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彼の秘密

 彼には大きな秘密がある。親にも友達にも隠している。誰にも言えない。誰にも言っちゃいけないからだ。だからずっと自分の中に閉じ込めている。

 彼に大切な人ができた。とってもとっても大好きな人ができた。彼女と仲よくなればなるほど、彼は彼女に秘密を抱えていることが苦しくなった。だからある日、彼は勇気をだして彼女に打ち明けた。今まで誰にも言わなかった、大きな秘密を。
「俺、じつは、ヒーローなんだ」
 彼女はぽかんとした。そして吹き出した。きゃはは!とおかしそうに笑って、彼を見つめた。
「それ、なんの冗談?」
 彼は説明した。一生懸命伝えた。今まで助けてきた人たちのことを。でもヒーローだから正体を明かせないことを。
 彼女の顔から笑顔が消えた。彼の顔を窺うように見て、息が抜けるような笑いと一緒に、どうしたの?と言った。
 彼は傷ついた。今までで一番悲しかった。勇気をだして教えた自分の大きな秘密を、彼女は笑った。まるで気がおかしい人を見るような目を向けてきた。
 彼はなにも言わずに立ち上がり、彼女の前から消えた。泪がこぼれる前に。
 彼は自分がヒーローだということが嫌になった。ヒーローでなければ、彼女とずっと仲よしでいられたはずなのに。彼女のあんな顔を見ずに済んだのに。
 だから彼はヒーローをやめた。
 道に迷っているお年寄りを見かけても、転んだ人を見ても、誰かが暴力を振るわれていても、泣いている人がいても、妊婦さんが電車で立っていても、彼は知らんぷりした。
 だってもうヒーローじゃない。だってもうヒーローじゃない。だってもうヒーローじゃない。そう言い聞かせて。
 ヒーローをやめた彼は、どんどん自分が嫌になった。ヒーローだった自分を嫌に思う以上に、嫌になった。
 彼は夜道を歩いていた。するとどこからか叫び声が聞こえてきた。女の子の声だ。気づいたら彼は走っていた。声のするほうへ、景色を吹き飛ばすほどの速さで。
 女の子は中腰になり、奥へと連れ込もうとする男に抵抗していた。彼の足音に気づいたのか、男と女の子が彼を見た。彼と女の子の目が合った次の瞬間にはもう男は倒れていて、彼の強さに女の子は目を丸くしている。
 彼は強い。だってヒーローだから。彼は名乗らない。だってヒーローだから。
「大丈夫かい?」
 彼が声をかけると、女の子は目が覚めたように目をぱちくりさせて、ひとつうなずいた。そんな女の子に笑いかけ、彼はあっという間にその場から立ち去った。女の子は家に帰ってからようやく、ありがとうと言うのを忘れたと気がついた。
 彼は公園にいる。彼は悩んでいる。ずっと悩んでいる。とってもきれいな青空を見上げて、なにかを問いかけている。
「あの」
 そばで声がして視線を下げると、そこに女の子が立っていた。彼が気づく前に、女の子が訊く。
「あの、この前、助けてくれた方ですよね?」
 まずい、と彼は思った。ヒーローは正体がバレたらいけないのだ。
「あたし、あのとき、お礼を言えてなくて」
 彼が否定する前に、女の子はそう言った。女の子は顔を赤らめながら、でもまっすぐ彼を見つめている。
「本当にありとうございました」
 膝に鼻がくっつくぐらい頭を下げる女の子。この女の子に嘘はついちゃいけないと思った。この女の子はきっと秘密を守ってくれると思った。だから彼は素直に認めた。胸がドキドキした。秘密をバラしてしまうドキドキと、なんだかよくわからないドキドキ。
「きみになにもなくてよかった」
 女の子は微笑み、そして秘密を打ち明けるように呟いた。
「あのとき、あなたが突然あらわれて、悪い人を倒して、なにも言わずに立ち去って、まるでヒーローみたいでした」
 彼は女の子を見つめた。女の子の大きな瞳も彼を見ている。
「あたしにとっては『みたい』じゃなくて、本当にヒーローでしたけど」
 女の子の花のような笑顔がきらきら咲き、彼の心に光が射す。ゆっくりと光に満たされ、それは眩く輝いた。

 彼には秘密がある。たった一人だけ、その秘密を知っている。

おわり


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