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まだ見ぬ誰かに、出会いたい。

たしかに、成績は良かった。でも、ほかの人たちが難なくこなせることで、つまづき続けた。「普通」ってだいぶ難しい。ずっと、そのことを噛みしめる日々である。





ひとと繋がれない



いくら注意されても、遅刻や忘れものが減らないばかりか校則も守れず、生意気に口答えばかりしていたので、親も先生もうんざりしていた。


クラスメイト達には、活発で運動ができそうに見えると言われていたが、そんなことはなかった。


走るのも遅ければ、球技なんか異常なほど苦手。バレーやバスケなんかで、ボールが飛んでくると決まってフリーズ。チームの足を引っ張った。

「おまえなんか、いなくなれ」

罵声を浴びせられ続けるうちに、
ボールを見ただけで過呼吸になった。


騒がしい教室が嫌すぎて、難しい顔でダンマリを決めこんでいた。朝礼のときも、同級生たちのおしゃべりが全方位から聞こえる廊下で話しかけられると、返事するのも億劫だった。

クラスの子たちとの会話で、ときどき挿しこまれる「冗談」がわからず、彼らと一緒に笑えなかった。言葉が出るのも人より遅く、会話のテンポについていけないのも、ストレスだった。



話すより、書くことが好き。


クラスの子たちをモデルに物語を書き、学校であったことについて、感じたことを書いていた。
もちろん秘密で。

頭の中にある文章をノートにスラスラ起こせると嬉しいし、うまく書けなくて試行錯誤する時間も楽しい。そんなひとときを経て、社会に出た。



ブライダルシンガーの仕事は、いくら挙式件数をこなしても覚えられない。指示まちのうえ、同じミスを何度も繰り返すたび

「やる気あるの?」と睨まれた。


ぼんやりしていると「気が利かない」と怒られるので、率先して動いてみると、

「よけいなことをするな」

わけがわからなくなった。


家に帰ると、マグマのように苛立ちがわいてきて泣き叫び、部屋にあるものを手当たりしだい投げ散らかした。


そんなことが続いても、ノートやパソコンに

物語を書き、思いを綴る。
それだけで癒され、前を向けた。




「つまづき」の正体


それがわかったのは、ピアノ講師をしていた頃だ。発達が気になる生徒を受け持ったのが、きっかけだった。



「発達障がい」と言われる人々の特徴を調べてみたら、「これ、わたしに当てはまってない?」と、首をかしげることばかりだった。


そのことを母に話すと、わたしには「自閉スペクトラム症」の診断がついていると判明した。




母いわく、

赤ん坊のわたしと目が合わず、
名前を呼んでも返事がなかった。

歩きだすと1秒でもジッとしていられず、病院の待合室で、ソファの横に置いてあったおもちゃを、片っ端から投げ散らかし逃走した。そのせいで、診察の順番が何度も後回しになった。



2歳になっても言葉を発さず、いよいよ「変だ」と思った母は、市内の小児科でわたしを診せた。そこで県内の大きな病院を紹介され、名の知れた小児科の先生に「自閉症(当時『スペクトラム』という言葉がなかった)」の診断を受けた。



「娘さん、一生このままです」


母は、先生にそう言われたらしい。



その後、市内の保育園に預けられたが、
1ヶ月で「出禁」になった。

尋常じゃない癇癪、お昼寝をしない。
たび重なる「集団生活を乱す行為」
お友達とのケンカも、絶えなかったのだろう。

「うちでは、もう面倒みられません」

保育士さんたちに、さじを投げられた。



そこから、母とわたしの「療育生活」が始まった。ひとつ下の妹も連れて、母は市内の療育センターに通い続けた。雨の日も風の日も休まず、わたしと妹の手を引いて。




療育の成果か母の愛情か、わたしは療育センターで、新しいスポンジのように言葉を吸収していった。同じく療育を受けている「みんな」と、仲良く遊べるようにもなった。


そして、色のなかった表情にも、変化が現れた。


「Sazanamiちゃんが笑った。お母さん、これは奇跡ですよ」

小児科の先生が、わたしをあやしながら手放しで喜んでくれたそうだ。



1年後。無事、保育園に戻ることができた。
さらに1年後。卒園して幼稚園に上がるとき、発達検査を受けたが、知恵の遅れが確認されなかったことから高校まで普通級で過ごし、大学も出た。



