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バレンタインデー side B

 朝、いつもより十五分早くセットした目覚まし時計のベルをとめる。

 緊張しているせいか、いつもよりスッキリと目が覚める。ベッドの上で小さく伸びをして、枕元に置いてあるデジタル時計で日付を確認した。

 今日は二月十四日。勝負の日、バレンタインデーだった。



 「あら、おはよう、優香。今日は早いのね」

 制服に着替えて一階のリビングに降りていくと、お母さんがまだ朝食を作っているところだった。お父さんも、今日は自分の席で新聞を読んでいた。いつも私が起きる時間には仕事に出発しているのだが、それだけ私の起きる時間が早かったということだろう。

「うん、ちょっと今日はね」

「ご飯もうすぐできるから、ちょっとだけ待っててくれる?」

 お母さんの言葉に頷いて、私は自分の席についた。私の適当な言葉にも、お母さんはそれ以上追求しない。お父さんとも、「おはよう」とだけ挨拶を交わしてそれ以上会話はなかった。もともとそんなに話をする方じゃないけど、それが今はありがたかった。

「早めに起きるって教えてくれたらちゃんと間に合うようにご飯作ったのに。学校にも早い時間に行くの?」

 お母さんが台所から声をかけてくる。私はその問いに少し考えてから、首を横に振った。

「ううん、どうしても早く行かなきゃいけないわけじゃないから、焦らなくて大丈夫だよ」

 早めに起きたのは、朝、身だしなみを整える時間をとりたかった部分が大きい。早く学校に行くことも考えたが、いろいろ考えて、それはやめてしまった。

「そう? ならいいけど」

 少し納得しない様子ながらも、お母さんはそれ以上何も聞かず、だまって朝ごはんを作ってくれた。



 私には好きな人がいる。同じクラスの、柴田恭介くん。卓球部の一年生エースだけど、どちらかというとまじめで、大人しいタイプ。クラスでも特別目立たない彼のことが、私は好きだった。

 今まで男の子と付き合った経験なんてないし、そもそも好きになったこともほとんどなかった。ドラマや小説で恋がどんなものか知っていたつもりだし、何度か「これがそうかな」って思うような経験はあったけど、今思うとそれは錯覚だった。柴田くんのことを好きになってから、私は「恋」というものを本当の意味で知った。

 彼のことを思うと胸が苦しくなって、ドキドキして、でもそれは全然嫌じゃなくて。その気持ちをどう扱っていいのかもわからないまま毎日をすごし、気づけば彼のことを目で追っていた。彼と話してみたい。彼に近づきたい。でも、そうすると心が破裂してしまいそうな。そんな矛盾した気持ちが、私の中で暴れていた。

 彼に自分の気持ちを伝えようと思ったのは、彼と席が隣同士になったときだった。それは年が明けてから初めての席替えの時。一月ももう終わりというその日、二ヶ月に一回の席替えで、私は彼の席の隣となった。もう、幸せすぎて気を失ってしまうかと思った。

 でも、その気持ちも一瞬だった。毎日彼の隣にいるのに、彼と特に会話をするわけでもない。彼との距離が前よりも遠く感じて、胸のドキドキがどんどん苦しいモノへと変わっていった。自分の気持ちを抑えるのが、こんなにも苦痛を伴うものだと初めて知った。

 だから、私は決意した。私の気持ちは届かないかもしれない。フラれてしまうかもしれない。そうなったら自分がどうなってしまうかなんて想像もつかなかったけど、今のまま気持ちを抑えておくことにも耐えられなかった。

 告白の結構日は二月十四日。バレンタインデーにチョコレートを渡し、自分の思いを告げるのだ。

 チョコレートは、面と向かって直接渡そうと考えていた。机や下駄箱に入れておくという方法よりも、面と向かって渡されるほうがいいだろう。だから、彼をどこかに呼び出して、二人きりになろうと思った。

 ただ一つ問題を上げると、私が彼の連絡先を知らないことだった。まさか面と向かって、来て欲しい場所を伝えるわけにもいかない。それこそ下駄箱や机の中に手紙を忍ばせることも考えたけど、学校というのは常に人の目がある。特に女の子は周りをよく見ているから、自分以外の机に何かものを入れようものならすぐに変な噂がたつ。それだけは避けたかった。

