意味のないアウトプットが自己愛につながる可能性について

私は、建物のエッジや幾何学パターンのようなフォルムが大好きだ。
散歩しているときに良いフォルムの建物を見つけたときは、立ち止まってお世辞にも画質がいいとは言えない古いiphoneで撮っている。(一人のときは周りの目を気にして完全に周りに人がいないときでないと撮れないのだが。)

最近は、こういう自分の中に沸き起こってくる「かっこいい」とか「面白い」「好き」という感情をしっかりと受け止め、特に意味のない自己満足のアウトプットにつなげて行こうと企てている


今世の中にあるものたちにはたくさんの意味がある。生み出された背景があって、そこに多くの人の思考が、思いがこもっている。

そんなたくさんのものとたくさんの意味や情報の中で、日々私はプランナーやデザイナーという職業柄、なにか新しい意味を見出すことに頭をとらわれがちになっている。仕事的にもコンセプトや背景が重要視される仕事なのと、社会的に意味や価値がなければ物が売れない・存在が評価されない時代。

だからこそ、人からの評価を気にして、自分の生きる意味すら自分自身で問い続けて苦しくなっている。

でも、子どもの頃ってもう少し心で感じていたはず。自分が純粋に面白い、綺麗、かっこいいと思うものに心を動かされてきたはず。そこに意味なんて感じていなかった。心が動かされた色で、心が動かされた情景を描いて。それを見た相手が何を思うかなんて考えていなかったはずだ。

ふと、昔小学校の頃、図工の授業で山をきれいな青色で描いたときに、先生に山は緑でしょ。と言われたことを思い出す。先生は、きれいな青い山を知らないんだってその時は思ったっけ。
今、おとなになった私が山を描くとしたら、緑色の山を描くだろう。

あ、もう一個思い出した。私のいた小学校は新学期に各クラス目標を模造紙に書いて黒板の上に貼り付ける習慣があって。私のクラスは先生がわざわざ目標を一文字一文字印刷した紙を持ってきて、厚紙にはりつけて文字の形にカットしたものに2色の近い色の折り紙をモザイクアートのようにちぎって貼っていくということをしていた。青と水色、オレンジと黄色、赤とピンクといったように。グループに2セットずつ、担当の色の組み合わせが配られ、みんなが言われた組み合わせで文字に沿って貼っていく。

私はそんな先生のこだわりをよそに、水色とオレンジを組み合わせた。
あのひとつだけ異国タイルのような「ク」の文字と、先生の絶望した顔が今も脳にこびりついている。なんて集団行動ができない人間だろうと思う一方で、やはり今だったらしっかり青と水色をはりつけているだろうなとおもって少し寒気がしたのである。

いつからか、人の評価ばかり気にするおとなになってしまった。

とまあ、そんなことを思い出して、画一化されて人の評価や自分が生きる意味や価値ばかり考える自分にいままさに嫌気が差している。

意味はないけど、自分が感覚で好きだっておもえるものがあるのなら、それを発信してもいいんじゃないか。そうすることで私の意味のない、人の役に立たない部分も価値だと言ってくれる人もいるのではないか。なにより、自分が自分の内から沸き起こる「好き」をちゃんと意識して認めてあげることで意味や価値のない自分自身のことを愛すことができるのではないか、そう思った。

なので最近は前述したような建物の写真を撮って、エッジや幾何学パターンのようなフォルムを抽出したものをデザインに落とし込んでいる。

以前展示した際に作ったTシャツは友人が買ってくれ、かわいい!自分もほしい!と言ってくれる人もいた。自己満足で発信した自分の「好き」が誰かに伝わるって、とっても嬉しいことなんだと思った。(結局人の評価を気にしている事は内緒、、)

意味も価値もない自己満足のアウトプット。
だけど、自分のことをちょっと好きになれるかもしれないツール。
うん、まずは継続してやってみよう。

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