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インディゴブルー

 鳥になりたい。小さいころそう願っていた。
 鳥のように羽ばたき、空を舞い、行きたいところへ。
 どこまでも。

 小学三年生のとき、排水路に落ちている鳥のひなを見つけた。その日は雨が降っていて、ひなはみすぼらしいほどに濡れていた。ピーピー鳴くこともなく、ただ排水路に落ちていた。僕は傘を顎と肩で挟み、その場にしゃがみこんでひなを拾い上げた。死んでいると思ったのに、ひなからはトクトクと脈打つ振動がした。とても弱いトクトク。
 ランドセルの横にぶら下げた体操着入れから体操着を取り出し、ひなをそっと包んで、僕は駆けた。ひなを傷つけないように、手の位置は固定したまま、傘は顎と肩で挟んだまま、全速力で駆けた。
 ピンポン、ピンポン。
 丸いおへそみたいなボタンを押すと、いつも二回ピンポンと鳴る。十秒ぐらいして、ガシャンと鍵が開く音がして、おばあちゃんが顔を出した。おばあちゃんと言っても僕の本当のおばあちゃんじゃない。僕のうちの隣の隣の、もうひとつ隣の大きなおうちに住むおばあちゃん。おうちはとても広いけど、おばあちゃんと同じぐらい古いおうちだ。
「おや、びしょ濡れじゃないか。どうしたんだい」
「これ」そう言って体操着を差し出した。
「ん?体操着?どうしたの?汚れちゃったの?」
「違うんだ」手で包んでいた体操着をそっと開いた。「落ちてたの」
 おばあちゃんははじめ何のことだかわからなかったけど、首に下げていた眼鏡をかけたら、やっと僕の手の中にいるひなに気が付いた。
「あらあらあら」
 おばあちゃんはその場に座ろうと腰をかがめながら、僕の手から体操着ごとひなを受け取った。
「死んじゃった?」
 僕の言葉におばあちゃんは答えず、慌てたように、でもそおっと、ひなを抱いて家の中に入っていってしまった。僕も慌てて長靴を脱いで、おばあちゃんの背中を追った。
「ねえ、死んじゃった?ぼく、大事に包んでたんだけど、ねえ、死んじゃった?」
「大丈夫、まだがんばって生きてるよ」
 新しいタオルにくるまり、ひなはかすかに震えている。
「でもだいぶ弱ってるから、元気になるかはおばあちゃんにもわからない」さみしそうに笑って、おばあちゃんは僕の頭に手を置いた。「ちょっとこの子見ててくれる?この子のごはん用意してくるから」
「うん、わかった」
 それからおばあちゃんは、どろどろした得体の知れないものを器に入れて戻ってきた。手には注射器みたいなものも持っている。
「それなあに?」
「これ?これは鳥の子供にごはんを食べてもらうための道具。むかし、おばあちゃんちにも鳥がいたことがあってね。捨てたと思ってたけど、ちゃんと引き出しに入ってた。取っておいてよかったよ」
 おばあちゃんはその道具にどろどろしたものを詰めて、ひなのくちばしに持っていった。つんつんとやさしくくちばしを叩き、ごはんだよって教えている。辛抱強く同じことを繰り返してると、ひなのくちばしが少し開いた。
「よかった、少し食べてくれた。ほら、もうちょっとお食べなさい」
 そのあとも、おばあちゃんは少しずつ少しずつひなにごはんをあげていた。僕はそんなおばあちゃんとひなをずっと見つめていた。飽きることなくずっと。
「あとはこの子の生きる力を信じよう。ほら、もう帰らないと叱られちゃうよ」
「おばあちゃん、この子…」
「わかってるよ、おばあちゃんがちゃんと見てるから」
「うん!」
 僕は大きくうなずいて、ランドセルを背負い玄関に行こうとした。するとおばあちゃんが、「ちょっと待って」と言って台所に行き、紙袋を下げて戻ってきた。
「ほら、これ。忘れてるよ」
「ありがとう」
「気を付けて帰るんだよ」
 僕はまた大きくうなずいて、今度こそおばあちゃんちを出た。おばあちゃんちに行くといつも帰り際に紙袋を渡してくれる。紙袋を渡すとき、おばあちゃんはいつも悲しそうな目をする。おばあちゃんはなにも悪くないのに、ごめんねって言っているような目をする。だから僕も悲しくなるんだ。
「ただいま」
 言ったところで返ってくる言葉はないから、消え入るような声になる。リビングは散らかってはいないし、清潔感がないわけじゃない。でも空気は淀んでいて、僕は息苦しくなる。
 お母さんは自分の部屋だろう。出かけることなんて、そもそも部屋から出てくることだってほとんどない。トイレとコンビニに行くときに部屋から出てくる。だから僕のごはんはない。僕がごはんを食べられるのは、学校の給食とおばあちゃんがくれるごはんだけ。でもおばあちゃんがごはんをくれるようになったのは少し前からだから、僕のおなかはいつもグーグー鳴っていた。
 お父さんは僕が小学二年生のときに家からいなくなってしまった。ほかに女を作って出ていった、お前を捨てて出ていった、お前がもっといい子だったらお父さんは出ていかなかった、お前なんて産むんじゃなかったって、お母さんは何度も何度も、僕に言った。
 少し前に、おなかがぺこぺこで我慢できなくて、お母さんにお金ちょうだいって言ったことがある。お母さんは濁った目で僕を睨みつけ、怒鳴りつけ、手が届くものぜんぶ僕に投げつけてきた。なにか固いものがおでこにあたって、ものすごく痛くて、僕はおでこに手をあててしゃがみこんだ。手で押さえているのに、血がぽたぽたと垂れてくる。お母さんは汚い汚いと叫んでいた。僕の足元にはハサミが落ちていた。
 おでこを押さえたままおばあちゃんちに行くと、おばあちゃんの顔は白くなって、僕の話を聞くと、おばあちゃんは真っ赤になって、それから僕を病院に連れていってくれた。病院の先生が手当てをしてくれて、おばあちゃんちでごはんを食べて、おばあちゃんが家まで送ってくれた。
「ちょっとお母さんとお話しするから、あっちの部屋で待っててくれる?」
 おばあちゃんがお母さんの部屋に入った途端、耳をふさぎたくなるぐらいの怒鳴り声が聞こえてきた。
 お母さんはやさしくて、いつもきれいで、料理も上手だった。僕はお母さんが自慢だったし、大好きだった。なのに、ある日突然、お母さんはお母さんじゃなくなった。あれは誰だろう。あのバケモノは誰だろう。
 おばあちゃんが部屋から出てきた。おばあちゃんの姿を見て、僕は言葉が出なかった。おばあちゃんの髪はぼさぼさになり、頬にはひっかいたような傷があり、洋服も破れていた。
「ごめんなさい」
「ううん。おばあちゃんこそ、今まで気づいてあげられなくてごめんね」
 僕はなぜか、泣きそうになってしまった。泣いてるのがばれないように、少しうつむいて、頭を横に振った。
「おばあちゃんがなんとかするから、それまでおばあちゃんちでごはん食べなさい」
「僕の帰りが遅くなると、お母さん怒るんだ。部屋から出てこないくせに」
「じゃあ学校の帰りにうちに寄りなさい。ごはん持って帰れるようにしておくから」
「でも……」
「おばあちゃんも誰かが食べてくれるってわかったら作り甲斐あるし、ボケ防止にもなるから」
「わかった」
「おばあちゃんは帰るけど、大丈夫?」
「うん、大丈夫」
 おばあちゃんはひとつうなずき、玄関で靴を履いた。
「おばあちゃん、ありがとう」
 おばあちゃんのしわくちゃなあったかい手が、僕の頭をなでた。
 それからしばらくして、スーツを着た男の人がうちによく来るようになった。眼鏡をかけた、少しおなかが出ているおじさん。「お母さんいる?」と聞かれて、お母さんの部屋を指さすと、おじさんは部屋をノックする。一番最初は部屋の中に入ったけど、二回目からはドアは開けずにお母さんに話しかけていた。
「お酒はやめましょう」「施設」「お手伝いします」「このままじゃ息子さんは」そんな言葉がよく聞こえた。そのたびに部屋の中から怒鳴り声が返ってくる。おじさんは一時間ぐらいすると、大きく息を吐いてから玄関に向かい、「また来るね」と言って、僕の頭をなでてから帰る。
 おばあちゃんと同じであったかい手だった。だからたぶん、おじさんはいい人だ。