 だから、私はひとつ大胆な作戦を考えた。彼の持ち物に、ごく自然にメッセージを忍ばせる作戦を。

 三時間目。始業のチャイムがなって先生が教室に入ってきたのと同時に、私は教卓へ向かう。先生が始業の合図をする前に、私は切り出した。

「すいません、先生。今日、教科書を忘れてしまいました」

「そうか。それじゃ、隣の席のやつにでも見せてもらいなさい」

 先生はそれだけ言うと、すぐさま学級委員に号令をかけるよう指示を出した。私は一度頭を下げてから、窓際の自分の席に戻った。

「ごめん、柴田くん。今日教科書忘れちゃったから、見せてもらっていい?」

「いいよ」

 緊張が悟られないように口にしたお願いの言葉には、すぐさま返事が返ってきた。お礼をいって、私たちはお互いに机を寄せる。中学校までは男女で机をくっつけていたのに、高校になったとたんお互いに机を離して座るのも変な気がしたが、それが今はありがたくもあった。

 普段机を離している分、こういう時に彼との距離が縮まって、幸せな気分になれるから。

「汚いメモとかあって見にくいかもしれないから、こっちこそごめん」

「大丈夫、ありがとう」

 教科書をお互いの机の真ん中に広げながら、柴田くんが一言添えてきた。彼をいつもより近くに感じて、メモどころか、教科書の文字も頭に入ってこない気がした。

 作戦の出だしは成功した。あとは隙を見て、彼の教科書にあらかじめ用意してきた手紙をこっそり挟んでおく。これが私の考えた作戦だった。

 そこからはお互い言葉を交わすこともなく、静かに授業を受ける時間だけが過ぎた。教室には先生の話す声と、ノートを取るための鉛筆の音が響く。運動部の子の中には疲れているのか、机に突っ伏して寝てしまう子もちらほら。いつもと変わらない授業風景の中、私の心臓だけがドキドキいっていた。その音が漏れて周りに聞こえてしまうのではないかというくらい、緊張しっぱなしだった。ちらちらと柴田くんの様子を伺い、教科書に手紙を挟み込むタイミングを伺う。

 そしてそれは、偶然やってきた。授業終了の十分前。少しずつ焦りだしていた頃に、教室の後ろの方から少し呻くような、変な声がいきなり聞こえた。みんながびっくりしてそちらを振り返る。声の主は、どうやら机に突っ伏している男子のようだ。

 先生がひとつため息をついて、教室の後ろの方まで歩いていく。先生が軽く机を蹴ると、男子はびっくりして顔を上げた。

「可愛い寝言だったな、的場」

「・・・すみません」

 先生と男子のやりとりに、教室が笑いに包まれた。みんながそちらを向いているそのとき、私はすぐさま手紙を取り出して、そっと柴田くんの教科書に挟み込んだ。二つ折にし、多少の厚みを持たせたメモ用紙が、彼の教科書にすっぽりと隠れた。

「じゃあ、眠気覚ましに教科書二百三ページの二行目から、立って音読してもらおうかな」

 先生がそう言って教卓の方へ戻っていく。その一言で教室の空気が授業へと再び切り替わる。私は恐る恐る、横目で柴田くんの様子を伺った。

 ・・・大丈夫。バレてないみたい。私はそっと胸をなでおろしながら、やっと授業に意識を向けることができた。



 手紙に書いた時間は、放課後の午後六時十分。場所は北棟二階の空き教室だった。部活動が終るのが六時だから、柴田くんが部活動を終えたあとに来れる時間を待ち合わせの時間に指定しておいた。

 緊張しながら教室の時計に目を向けると、六時五分を示していた。校内には生徒の下校を促す放送が流れている。私の心臓はどんどん早鐘を打っていた。

 落ち着いて待つことができず、私は教室の中をウロウロと歩き回る。何気なく窓の外を見ると、下校中の生徒が校門から出ていく様子を見ることができた。ぼんやりとそれを眺めていると、私の目がある人物に釘付けとなった。

 柴田くんだった。卓球部の友達数人と一緒に、歩いて門を出ていく。その光景を見て、私は自分のカバンを引っつかみ教室を飛び出した。

 柴田くんがあそこに居るということは、私のいる教室に来ることはないだろう。もしかして、手紙に気づいていないのだろうか。それとも、気づいた上でなお、呼び出しに応じていないのだろうか。国語の教科書に手紙が挟まっていたことを考えれば、差出人が私だということは容易に推測できる。それを知って帰っているのであれば、既に彼の中で答えは出ていて、私はフラれてしまったことになる。

