アンガーマネジメントは昔秒でキレてたという人間でないと説得力がない。
スマホ画面に赤髪の松居一代が映った。彼女を見ていると他人の気がしない。かつての、あの狂気に似たものを自分は母親から遺伝している。そんな気がしてしまう。
側から見て「ああは成るまい」としつつも、自分も気質としては非常に気が短く、粘質なタイプだ。
思えば今まで通算してブン殴りたい人間が三人程いる。
小学校から会社時代の人間であり、元友人であったり、友人ですらない同級生だったり、目上というだけで中身のない説教をする人物であったりマチマチだ。次またその顔を見たら飛びかかってしまうだろうか。否。
といってもかなりもう過去の話だ。
長い時間で見れば、風邪をひくとか、箪笥に足の指ぶつけるくらいの不幸には何度か見舞われているだろう。
時たまぶり返す怒りも、そうやって散らしながらどうにか溜飲を下げてきたし、流石に今はそこまで蒸し返すことも無い。
怒りの機能は身を守るために備わった感情らしい。
しかし原始時代でもあるまいし、よく取り上げられる「本能論」の「だから仕方ない」で片付けたくない。
そして戦争やスポーツでもなく如何なる時にも人を殴ってはならない。治安が乱れるからだ。
「怒り」は出来るなら避けたい感情である。感情は伝播するし、血圧も上がるし、良いことなど何一つ無い。
ごく稀に怒りを誘発しようとしたり悪意を引き出そうとする愉快犯がいるが、大概それは相手の拗らせに問題があるので有害だしまともに取り繕うだけ損だ。
しかしそうでない場合も人間「怒り」は沸く。これは幸せになれない。
昨今よく耳にするアンガーマネジメントで言われる「6秒ルール」にはどうもしっくりこない。
それを書いている人間はおおよそ「突沸のような怒り」「積もりに積もった怒り」という感覚をおよそ知らない、おおらかなタイプであるようだ。
何故そんな人物がわざわざこれを提言し出したかは分からない。が、現代そうやって他人に強く当たる話も多く、ある種の親切心からかもしれない。
元より怒らないし、怒れない、そういう性格の人間は居るのだなと思えるし、賢ければ怒りも湧き難いらしい。
反面、怒りを露わにする人間は全員知能の低いアホとして捉えられるタイプでないかとも見受ける。間違いでもない。
比較的金銭や知識、人脈的に相当恵まれた環境に生きていれば、他人の足を引っ張るとか、妬むとかそういう卑しい感情とも縁遠くなる。
そしてどんなに賢い人間でも、興味が無い分野に至れば「無知」や「思考停止」を発揮している。
取り組み自体は良いことだが、知能、環境、経験、何一つ同じ人間などいない。どんな「考え方」をもってして納得できるかは人によって違う。
今となっては多方面からこのアンガーマネジメントは語られており、この「6秒ルール」に懐疑的な声も見かける。
6秒経った所で目の前にいたらまた怒りかねないので、物理的に離れ、そして全然別のことに意識を移すと良いそうだ。
良いそうだなどと書きつつ、自分もこれらの解決策は今だに分からない方だ。なので関連した話をよく目で追う。
怒りの原因を辿ってみれば、怒りの「元」になる要因が思いつく。
ざっと身に覚えがある限りはこうだ。
・怒りの蓄積
・怒り方(指摘)の下手さ(タイミング)
・期待の不一致
・慢性的な不本意
・後から嫌味に気づく思い出し怒り
・「それくらいなら良いか…」の後々の不本意化
・自分が得意な事を他人がモタついているとイライラしがち
短絡的に見える「怒り」の感情も、一言で語れないややこしさを孕んでいる。
下手にこれらを自力の思考だけで解消しようとすると、どこかの勢みでじわじわ歪んでいく。
こじれにこじらせた結果が「怒り」として具現化し、ひどい場合は自他共に手の付けようがなくなる。悲惨だ。
現代人の「怒り」の仕組みは厄介だし、厄介にしている節すらある。
これに近い厄介さにDVやモラハラがあるが、下記リンクの方の記事が非常に興味深い。
何故か図々しく感じるコミュニケーションについてかなり掘り下げている。人間「やられた」事はいつまでも覚えているが「やらかした」事は忘れ気味、或いは自覚すらない。自身もやってしまった事があるのではないか、と思えるほど何処彼処で見聞きする話ばかりだ。
自覚のない加害性の心理についてしっかり考察しているし、だいぶ建設的になっている。
どうにも怒りが湧きやすい、また周りに似た人物が居るという方は、一度目を通してみると良い発見があるのではないか。
筆者の都合上男性側の話が多いが、逆の場合、パートナー以外のケースとしても全然当てはまるだろう。
余談。三人ブン殴りたいと書いたが、そのうちの一人を実際ブン殴ってしまった事がある。
中学からの付き合いであり、元々やや高飛車な性格だった友人であるが、高校に上がるとその悪い所に拍車が掛かった。
腕力も無いしヤンキーでもなし、怪我させたりまではしていない。
それでも一瞬の感情に流され、気がつけば隣席の相手の頬に拳がめり込んでいる事に気がついた時は、あまりの驚きにお互い妙に笑ってしまい、とにかく謝り倒した記憶がある。
しかしこういざとなれば、自分は手が出る人間なのだと思うと怖い。
何より手を出した瞬間の記憶がまるでなく、本当に怒りに我を忘れるというのはあるのだと知った。
「怒らない」というのは素質を持つ人間にとって非常に難しい。なのであらかじめその感情が沸く前に避けたい。
出来る限りそんな状況にならないようにしたいが、いっそ必要以上に他人と親しくなり過ぎない方が良いのではないか。
同性でも異性でも、真面目な話し合いができる人間とだけ付き合った方が良い、というのが自身の過去からの学びだ。
尊重し合える相手とだけ関わりを持つのが好ましいが、社会に属していれば中々そうもいかない。
親しみやすさと馴れ馴れしさは紙一重だ。タメだろうと5歳児だろうと自分はいかなる相手にも基本的に敬語を使う。舐めてくるようなつまらない人間とは距離を置く。ネット上は問答無用。それでいいと思う。
ちなみにブン殴った友人とは絶交した。
こんな余談現代に書くべきではない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?