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書く理由

私は、声が小さい。そして、滑舌が悪い。

小さい頃から「もっと大きな声で喋って」とか「何言ってるのかよく聞こえない」とか言われたことは数限りない。

その上、要領よく喋ることが出来ないので、結局何言ってるのか分からないことを言ってしまったりする。
『右脳の強化書』には、しゃべりが下手な人も右脳を鍛えれば良い、って書いてあって思わず買っちまった。
しゃべりのコンプレックスがあるから、もちろん電話は苦手。携帯電話が普及してメールが一般化したとき、まじ救世主!と思った。話し方や声の発声トレーニングの本なんかも何度買ったか数え切れない。実践して、克服するまでに至っていないのだから、中途半端っちゃぁ半端だけれども、とにかく自分の欠点、コンプレックス、ハンディキャップであることには違いない。

声帯がないとか、言語を知らないとか、機能や能力に障害があるわけではないのだから、努力をすれば良いだけのこと。もちろん公の場や必要な伝達事項を伝える目的のためには、ハッキリ大きな声で、相手に聞き取りやすいように喋るように努めることは出来る。出来るけれども、ハンデなのだから、努力することに疲れてくることだってたまにはある。

最近、母親の耳が遠くなってきた。
ちゃんと会話が成り立つように、相手に注意を促して、こちらを向かせて、聞き取りやすいように言葉と音量を選んで…なんてことをいちいちしなければならないことに、疲れるときもあるけれど、それはまぁしようがない、と納得もする。地声の大きい人はいいなぁ~。日常的に交わす会話で、自分の思ったことを意識することなく声に乗せて会話が出来る。つくづく羨ましい(声のデカい人は苦手だけどねw)。何より、母親はまだ私の言うことを理解しようと努めてくれる。言語だけじゃなく、雰囲気とかニュアンスとか、前後の脈絡とかを把握しながら。だから、多少コミュニケーションに支障を感じたとしても、根本的には虚しさと別物なんだ。

コミュニケーションは言葉だけではない。身近な夫に、それを期待するのは不当なんだろうか?機能的に聞こえない(耳が遠いvs小音量)なら、それを補う非言語コミュニケーションを駆使する努力を、見せて欲しいと願うのは過剰な要求なのだろうか…?「声が小さい」「何言ってるか聞こえない」それは今に始まったことではないのに、何故それによって私は、一番身近なはずの夫に無視されなければならないんだろう?
自分は会話をしているつもりなのに、相手からは何の反応も返ってこないとき、自分が透明人間にでもなったかのような感覚になる。私は普通に喋っているつもりなのに、相手には私が見えてないんだ。私は本当は居ないんだ、私の声は本当には存在していないんだ、という気分にさせられる。
すごく虚しい。だから、ほんのちょっとの思いつきとか、何気ない雑談とか、伝わっても伝わらなくてもどうでも良いようなこととかは、次第に喋らなくなる。(こうして夫婦の会話は激減する)

喋らなくなるけれど、思っていることがないわけじゃない。むしろ常に何か思っている。その中身は、常時流れ去っていって、消えてしまう雲のようなものだけど、そのときの思考を何とか言葉に、そして文字にまでできたときのカタルシス。自分の中のデトックスが働いて、やっと私は救われる。
だから私は文字にする。何より、消えてしまわないし、何度でも推敲し、修正することが出来る。要領よく喋れない代わりに、自分の言いたかったことを、時間をかけて確かめることが出来る。

書くことが得意なわけじゃない。だけど、言いたいことがないわけじゃない(誰だってそうだと思う)
私にとっては、書くことだけが、ほとんど唯一の表現手段に他ならないのだ。




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