 いや、いくらなんでも、柴田君は手紙を無視するような人じゃない。

 私は自分にそう言い聞かせ、下駄箱でローファーに履き替えると、学校を飛び出した。学校の最寄駅までは徒歩で五分ほど。早くしなければ、柴田くんが帰りの電車に乗ってしまう。

 駅までの道は、下校中の生徒で溢れていた。柴田くんの姿はすでに見えなくなってしまっている。私は人の間を縫うように、彼の後を追った。

 彼の姿を見つけたのは、駅に到着してからだった。改札口を通ってホームに出ると、反対側のホームに電車を待つ柴田くんが一人立っていた。さきほど連れ立っていた卓球部の友人は、全員こちら側のホームで雑談にふけっている。どうやら帰りの方向が逆のようだ。今ならあるいは、声を掛けることができるかも知れない。

 そう希望を持ったのも束の間。私が反対側のホームへわたる階段へと足をかけたとき、柴田くんが乗る電車がホームに滑り込んできた。それをみて、私は急いで階段を駆け上がる。待って、と口から小さな声が漏れた。電車の発車を知らせる笛の音が聞こえる。待って、と、今度は先程より大きな声が口から出た。

 私は必死に階段を駆け下り、無我夢中で電車に飛び乗った。

 私を吸い込むように、扉が背後でしまる。私は荒い息をしながら、胸を抑えて周りを見回した。会社帰りのサラリーマンや下校中の学生に混じって、柴田くんの背中を見つけた。私がいる車両の一番端。こちらに背をむけて、扉に半ばもたれかかるように立っている彼は、ぼんやりと外を眺めていた。

 荒い息を整えながら、わたしは次の行動を決めかねていた。思わず電車に飛び乗ってしまったが、ここからどうすればいいのかわからない。まさかこんなところでチョコレートを渡すわけにも行かず、かと言って私がここにいるうまい理由を思いつくこともできない。今まで駅で何度も顔を合わせているから、私の家が彼と逆方面であることは知られているはずだ。それにもし、彼が手紙を読んだ上でここにいるのならば、それは既に私への答えを示していることになる。フッたはずの相手がここまで追いかけてきたと知れば、引かれてしまう可能性もあるだろう。

 そんなことをあれこれ考えて動けないでいる間に、四つ目の駅で電車が止まった。扉が開くと、柴田くんは学生カバンを肩にかけ直して扉から出て行く。それを見て、私も慌てて電車を降りた。

 改札口へと流れていく人ごみの中、彼の背中を追いかける。なんでこんなことをしているのか、自分でも分からなくなっていた。それでも私の足はひたすら彼を追い続けていた。駅の窓口で清算手続きを済ませ、先に駅から出て行ってしまった柴田くんの姿を捜す。駅の裏側へと歩いていく彼の背中を、かろうじて見つけることができた。私はすぐさま走り出す。

 追って行ってどうするかなんてわからない。ただ自分の気持ちは、とにかく彼に追いつくことだけを叫んでいた。チョコレートが入っているカバンの紐を握る手に、思わず力がこもった。

 柴田くんは駅の裏側にある駐輪場から、自分の自転車を引っ張り出していた。あれに乗られてはもう彼に追いつくことはできない。

「待って」

 走りっぱなしで苦しい息を振り絞り、なんとか声を出す。しかし、息も切れ切れの私の声は、柴田くんに届いていないようだった。彼の足が、自転車のペダルにかかる。待って、と今度は心の中でつぶやいてから、彼の背中に右手を伸ばした。

「し、柴田くん!」

 制服のそでを引っ張る。やっと届いた私の言葉に、彼が振り返った。その表情が、すぐ驚いたものになる。

「あれ、田井中さん?」

 彼と私の目が、バッチリとあった。その瞬間、今まで隠れていた羞恥心や不安感が一気に勢いを取り戻す。自分の中で、彼を好きだというどうしようもない気持ちが暴れだす。心臓が、走ったこととは別の意味で早鐘を打ち出すのがわかった。

「あ、えっと・・・・・・」

「どうしたの? 家ってこっちだったっけ?」

 思わず一歩下がってしまった私に、自転車を降りて歩み寄ってくる柴田くん。どうしよう、視線を合わせることができない。

「あ、ううん。こっちじゃないんだけど、えっと・・・」

 いざ追いついたのはいいものの、ここからどうするかなんて考えていない。

 中途半端な答えが口から漏れたあと、会話が止まってしまって、私と柴田くんの間に気まずい空気が流れ始めた。なにか言わなければいけないと思うのだが、なかなか言葉が出てこない。彼が不思議がってこちらを見ている。その視線を意識するだけで、恥ずかしいのか、嬉しいのか、怖いのか、よくわからない感情の波が私の中を暴れまわった。胸が、ただとにかく苦しかった。

