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【エッセイ】荒れる成人式が懐かしい

ことしで成人して20年。わたしは式典には参加せず、写真館での写真撮影のみで「成人式」を済ませている。そのため、式じたいにはまったく、思い入れも思い出もない。





卒業した中学校は、市内、いや沖縄全土で、荒れているとたいへん名高い、ヤンキーだらけの学校だった。入学して間もないというのに、少年院や鑑別所にお世話になり、見かけなくなる生徒もたくさんいた。

中3の頃のクラスは、ひとクラス40人中、男女あわせて10人くらいが不良だった。

学級崩壊という言葉がしっくりくるほど、クラスは彼らに荒らされていて勉強どころではなかった。

音楽コースのある高校に行きたかったわたしは、実技試験対策のために、ピアノや声楽などの習いごとを優先して、塾には行っていなかったので、だいじな授業を次々に潰していくヤンキーたちに、まいにち大変わずらわされていた。


ヤンキーたちが視界に入ってくるたびに、

「階段から突き落とす」とか、
「窓から放り投げてやる」とか、

息をするように毒づいていたほどだ。



校則にも、先生よりヤンキーの女子たちのほうが何倍もうるさかった。

ちょっとスカート丈を短くして、廊下を歩いていると、スケバンのようなスカート丈で、髪を明るく染め、眉を糸のように細くして化粧までしていたヤンキー女子に


「なんでスカート短いのー?」と、凄まれた。

「あんただって髪染めてるさー」と言い返せるほど、度胸のある生徒はわたしを含め誰もおらず、ヤンキー以外の生徒は、どんな理不尽なことを言われても、ただ従うしかなかった。

彼女たちに逆らう生徒は、体育館裏で集団リンチにあい、病院送りにされていたらしい。


同じクラスにいたヤンキーの男子たちは、3階にある教室のベランダにたむろして、煙草を吸うのが日課で、そのあと必ず、ベランダのすぐ下に停められている教師たちの車めがけて、ぺっと唾を落としていた。

教師たちの車だけでなく、教室だろうと廊下だろうと、ところ構わず唾を吐き、おじさんくさい香水の匂いをプンプンさせて、弱い生徒だけでなく、怖くない先生たちまで容赦なく虐める彼らが、嫌で嫌でたまらなかった。


それ以上に嫌だったのが、べつにヤンキーでもない、爽やかそうな優等生男子や、明るく活発な女子など、いまでいうスクールカースト1軍のような生徒たちが、どういうわけか容姿から聴く音楽の趣味まで、ヤンキーっぽくなっていった。

どうして、じぶんを「2軍」に落とすんだろう。
ヤンキーたちなんて、「5軍」でいいのに。


不良色に染まり、クラスメイトたちが、ことごとくダサくなってしまった学校。そして、やりたい放題のヤンキー達を誰も止められない学校ほど、居心地の悪いものはなかった。



中学を卒業して、「高校」という新しい世界を知ったばかりのころだった。

わたしとおなじく、スクールカースト3軍の同級生たち7〜8人と、中学校の近くの児童公園の前で、バッタリ再会したある日のことが、いまでも鮮明によみがえる。


お互いの近況を報告しあっているうちに、中学のころに話題が移ると、まるで魔法が解けたかのように、こう口々に言い合ったのだ。

「うちら、なんであんなにヤンキー怖かったのかねー」
「言いなりだったさー、バカみたい!」


それぞれの高校の制服を着ていたせいなのか、みんな個性豊かで生き生きしていて、なにより自由に見えた。

わたしも、誰にも抑圧されることなく、かけがえのない高校生活を送った。



そういうわけで、わたしが成人式に行く理由は皆無だった。大人になる節目の年になってまでヤンキーたちと過ごすなんて、まっぴらだったのだ。







成人の日の朝。

中学の同級生たちが、式典の会場で5年ぶりの再会を喜びあい、旧交を温めあっていたころ、わたしは隣町の写真館で赤いチマチョゴリを着て、カメラの前でピースサインを決めていた。

晴れ着に振袖ではなくチマチョゴリを選んだのは、「ひとと違うことがしたい」という、シンプルな理由からだった。韓国とゆかりがあったわけでもなく。


記念写真を撮り、家族だけで成人祝いをした翌日。大学内のパソコン室で、おなじ中学出身だがほとんどつきあいのない女子が、めずらしく話しかけてきた。


「昨日のニュース、見た?」


彼女から聞いた話に、わたしは目を丸くした。


リーゼントに派手な袴姿のヤンキー男子10数名が、学校名を連呼しながら、会場内で、これまた派手に改造されたバイクや車を乗りまわし騒いでいたのが、テレビのローカルニュースで流れたというのだ。


