと、その視線が折原に向けられる。折原は固まってしまった中島をみて、すこし複雑そうな顔をしていた。

「あの、中島くん、大丈夫?」

「え? あ、ああ! 大丈夫、大丈夫。ごめん、なんか急だったから驚いて」

 われに帰った中島が急いで応える。そのキョドリっぷりはここ一年間でおそらく一番のものだった。

「ちょっとぉ、そんな構えられると怖いんだけど。別に本命とかじゃないし、中島くんにだけっていうわけでもないんだから」

 笑いながら言う折原の説明によると、女子バレー部員から男子バレー部員全員に、チョコを渡そうということになっていたらしい。いわゆる義理チョコというやつだ。今日はバレー部の部活動はないため、男子バレー部員がいる各教室を回って渡しに行く計画を立てていたところ、ちょうど中島が登校してきたため、中島にだけ先に渡したそうだ。

「だから、残念だけど中島くんだけにチョコがあるわけじゃないから。あ、お返しは倍返しでよろしく!」

 最後にそういい残して、折原は他の女子部員たちと教室の方へと歩いて行った。あとに残されたのは、チョコレートをもったままの中島と、一部始終を見ていた俺だけ。

「・・・とりあえず、教室に行こうぜ」

 昇降口に立ちっぱなしというわけにもいかないので、俺がそう声をかける。すると中島はチョコレートを持ったままこちらを振り向いて、笑顔でこういった。

「なんか、義理チョコでももらうとすげー幸せだよな」

「もらってない俺に同意を求めるなよ!」

 俺は卓球部だからな!



 午後四時。俺は制服から運動着に着替え、体育館にいた。

 現在の戦績、0勝八敗。戦利品、ゼロ。

 登校時、下駄箱の中にラブレターかチョコが入っていないか期待を膨らますところから始まり、机やロッカーの中に何か入っていないかを密かにチェックし、昼休みや放課後にどこかに呼び出されることを心待ちにしていた。しかし、そのどれもが起こらなかった。そんな俺の「期待シチュエーション」、合計八個。その全てで、俺は負けていた。

 ここまできて、俺は現実というものを直視せざるを得なくなっていた。小説や漫画の中でよく見るような幸せイベントは、所詮フィクションの中だけのもので、現実でそうそう起こるはことはないのだろう。そもそも、チョコレートをもらうどころか、今日一日女子とまともに会話すらしていない。

・・・・・・よく考えたら、普段から女子となんてほぼ会話しないな。

 ここ数日で女子と一番長くした会話は、今日の三限目、国語の時間に教科書を忘れたという隣の席の田井中優香に教科書を見せた時くらいだ。そのときの会話も事務的なもので、たぶん文章にすると一行にも満たない。

 思い返しただけで悲しくなってくるほど女子と縁がない。冷静に考えれば、これではチョコレートなどもらえるはずがないのだ。まともに会話もしたことがない男子のことを一体どこの女子が好きになってくれるというのだろう。

 でも、だからこそ妄想してしまうのだ。実は知らないところで俺のことを一途に想い続けてくれる女子がいて、バレンタインデーという日に告白よろしくチョコレートをくれるシチュエーションを。面と向かって渡されなくても、下駄箱に入れるなり、机の中に入れるなりして、俺のことが好きだと知らせてくれることを。