 この苦しさを、今までどれだけ味わったことだろう。柴田くんのことが好きで好きでどうしようもなくて、自分の気持ちを押さえておくことに耐えられなくて。だから、わたしは今日ここにいる。ぐるぐると渦を巻く感情が私の胸の中でピークに達するのと、彼が言葉を発したのはほとんど同時だった。

「あの・・・」

「あの! もしよかったら! これ、受け取ってください!」

 カバンから、チョコを取り出して、早口でそれだけを言った。

 そのまま、何分たったかわからない。とっても長い時間、下を向いたまま、彼にチョコレートを差し出して固まってしまっていた気がする。

「あ、ありがとう」

 そんな言葉とともに、私の手から、彼の手へとチョコレートが渡った。そこから再び、私の中で時間が動き出す。届いた。とうとう私の想いを、彼に伝えることができた。

 しかしそんな達成感を感じている余裕は私になかった。心の中では自分の気持ちを伝えてしまったという羞恥心と、これから返ってくるかも知れない答えに対する恐怖に、胸がいっぱいだった。

 ちらりと柴田くんの様子を伺うと、いきなりのことに戸惑っているようだった。視線を彷徨わせて、私からのチョコレートを受け取ったままの姿勢で固まってしまっている。私が作ったチョコレートを大事そうに持ったその様子をみて、恥ずかしさが余計に膨らむ。

「そ、その、私あんまり作ったこととかないから、美味しくないかもしれないけど・・・」

 それは本当のことだったし、彼にあまり大きな期待を抱かれても困ると思ったから口にした言葉だった。今更ながらに、もっと味見をしておけばよかったと思った。

「い、いや、全然! もらえただけでも、すごく嬉しいから!」

 しかし、柴田くんから返ってきたのはそんな言葉だった。

 そして、たったそれだけの言葉に。

 私の中の何かが、満たされた気がした。

 彼から答えを聞いたわけでもない。私のことを彼がどう思っているのかもわからない。それでも、その言葉で、自分の気持ちをしっかり受け取ったと、そう言われた気がしたのだ。

「そっか。なら、よかった」

 自分でも信じられないくらい、自然とそんな言葉が口から漏れた。まだ緊張してるけど、それでも、やってよかったと思うことができた。

 ふとわれに帰ると、柴田くんが、私の顔を見入るように見つめていた。その視線にさらされて、顔が一気に熱くなるのを感じる。私は彼から顔を隠すように、思わず顔を伏せた。

「あ、その、ごめん。じっと見ちゃって」

「う、ううん。大丈夫」

 彼に顔を見つめられただけで、私の羞恥心は今日の最高潮を迎えていた。まだ彼の気持ちをしっかりと聞いたわけではないけれど、それ以上そこに居ることは無理だった。

「そ、それじゃ。また月曜日にね」

 わたしはそれだけ言うと、踵を返して駅へと走り出す。柴田くんがなにか言っていた気がしたけど、もう振り返ることはできなかった。



 電車に乗っている間も、私は落ち着かなかった。先程のやり取りを思い出しては、恥ずかしさで叫び出しそうになった。周りの人からは、挙動不審な女子高生だと思われていたかもしれない。

 電車から降りて、自転車に乗って家まで十分。庭に自転車を停めてから玄関を潜り、二階へと向かう。お母さんが一階でなにか言っていたけど、耳には入らなかった。

 部屋に入って電気をつけると、いつもどおりの部屋が私を出迎えた。私はカバンを床に放り出すと、ベッドの上に倒れこむ。そこまできて、私の緊張の糸がぷっつりと切れた。

 いろんな感情が溢れてきて、涙として私の頬を伝う。フラれたわけでも、嫌われたわけでもない。むしろ満足な結果を得られたと自分では思っていた。嬉しさと、恥ずかしさと、今日一日溜め込んでいた恐怖が、私の中から抜け出ていくようだった。

 しばらく泣き続けて、やがて涙が止まってから、私は起き上がる。鏡を見ると、涙で濡れた私のみっともない笑顔がそこにはあった。涙の残滓が、口の中に入ってくる。

「・・・しょっぱい」

 初めての恋と告白は、私にそんな感想を残した。

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