新しいことにチャレンジした方が良いよねって言う割には新しいことにチャレンジする文化がないよねっていう話
生きていると目まぐるしく変わる世界にポツンと一人残されたような気分になる。
ああ、自分はまた変われなかった
と何度目かもわからないため息を漏らす。
フランツ・リストのような波打つアルペジオに交錯する美しいメロディーが流れ込んでもそれは自らの心を癒してくれはしない。
変わりたいと思う心が激情の中で、惰性となるのが人の常だ。何度同じ失敗をしても、何度挫折を繰り返しても、変わらない心に折り合いを付けて心身のバランスを保って生きていかなければ、自己否定という名の絶望に陥りかねない。
踠いている時点で成長可能性を秘めているという希望的観測はいみじくも表現された陶冶の現れかもしれない。日々生きることに没頭しながら悩みもなく頭の中を空にして、レゾンデートルなんてたいそうなことを考えたことがないなどということはあり得ないだろう。四六時中雲を掴むような話題に頭の血を上らせなくても、血の気も引くような現状に焦燥し、行くあてのなさに戦慄が走ることくらいはあるだろう。解けるわけもない命題に条件を整理しながら一つ一つ答えをあてがっていくことは誰もが通る宿命だ。ただ、それがまたややこしいもので、新たなる煩悩を引き起こしかねないのも虚しいところである。
新しい自分になることを肯定してくれる人間がいようと、全くそのような人間がいなかろうと、自らの人生の主人公になることを自らが選択しなければ、そのような未来は決して訪れない。その選択は決して生暖かいものではなく、自己否定も伴うような痛みに満ちたものになるかもしれない。
その痛みを抱え込むことができますか?
と言うと、できる人間が成功し、変われなかった人間が落伍者として価値もない人生を歩んでいくようだ。しかしながら、どうもそこまで自己中心的に自分を責める必要もない。前提として欠けているのは、成功も失敗も自分一人の力によるものではないという点だ。
やりたいことをやりたいがために、今のやり方を壊すことも今の自分の生き方を変えることも、苦労が伴う。現状追認的な村意識が自らの首を絞めてくることもある。周りから理解されずに厄介者だと後ろ指を指されることもある。信念を貫き通すためには自らが強く生きなければならない。それに勝てなかった者は野垂れ死に、それをものともせず意志をやり通せた人が生き残る。
というわけで、人生は辛いものだ、と結んでしまうのは簡単なことだが、いつまでもそんなことを言っていても面白くない。長い迷路は続くのだ。パズルのピースは簡単にはめることができるのでは面白くないではないか。
世の中的にはそのような強者の生き方が吹聴されるし、それはそれで“正しい”生き方なのだろうと想像する。しかし、大多数の人間はそちらに行けなかった人間で(あるいは行きたいとも思わなかった人間で)、嫌なことも苦しいこともあるがそれも抱え込んで生きていくことが大人だと教えられる。
それはそれで大切なことも含まれているが、自らの可能性を狭い世界の隅の籠に閉じ込めてしまうと同時に、誰もがそのケージに収納されたまま「不一心」同体となって、右肩下がりの坂道を転げ落ちていくのだ。何とも笑える様である。
転げ落ちていくのであれば、新しい苦悩を抱えて、「わけわかんねーけど、みんなでやってみてダメだったらしゃーないやん」とアホみたいな無思考で開き直りたいものだ。
そしてフランツ・リストのため息の出るような感動を共有したい
終わり