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神島裕子「正義とは何か 現代政治哲学の6つの視点」

もう3年くらい前のことになりますが、尊敬する友人に、「ビヨルンロンボルグは世界の問題に優先順位をつける」というTED動画を教えてもらいました。その時私は、いくつもの課題が絡み合った仕事に取り組んでいて、みんなが納得する優先順位をつけることができなくて、自分の信念で押し通すわけにはいかず、とても難航し、かなりストレスになっていました。そんな状況を愚痴ったら、検索するように勧めてくれたのです。

目の前に間違いなくやるべきことがあり、その手段も準備されいて、金銭的な負担も問題がないとしたら、どっちを優先すべきとか議論する間もなく、それをやるべきだ、というのが、これを見た私の理解でした。ひらたくいえば、できることから着手すべき、ということです。

この動画の話をしたことで、急にみんなの理解が得られて、一気に解決した、なんてことはありませんでしたが、最後まで取り組めたのは、この考え方のおかげもあったと思います。

ですが、今はやっぱり、課題にも優先順位をつけなければいけないのではないか、と思い始めています。もちろん延々と優先順位を議論するなんていうことは避けなければいけなくて、絶え間なく、できることから着手しなければいけないとは思うのですが、でもそれと並行してやっぱり、何を大切にするか、という問題にぶつかると思うのです。

そんなことを考えていたときに、この本を見つけて、読んでみることにしました。

サブタイトルにもあるように、6つの視点から書かれています。

第1章 「公正としての正義」——リベラリズム

ロールズの「正義論」を中心に議論されています。ロールズの考え方は2つの原理から構成されますが、ざっくりというとこんな感じだと私は理解しました。
第一原理 みんな平等でかつ自由でなければいけない。
第二原理 不平等であるのが許されるのは、誰でも努力次第で得られるものであり、その得られたものが、不遇な人たちにとっても便益があるときだけ。
第二原理が分かりにくいのですが、例として挙げられているのが野球選手。努力で勝ち取れるものであり、その活躍を見ることで、多くの人たちに勇気や希望を与えることができるから、第二原理に適っているということです。
一方で努力で勝ち取れる、というのが本当にそうなのか、というのも難しい問題です。全ての人に同じように機会が与えられるのか、というのも簡単ではありません。

第2章 小さな政府の思想——リバタリアニズム

リバタリアニズム(完全自由主義)は、個人の自由と権利を尊重する点でリベラリズム(自由主義)と同じですが、社会や国家が個人の生活に干渉することを嫌います。
イギリスのジョン・ロックは、生命、自由、財産が人間に固有の権利であり、この権利を確実なものにするのが政府の務めと主張しています。万人の共有物であっても、例えば大地を区切って耕すことのように、自分の身体(生命)を使って労働を加えることで所有権を獲得し、財産になるという考え方です。
さらにアダム・スミスは、それぞれの利己心に基づく行動が需給の不均衡を調整するとともに、他人への関心により分業が生まれ、社会的分業へと繋がるとも言っています。これがうまく機能することが市場原理の成功ということになります。
さらに時を重ね、アメリカ独立宣言には、誰にも譲ることのできない、生命、自由、幸福の追求という権利を守るために、人びとの間に政府が設立されるといった趣旨のことが前文で説かれています。
権利を守ることを確実にしようとすれば政府の力は大きくならざるを得なくなり、夜警国家ではなく、福祉国家が求められるようになります。
他方、リバタリアニズムは「財産権を絶対不可侵とする極と最小限の福祉政策を要求する極とを両端とするスペクトラム上にある」といいます。
①アナーキズム
②最小国家論
③左派リバタリアニズム
④福祉リバタリアニズム
①の方が財産権を絶対不可侵とする、④がその反対の極ということです。本の中にでは①から④について解説があります。

第3章 共同体における善い生——コミュニタリアニズム共同体における美徳

ハーバード白熱教室がブームとなりましたが、その講義を担ったマイケル・サンデルはコミュニタリアン(共同体主義者)です。1980年から1990年に「リベラルーコミュニタリアン論争」が繰り広げられました。
リベラリズムのロールズが原始状態に置かれた当事者たちが自分が誰であるのかを知らないからこそ、「公正としての正義」を編み出せるとしていますが、サンデルは、そもそもどの目的(善)からも独立した自我を想定して正義を考えることは誤りであり、それによって正当化される正義(正)は意味をもたないとしています。想定されるべきは「負荷なき自我」ではなく、特定の共同体のなかで特定の生を生きている人間、つまり共同体のなかでアイデンティティを形成し、人生に意味を付与している「位置付けられた自我」だといいます。サンデルだけでなく、コミュニタリアンはリベラリズムでは人々の善い生を可能にする正義は構想できないというのです。
加えて、人々の生活に固有の道徳性を与えるとされる共同体の物語にのっとった政治によって、善い生を再興させるべきだと主張します。著者が引用しているマッキンタイアの文章は政治の話とは思えないくらい素敵です。

物語という形態が他者の行為を理解するのにふさわしいのは、私たちすべてが自分の人生で物語を生きているからであり、その生きている物語を基にして自分自身の人生を理解するからである。物語は、虚構の場合を除けば、語られる前に生きられているのだ。

マッキンタイア『美徳なき時代』

結局、法に従うのも、選挙をするのも、全ての活動を行うのも人間だから、ということなのでしょうか。論理的に正しいかどうかではなくて、どのような行動が起こるか、を無視することはできないということなのだと理解しました。