 ピンポンピンポン。
「おばあちゃん、ひなどうしてる?」
「ごはんちょうだいって、いっつも鳴いてるよ」
 ひなを拾ってから一週間。おばあちゃんは約束通り、ひなをちゃんと見てくれていた。
「あとどのくらいしたら飛べる?」
「どうだろうね、あと一週間もしたら飛べるようになるんじゃないかな」
「え!この前産まれたばっかだよ?」
「動物は自分の力で生きていかなくちゃいけないからね」
「へえ」あんなに弱々しかったひなが、空を飛ぶのを想像して嬉しくなった。「ねえ、おばあちゃん。僕も練習したら飛べる?」
 おばあちゃんがきょとんとした顔になる。それがおかしくて僕は笑った。おばあちゃんも笑った。
「残念だけど、人間は飛べません」とおばあちゃんが笑う。
「そうだよね」と僕も笑う。「でも、飛んでみたいなあ」
「そうだねえ、きっと気持ちいいだろうね」
 ひなを眺めながらおばあちゃんも楽しそうに言った。

 僕は十六歳になった。
 あのころ僕を助けてくれた人も、僕を傷つけた人も、もういない。僕はあのときのひなのように、自分の力で生きている。でも、だからこそ、あのときの願いは未だに消えない。
 鳥になりたい。
 鳥のように羽ばたき、空を舞い、行きたいところへ。
 どこまでも。

おわり


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