名取事務所『帽子と預言者』について (1)

※この公演は終了しています http://nato.jp/topics.html


今日は名取事務所の二本立ての前半に上演した『帽子と預言者』について書こうと思います。(この作品については、長くなるので二回に分けて書こうかと思います。)

ご覧になっていない方のためにざっくり説明すると、これは男が有罪なのか無罪なのか、あるいは世界が有罪なのか無罪なのかを議論する裁判劇です。↓撮影:坂内太

帽子と預言者

…もしかすると、ご覧になった方の中にはこのあらすじに関して疑問を持たれる方もいるかもしれません。

『帽子と預言者』って、モノが出てきたよね?モノに関する話じゃないの?と思われる方も多いと思います(モノは、写真の男の机の上にある、ぼこぼこした黒紫の物体です)し、もちろん私もモノがなんなのか、ということを考えました。

ただ、モノが何を表しているかというのは、どうもシーンによっても多少違うような気もするし、作品を稽古場で作っているうちに、私が大事にしたいのはモノがなんなのか、ということではなく、このモノをめぐって罪について語る人間の姿だと考え始め、そこにシフトしていきました。(モノについてどう考えたかは、次回にでも書いてみようと思います。)

そこで男の罪とは何なのか、世界の罪とは何なのか、という問題になるんですが…男は呼吸もしないし生殖器も持たないモノを、「殺した」という罪で裁かれています。論点は、①モノを「殺す」ことが罪になるのか ②男がモノを殺したのか という二点。まず②について考えたいと思います。

実際、モノは水を必要とする存在でした。男が他のことに忙殺され、水を与え忘れたことでモノは「次第に崩れ」てしまったので、男が殺したと言えないこともないでしょう。

しかし男が主張するのは、それに関して世界は本当に責任を持たないのか、ということです。男が忙殺された原因は、世間がモノに注目し、バブルのようにモノの値段を釣りあげたことでした。また、男がそこまでモノに執着せざるを得なかったのは、世間が彼を見離していたからでした。

中東問題に詳しい方なら、まさに第二次世界大戦後のイスラエルとパレスチナの関係をここに見るかもしれません:現在もイスラエルは国際法に反して領土拡大を続け、パレスチナ人をテロリストとみなした非人道的行為を繰り返していますが、なぜイスラエルがこうせざるを得ないのか、そこにはホロコーストに代表されるユダヤ人の迫害の歴史があります(とはいえイスラエルの行為は許容されるべきものではないと考えます)。

一方同様の問題は今まさに日本でも起きています。

コロナ封じ込めのための自粛自粛で経済的にも精神的にも追い詰められている人は大勢いますし、そういった余裕のなさが引き起こす極めて自分勝手な行動(買い占め、コロナ差別…)は目に余るものがあります。が、これらの行動の当事者にすべての責任があるのでしょうか(責任が全くないとも言いません、もちろん)。

それらの人々が与えられてきた教育の質、現段階で十分な補償や安全対策を示しているとは言えない政府、我々を不安に陥れるウイルスという見えない敵(そしてこれも一説によると、人間が自然破壊を推し進め、生態系を乱したことに要因があるそうです)……それらの人々の周りを取り巻く、特により力があるはずの人々の責任を全く問わずに、当事者だけの「自己責任」にして良いのでしょうか。

そして、論点①にも戻りますが、実は男自身もモノを殺した自分が全くの無罪だとは考えていないのです。だから、自分自身を含め世界中の責任を問われた裁判官が、苦し紛れなのかやけっぱちなのか、男に無罪を言い渡した時、男は判決を拒否し、反発します…「無罪なんて、そんな重荷を背負わせないでくれ!」と言って。(話がそれますが、私が客席で見ていた時に、このシーンで「え?」という男性の声が上がったことがありました。物語についてきてくださってるのがよく分かってすごく嬉しかったです)

裁判官たちは言い分けの言葉を並べながら男を一人残して裁判所から去っていきます。男とモノだけがそこに残される。無罪にしてなかったことにしても、起きてしまったことはなくなりません。男は「俺たちは一緒に出発するしかない。行こう」と声を掛けますが、男とモノはこれからどうなるのか、誰にもわかりません。

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