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高田裕美「奇跡のフォント 教科書が読めない子どもを知って―UDデジタル教科書体 開発物語」

読みながらなぜか、日本文化への愛情でいっぱいになりました。

この物語は、著者が学生時代から取り組んできたフォント開発をめぐる物語です。日本語の文字は、アルファベットの倍近くある数のひらがら、そしてカタカナ、さらに、たくさんの漢字があります。このため一つのフォントを完成させるために、1年から2年かかといいます。
読みながら、アルファベットだったら少なくて済むのに、という発想が浮かんできました。でも、そんなことを考えたら、日本語のフォントの開発なんてできないのです。
ただひたすら、読みやすいフォントを作りたい、それも、高齢者やロービジョンやディスクレイシアなど様々な課題を抱える方にとっても読みひゃすいフォントを作りたい、そのために、たくさんの時間と労力と感情を使って、UDデジタル教科書体ができたんだな、ということが分かりました。
私はこれまで、資料を作成するときなど、どのフォントを使おうか、と考える一瞬くらいしか、フォントのことを考えたことはありませんでした。UDデジタル教科書体のことは、ニュースなどでみたことはあったけれど、それができるまでのことは考えたことがありませんでした。正直なところ、フォントができるまでの過程について、それほど興味があったわけではないのですが、この本は、著者の筆力のおかげで、ぐんぐん読めました。

この本は色んな受け取り方ができるな、と感じました。

まず一つ目に、著者のこれまでの仕事人生をつづった物語としての見方です。著者は大学在学に、タイプバンクというフォント開発の会社の社長の話を聞いて感銘を受け、自分の作品を見てもらうことにします。それをきっかけにそこでアルバイトし、卒業後は就職します。平穏に仕事が続けられたわけではなく、尊敬していた社長が亡くなるという悲しいできごとがあったり、社長の奥さんが引き継いで、会社が持つ力を継続できるようにメンバーで協力したり、外の助けを借りたりしながら取り組んだりしました。
様々なフォントを開発しつつも、経営が悪化し、モリサワの子会社になります。高田さんも子会社の社員として仕事を続けます。昔からのやり方を知っていてこだわりがある分スピード感で若い社員に劣ったり、経営のためにはある程度妥協も必要だったりすることなどに悩むことなどもありました。
けれども、最後は、UDデジタル教科書体を世に出すことができるわけです。

二つ目に、何かを達成したいという情熱です。営利という観点から見れば、ある程度妥協しつつ、進めなければいけないこともあります。ですが、UDデジタル教科書体は、それでは完成しなかったのだと思います。
モリサワの子会社になった後、一度UDデジタル教科書体は、子会社としての業務ではなく、本社業務となってしまいます。けれどそれもしばらくして、通常のフォントと違うため、開発がストップしてしまいます。それくらい、特別なものでした。
他と同じだったら、ここまでUDデジタル教科書体の価値が認識されなかったと思います。けれど、他と違うものを作り上げる、ということは、とても大変なことで、そこには、尋常でない情熱がなければ、難しいのだと思います。
さらに、この情熱は、他の人にも伝播するものでなければ、難しいのだと思います。著者の技術と情熱は特別だったと思いますが、一人で成し遂げたことではなく、会社の中はもちろんのこと、様々な人を動かしました。またもともと情熱を持っていた人たちとの出会いも大きかったと思います。特にロービジョンの子どもたちのための教科書を作っていたボランティアの人たちとは、著者も落ち込むくらいの喧々諤々の議論の末、ボランティアたちの意見を取り入れて、完成しかけていたフォントの大きな修正をすることになったりしました。

三つ目に、私たちが日常当たり前に接しているものの裏にある、たくさんの人々の存在です。私は、朝から晩まで、毎日たくさんのフォントを見ています。本も読みますし、紙資料も見ますし、でもそれもみんなパソコンで作られたものですし、パソコンで仕事の資料を作成しますし、noteを書きますし、暇さえあれば、ついスマホを見てしまいます。
多分、フォントがなければ、生きていけません。
そういう人は少なくないと思います。
私たちは毎日フォントに支えられて生きているのだな、と改めて思いました。そしてその陰には、本当にたくさんの人の努力と情熱と時間がささげられているのだということを知ることができました。

私が感じたのはこの三つの読み方ですが、他の方は、また違った形で受け止めるのかもしれません。

かな文字は、中国から漢字が輸入されて、それがくずされてできたといいます。結局、漢字かな交じりの文章を綴る文化が定着しています。
漢字練習するのが面倒で、漢字なんて無ければいいのに、と子どもの頃に考えたこともあります。今ではそうは思いません。漢字検定を受けようと思うほど漢字が好きなわけではないけれど、ほんのりと、自分の中のかなや漢字に対する愛情に気付きました。
フォントを作った人たちも、日本語に対する愛情を持ちながら、作っていたのではないかなと思います。もう日本語を使う生活をしていること自体がりっぱな文化体験であり、それを支えてくれているのが、フォントなのではないかという思いに至りました。
フォントのおかげで、日々、大好きな日本文化に触れることができるのだな、と改めてありがたく思いました。


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