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先人に対する敬意と反発と


僕達のような伝統的な仕事は、世間的には絶滅危惧種扱いで、社会というよりも国レベルで庇護される対象になっていたりします。

そういった前提のもと、「技を受け継ぐ」ということが修行の大前提としてあって、教本やYouTubeで学んで茅葺きが出来るようになる事は現状不可能に近いので、誰かに就いて学ぶしか方法がありません。

そうなると必然的に縦社会のような構図が発生し、経験年数が絶対的評価軸となり、現代のデジタルネイティブ世代が、デジタルが苦手な先輩世代よりも始めから優れているといったようなことが、超専門技術職である茅葺き業界では起きにくいということがあります。

そういう構図と、技術職である事、そして伝統的な職種である事も相まって、
茅葺きに関わる人達は、先人に対する敬意を自然に身に付けるという、
儒教の礼のような現象が起きてきます。

もちろんこれは決して悪いことではなく、茅葺きの修行を進める上でとても大切な事で、代々受け継がれてきた技を、最短で身体にインストールするには必要な態度で、むしろ好ましい事だと僕は思っています。

しかし、伝統とは先人が培ってきたものを戴き、それをさらに磨き上げて
アップデートを繰り返してきたから伝統(classic)なわけで、
先人がやってきた事をそのままコピーするだけでは、時間が経つにつれて劣化していってしまいます。

茅葺きに限らず伝統的な職種を見ていると、先人に対する敬意が強すぎて、
言われた事を鵜呑みにするだけだったり、先人を伝説的、絶対的な存在にしてしまっていたりして、オマージュや本歌取りになっていないような仕事も見受けられます。

今や貴重になってしまった技を、細々と受け継いできてくれた、
先人を否定してはいけない存在のようにしてしまう空気感が、
伝統的な職種には生まれやすいのもわかる。

けれど、今を生きる僕たちにはこの時代においてのイニシアチブがあって、
先人が築いてきたものの上からスタートさせてもらっているので、
先人の到達できなかった向こう側に行けるチャンスがあります。

ジル・クレマンの 著書「動いている庭」のエントロピーとノスタルジーの項の最後にこんな一文があります。

“ 生はノスタルジーを寄せ付けない。そこには到来する過去などない ”

この一文は、今を生きる職人達にとって、とても大切な示唆を孕んでいると思う。
我々は先人の為だけに仕事をしているわけではないし、
先人も自分たちの為だけに仕事をしてほしいわけではないはず。
僕が今は亡き先人で、あの世からこの世を見ているとしたら、
自分達が見れなかったものを見せてほしいし、
自分達に気遣いなく、のびのびと仕事してほしい。

先ずはしっかり伝統を身体にインストールさえしておけば、
アウトプットの瞬間は一旦全て忘れてしまっても構わなくて、
今この瞬間を全力で表現すれば、伝統が隅々まで染み渡った身体からは、
自ずと先人達の面影が、作り出すものに映る。

礼に縛られるのではなく、礼を持ちながらも大胆に先人を批評して、
先人に対する敬意と、同量の反発も合わせ持っていてほしい。

その両義性の反力がチカラとなって、
伝統は磨かれ輝き、また前に進むのだと思う。

反発した結果、より良いものが生まれたのなら、
それが何よりの敬意だと思う。

相良育弥


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