 はあ~、とため息をついていると、後ろから後頭部を軽く小突かれた。振り向くと、我が卓球部の部長がラケット片手に立っていた。

「ほら、ぼーっとつっ立ってないで、さっさと卓球台出せ」

「・・・・・・先輩は元気ですね」

「俺はさっき、彼女からチョコもらえたからな」

「サラッと自慢話まぜてこないでくださいよ。余計萎えます」

 卓球なんて地味なスポーツをしていると、基本はモテないはずなのに、うちの部長はなぜか女子から人気がある。

「まあまあ、俺たちには卓球っていう恋人もいるんだ。気落ちせずに頑張っていこうぜ」

 卓球はチョコくれないだろ。末永く爆発すればいいのに、リア充め。

 笑いながら去っていく部長の背中に、心の中で毒ついた。



 自宅の最寄り駅で電車を降りる。ホームに出ると、途端に二月の冷気が肌を刺した。

 結局、チョコレートは誰からももらえなかった。部活動が終わったあとや、校門の前で声をかけられるなんてことも妄想したが、そのどれもが空振り。いつもどおりの帰り道を俺は一人で帰っていた。卓球部の仲間や親しい友人は全員帰るのが別方向のため、一人なのが特別なわけではない。慣れているはずなのに、なぜか今日は、寂しさを感じていた。

 人ごみから少し外れて、俺は駅裏の駐輪場へと向かう。

表通りから一本脇道に入ったところにあるその場所は、駅から少し離れているが、確実に自転車を停められる場所として重宝していた。その分人通りはまばらで、表通りの喧騒がどこか遠くに感じられた。

 今日はさっさと帰ろう。自室にこもって、好きなアイドルグループのライブ動画でも見よう。

 俺はポケットからアイポッドを取り出し耳にイヤホンを差し込む。自分の気持ちを無理やり切り替えると、すこしだけ元気が出た。その元気で、足をかけた自転車のペダルにゆっくりと力を込める。そのときだった。

 クイ、と。学生服の後ろを引っ張られる感触があった。何事かとブレーキをかける前に、今度は声が飛んできた。

「し、柴田くん」

 俺の名前を呼ぶその声に、後ろを振り返る。

「あれ、田井中さん?」

 そこには、昼間、教科書を見せた隣の席の田井中がいた。急いで走ってきたようで、首に巻いたマフラーが外れかかっていた。制服の上から着ているコートも前が空いており、息もすこし上がっている。息をするたびに、肩にかけた学生鞄が上下に揺れていた。

「あ、えっと・・・・・・」

 田井中は俺から一歩引いて距離を取る。俺は耳にさしていたイヤホンを外し、自転車から一旦降りた。声を掛けるなりつづきを言い出さない田井中を怪訝に思いつつも、しかし俺は別のことが気になっていた。

「どうしたの? 家ってこっちだったっけ?」

 田井中は俺とは家が別方向のはずだ。何度か学校近くの駅で見たことはあるが、いつも俺とは反対側のホームで電車を待っていた。それが、部活動も終わって帰るばっかりのこの時間に、なぜここにいるのか。

「あ、ううん。こっちじゃないんだけど、えっと・・・」

 どこか挙動不審で、反応がはっきりしない。視線をあちこちに彷徨わせたり、髪の毛をイジったりしている。そんな落ち着かない様子の田井中に、俺は首をかしげた。

 何か言いにくいことでもあるようだ。もしかして、昼間教科書を見せていた時に、失礼なことでもしてしまったのだろうか。あるいは背中に何か落書きでも貼り付けられていて、それを知らずに俺は半日過ごした・・・て、それは部活の着替えのときに気が付くはずだ。というか、それをわざわざ指摘するのは何もこのタイミングでなくてもいい。

 しばらく待っても田井中から続く言葉が来ないため、俺たちの間に微妙な空気が流れる。その雰囲気に耐えられず、俺が「あの・・・」と口を開きかけたときだった。

「あの! もしよかったら! これ、受け取ってください!」

 思いのほか大きな声とともに、目の前に何かが差し出された。その勢いに一歩身を引きながらも、それを見た俺の思考が停止した。

 チョコレートだった。

 今日一日、もらいたいと期待をし、結局諦めてしまったものが、突然今、目の前に差し出された。その現実に、脳の反応が追いついて行っていない。目の前のものがどのような意味を持つものなのか、なかなか理解ができなかった。