第4章 人間にとっての正義——フェミニズム

この章のタイトルを見たとき、ああそういえば、という感覚でした。政治家や著名人の女性蔑視の発言がニュースになるたびに、まだこんなことを言うのか、と驚くと同時に、批判される世の中になったことに小さな喜びを覚えたりもします。けれど、まだまだ女性の権利が守られていないと感じることが少なくないです。
「現代」正義論においても、家庭内で子育てをするというポジションが女性に与えられてしまう、というのは非常に悲しいことです。そして実はこの本を書いているのは女性であり、もし男性だったとしたら、フェミニズムの章にここまで力を入れてくれたのだろうか、とうがった見方をしてしまいます。

たとえば、西洋の伝統における正義に関する議論のほとんどは、女性による平等への要求と、女性の平等への途を阻んできた(そしていまも阻んでいる)数多の障害物とに対して、わざと気を配ってこなかった。そうした理論の抽象性のいくつかの点で貴重ではあるが、それらが世界でもッとも深刻な問題の一つに立ち向かいそこねてきたことを、隠蔽してしまった。ジェンダー正義の問題に適切な関心を向けると、家族は政治制度であって正義を免れる「私的領域」の一部ではないことの承認が生じるため、多大な理論的帰結が生じる。したがって、これまでの理論が見落としてきたことを正すということは、よく知られた古い理論を単に新しい問題に適用するということではない。理論構造を正しくするということなのである。

ヌスバウム『正義のフロンティア』



章の最後に、日本での様々な女性を守るための法律について紹介してくれています。
1986年 男女雇用機会均等法
1999年 男女共同参画社会基本法
2001年 DV防止法
2018年 政治分野における男女共同参画推進法
※国会や地方議会の選挙で候補者数を男女均等にする努力義務が、各政党に課せられる

こうした法制史は、女性のための正義を要求してきた運動の賜物です。その運動の原動力は、性差別による人間の尊厳の毀損への怒りでした。それは正当な怒りであり、世代を超えた協働作業を支えてきました。現代正義論がこの協働作業に貢献できるかどうかは、女性を、ただ対等な人間として扱うというシンプルな課題をどうこなしていけるかにかかっています。

本書より

第5章 グローバルな問題は私たちの課題——コスモポリタニズム

現代はグローバル化の時代であり、国と国との不平等や、他の国の貧困について、関係ないものとしていることはできません。
こうした国際的な問題に対応する具体的な提案として、著者はいくつかの方策を挙げています。
①寄付
②世界税(地球資源税・グローバル基金税・その他)
③ヘルスケアワーカーの移動規制
④正義の遂行主体としての多国籍企業
とても印象的であったのは、④の事例として紹介されていたアパレル・メーカーのリーバイ・ストラウス社の話です。1992年にバングラデシュの契約工場で発覚した児童労働の実態を受けて、就学年齢の子どもたちにこれまでの給料と同じ金額を支払いつつ、学校に通わせ、授業料と本代も支払うという方針に転換したといいます。法定労働年齢に達するまでは雇用しないという判断は目先の利益を追求する株主に反発しましたが、それに対し、株式上場を廃止し、今日に至るということです。

第6章 国民国家と正義——ナショナリズム

正義の考えに従えば、どこの国に生まれようと、同じような最低限度の生活が送れなければいけません。でも実際は違います。同じ国の中では、国家の制度によって守られなければいけない、他者を、特に隣接した他者を支援しなければ、社会は成り立ちません。では他の国の人は支援しなくてよいのか、という問題が生じます。その例として著者が挙げているのが、難民問題です。

UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)によると、2016年の難民は2,250万人で、難民発生国で見るとシリア難民が550万人、アフガニスタン難民が250万人、南スーダン難民が140万人です。そして受け入れ国ではトルコが290万人、パキスタンが140万人、レバノンが100万人となっています。同年日本が認定した難民は28人だったとのことです。

「われわれ」の自由や権利を守るという民主的決定を前に、正義論には何ができるでしょうか。
ロールズは『諸人民の法』において、「適正な愛国心(パトリオティズム)」を自己肯定感としていました。その自己肯定感とは、「市民の自由と高潔さ、および国内の政治的・社会的諸制度の正義とまっとうさ」に、さらには「市民の公共的・市民的文化の成実」に依拠するものだとされています。また、他の人民との優劣を争うものではないため、愛国的な諸人民であっても互いに尊重し合うことができると考えられています。<中略>
ですが、もし愛国心が人々を自国中心主義に突き動かし、世界のなかにある祖国の正しさを危うくするものなのであれば、現代正義論はその限界を指摘しなければなりません。

本書

引用が多くなってしまいましたが、消化しきれなかったというだけでなく、あまりに国や自治体に希望を持ちにくい現実を見せつけられて、なんとも言えない気持ちになりました。
確かに、あまり言いたくはないのですが、自治体の内部にいて、いつも希望を持ちながら仕事できているわけではありません。課題が複雑過ぎて、どこから取り組んで良いか分からなくて、というのは、恒常的になっている気もします。
ちょうどこんな記事を見つけました。

この方は外から変えようとしていますが、私は外で通用する自信もなく、出る勇気もないこともあり、中から変えたいと思っています。
そのために、やっぱり、課題の優先順位についても、考えていきたいです。そして、そのために必要になる基準が、正義なのです。

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