なるほど、そういうことか。




自分の「ズレ」に「自閉症」と名前がついた。

みんなのテンポについていけないのも、
球技が苦手なのも、空気が読めないのも、


わたし個人の問題というより、
「自閉症なら起こりうること」だったのだ!



ずっと探していたものが、ようやく見つかったような心境を文字にするのに一心不乱にペンを走らせ、10数枚のルーズリーフが散らばったテーブルの上で、顔をあげた。


あぁ、すっきりした!



いてもたってもいられず、この感動を2人の友人に伝えたのだが、全力で否定されてしまった。



子供の頃はそうだったかもしれないけど、
いまは違うとか、医者が間違えたんだとか。



お友達に感謝しなさいと前置きして、
母が言った。


「自分から言われても『だから何?』って思ってたはずよ」





だから、なに?


そのあとに続く言葉は、おおかた予想がついた。

特別扱いされたいの?
かわいそうだと思われたいの?
もっと大変なひとは、いっぱいいる。
甘えるな。

そうじゃない。

そうは思ってないけど、
それを証明する言葉が見つからない。


このモヤモヤが、最近ようやく溶けだした。


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ファン歴25年のミュージシャン・中村一義(敬称略)の「魂の本」を読んだからだ。彼のことは親しみをこめて、これから「中村くん」と呼ばせていただく。



中村くんの幼少期は、それはもうヘヴィだ。

母親に「産むんじゃなかった、殺してやる」と罵られ、犬小屋で眠り「うまい棒」で飢えをしのぎ、父親が母親を担いで投げとばすほど激しい夫婦げんかを、毎日のように見せられる日々。


交通事故で死んだ飼い犬を、家にいない両親に代わって、まだ8歳だった中村くんが火葬場に持っていった。


両親の離婚を機に13歳から祖父母と暮らし、22
才でデビュー。「桑田佳祐を継ぐ言葉の使い手」と評され、宅録で完成させたアルバムは「天才にしか作れない」と騒がれた。


音楽で「表現すること」を通して、過去を乗り越えた中村くん。本の最後に彼は言った。


なんでこんなに自分のことを喋れるかっていうと、自分の人生は異なっているからであって。
(中略)べつに大物になりたいとか有名になりたいとかじゃなくて、認識してもらいたいだけなんです。


一緒にしたら中村くんに失礼だ。

そう思いつつ腑に落ちた。


そうか、わたしは自閉症を「言い訳」にしたいんじゃない。「見かけではわからない」わたしの存在を、認めてほしいんだ。



中村くんの言葉は、こう続いていく。

僕なんかよりももっと悲惨な人っていっぱいいる。だから、そこを言いたいわけじゃなくて、やっぱりそういう人たちにも(略)もっともっと外に出ていってほしいですし、僕はそういう人たちと出会いたいんです。


最後の言葉が、心の真ん中を撃ち抜いた。






出会いたい。


「見かけではわからない何か」を

持ったひとたちと。


そのために、

「見かけではわからない」
自分のことを書いて、読んでもらうのだ。


幸い、わたしには

noteのアカウントがある。


仕事を辞め、
1歳半の娘と過ごすなかで、感じたこと。



好きなもの、好きなひとたちのこと。


「普通」が、ままならない日々。



心に届いたものを、物語やエッセイ
そして記事にして、noteに贈る。



まずは、そこから始めよう。

まだ見ぬ誰かに「出会う」ために。












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