「あ、ありがとう」

 頭がうまく回らないまま、とりあえずそんなことを言って包みを受け取った。しかしその手の中にあるものが未だ信じられず、このあとどうすればいいかわからない。朝起きたとき、いや、それどころか数日も前から、チョコレートを渡されたときの対応をシミュレーションしていたのに、いざその場面になるとまったく動けなくなってしまっていた。

「そ、その、私あんまり作ったこととかないから、美味しくないかもしれないけど・・・」

「い、いや、全然! もらえただけでも、すごく嬉しいから!」

 しどろもどろに、それでもなんとかそんな言葉を返す。田井中の言葉から察するに、どうやら手作りのようだ。そんなことを考えて嬉しさと緊張が一段とます。

 そのとき、俺はふと目の前の田井中の変化に気がついた。今まで緊張してこちらを見もしなかった田井中が、俺の言葉に少し驚いたように目を見開いたのだ。そして。

ゆっくりと、笑顔を浮かべた。

「そっか。なら、よかった」

 そんな言葉とともに浮かべた表情は、恥ずかしさと緊張でガチガチのものだった。混乱している俺の頭でも硬い笑顔だとわかるようなものだった。けれど、その顔が、田井中の素直な気持ちの現れにも見えた。

 その表情に、俺は思わず見入ってしまう。俺たちの間に再び沈黙が降りた。すると、田井中が不意にわれに返って、笑顔を引っ込めてしまった。みるみる顔が真っ赤になったと思ったら、下をむいて俺からその表情を隠してしまう。

「あ、その、ごめん。じっと見ちゃって」

「う、ううん。大丈夫」

 田井中の顔を思わず見つめてしまっていたことに気づいて、俺は慌てて謝る。なんとなく気まずくて、俺も田井中から顔を背けてしまった。再び、俺たちの間に沈黙が降りた。

 どれくらいそうしていたのかわからない。とても長く感じられたけど、しかし実際はとても短かったかもしれない。先に沈黙を破ったのは、田井中の方だった。

「そ、それじゃ。また月曜日にね」

「え? あ・・・」

 俺は何か声を掛けようとしたが、田井中は既に背中を向けて走り出してしまっていた。その背中に、俺は力なく手を伸ばしたまま固まってしまう。

 あとに取り残されたのは、無様に立ったままの男子高校生と、自転車だけだった。

 


 ビニール袋に、一個一個カラフルな包みで丁寧に包装されたチョコレートが数個入っていた。詰める際に込められた想いがなんとなく察せられる。

 家にどうやって帰ったかは覚えていない。気づいたら自分の部屋に居て、田井中からもらったチョコレートを机において眺めていた。

 こうして目の前にあっても、未だにこれが現実だという実感がわかなかった。さきほど田井中と会って、直接チョコレートを渡されたことすら夢だったように思える。今まで感じたことのない気持ちが、この現実を素直に受け入れることを邪魔していた。嬉しさと、気恥ずかしさがごちゃごちゃになった心を、どう自分の中で処理すればいいのかわからない。

「ダメだ。考えがまとまらない」

 結局、俺はまだまだガキなのかもしれない。もっと人生経験を重ねて、大人になれば、こんな気持ちの扱い方にもなれるのだろう。そうすれば、今日みたいにとっさにチョコを渡されても、かっこよく受け取って、何気なくお礼を言って、そして恋愛が始まる。そんなありきたりな流れを作れるのかもしれない。

 今回チョコレートをもらって得たのは、自分がまだまだ未熟だったという現実だけだった。

「ま、とりあえず一つ食べてみるか」

 俺は一人言をいって、袋に手を伸ばす。せっかくもらったチョコレートだ。ありがたくいただかなくては。

 丁寧に包まれた包装を、ゆっくりと解いていく。やがて一口大の丸いチョコレートが姿を現した。頂きます、と手を合わせて口の中にいれる。

「・・・・・・甘い」

 初めての恋の味は、俺にとっては甘すぎてゆっくり味わうことができなかった。

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