卒業後、ほぼ全員が金融関係者になったと噂されたヤンキー男子たちは、式典会場を派手に荒らしたあと、国際通りをわがもの顔で闊歩していたという。


恥ずかしいよね、と苦笑いで去っていく彼女のうしろ姿を、そうだね……と弱々しく見送った。


それから数日後。

彼らの醜態は、あっという間に全国放送で取り上げられた。週末のワイドショーで流れた、暴走族然として暴れる彼らをテレビ越しに眺めていた。

どうやって持ちこんだのか謎だったが、彼らは会場の敷地内で巨大な酒樽を囲み、盃を交わして上機嫌に酔っぱらっていた。


恥ずかしいね、どころではないではないか。

わたしはドン引きした。



なんなの、そんなに目立ちたいわけ?


荒れている、と県内で有名だった中学校は、とうとう全国区の不良学校として名を馳せた。

大人になる節目の年に、ワイドショーで取り上げられるほど式典会場を荒らしまくって、ほかの新成人たちに迷惑をかけてしまう、大人になりきれないピーターパンたちが、同じ教室で机をならべて学んでいた、同級生だなんて。


恥ずかしいを通り越して、情けない。

つま先から脳天まで、怒りのマグマがふつふつとわきあがった。

同時に、こんなに会場が混乱をきたしたのなら、成人式など参加しなくて正解だった、と頷いた。


これを機に沖縄の成人式は、毎年のように「荒れる成人式」と、ワイドショーで大々的に報道されるようになった。

母校をはじめ、地区それぞれの中学出身のヤンキーたちが、天下を取るのは俺たちだと言わんばかりに、式典会場で喧嘩をはじめるなどしている様子が、ブラウン管に映しだされる。

そのたびに、中学のとき、ヤンキーたちを野放しにしていた悔しさと責任を感じ、体中がムズムズして、いたたまれない気持ちになった。






今年の成人式も、感染症の影響で、規模が小さくなったり、延期になったり、地域によっては中止を余儀なくされるところも出た。


大人として第一歩を踏みだす「節目の式」が、姿を消してしまうのは、なんだか寂しい。

式典に思い入れも思い出もなくても、晴れ着姿で嬉しそうにキャッキャしている新成人たちを見ていると、微笑ましい気持ちになる。

こちらまで、幸せをわけてもらっているような。



そういえば、今年から「新成人」は20歳からではなく、18歳からになるとか。

そうなると、感染症が落ち着いたあと「成人式」は戻ってくるのだろうか。


大人になるのが2年早まるなら、式典も、おなじく2年早まるのか。

高校卒業後の18歳を盛大にお祝いして、20歳はスルーなのか。

うーん、それも寂しい。
やっぱり、成人式は「20歳」のときでないと。


それに、18歳で成人式だと、年齢が若くなるぶん、荒れる新成人が、ますます増えそうである。


いや待て、そもそも、いまの若いひとたちのなかに「ヤンキー」「元ヤン」なんているのか?




荒れる新成人を産んだ母校の中学校も、いまでは、すっかり落ち着いていると聞く。

その学校で教育実習を行なった、中学の音楽教員を目指している友人に、
「ヤンキーの子いた?」と興味本位で聞いたら、

「ひとりもいなかったよ」

と、こともなげに答えがきて、耳を疑った。
あれはたしか、30代のころだった。

「ひとりも、いなかったの? 学校に」
「うん、ひとりも」


まじか……。

言葉を失うほど嬉しかった、わけではない。


あんなに煩わされていた存在なのに、いないと知ると、こころにすきま風が吹いてくるのは、なぜだろう。


言われてみれば、昔のような「スケバン女子」や、「リーゼント男子」は、街でほとんど見かけなくなった気がする。

あと、異常に長かったり短かったりする学ランの上着も、裾が尋常じゃないほど膨らんでいる、
おなじく学ランのズボンも、見なくなった。


感染症が収束したあとの「成人式」は、わたしたちが知っているそれでは、なくなってしまうのだろう。晴れ着やスーツ姿の若者たちだけでなく、派手な袴でキメたヤンキーたちも、果たして戻ってくるのか。


会場内で、たいそうな改造を施されたバイクや「ヤン車」を乗りまわし暴れる彼らの姿を、もう見たくないような、また見たいような。


あんなに嫌だった「荒れる成人式」も、その主役をはっていたヤンキー達も、なんだか懐かしい。







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