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アバターがもたらす再接続とペルソナの意識化についての備忘録

概要

この話は、仮に「アバター文化」が発展し最終的にもたらされる物とは、既存の人々が既存のソーシャルグラフとは別に、各人が持つペルソナをノードとして再接続された社会そのものではないか、と言う話だ。それも既存の社会を破壊的に再編するような再接続ではなく、あたかもチャンネルを切り替えるように、別レイヤーに新規に構築された社会である。

加えてそれは、ペルソナが意識化された社会でもある。

既にしばしば議論されている話ではあるが、改めて整理して備忘録的に書き残しておきたい。なおこの話は私の所感や推論が多分に含まれるため、ほぼ単なる備忘録である事を了承願いたい。あとクソ長い。1万字近くある。

「広義のアバター文化」と「狭義のアバター文化」

本題に入る前に、まず「アバター文化」とは何かを考えたい。現在「アバター文化」と呼ばれるものは大きく2つに分けられると考えている。それぞれ「広義のアバター文化」と「狭義のアバター文化」と呼びたい。

「広義のアバター文化」における「アバター」とは、2D/3Dアバターだけではなくハンドルネームやアイコンなども含む外見、及びその人の中身を示す発言や行動、それらから構築されたメディアペルソナのことを指す。これが「広義のアバター」である。「アバター文化」に関わるプレイヤーによるSNSなどでのテキストやボイスの発信など、アバター映像/画像を含む情報発信を除いた全ての活動が、基本的に全てこれに含まれる。この活動における「広義のアバター」には身体性は必ずしも伴わない。この元々の社会的立場を顧みずに、提示されたペルソナをありのまま受け入れる文化を「広義のアバター文化」と定義する。

それは例えるなら仮面舞踏会的な文化である。視点を変えれば、人形浄瑠璃的でもある。しかしそれらと「広義のアバター文化」が異なる点は、仮面/人形が必須となっているのでは無く、仮面を付けても付けなくても良いとされる点だ。実名と生身の姿で参加しても多くの場合受け入れられている。重要なのは、あくまでも提示されたペルソナをありのままの姿として捉え、またそれを良しとする文化的土壌があるという点である。そのペルソナは仮面のように画一的なものではない以上、完全な匿名でもなく、あくまで別名のような形である半匿名性も差異の1つであると言える。

対し、「狭義のアバター文化」は、VRSNSやSNS的性格を持つ動画配信プラットフォーム上の2D/3Dアバターを用いたコミュニケーション、及びそこで構築されたコミュニティの文化それ自体とする。現在VRSNSやVtuberの文脈において「アバター文化」として言及されるのは多くの場合こちらである。ここにおいては「アバター」がかなり明確に身体性を持っている。この点においてはVRSNSの文化とVtuberの文化は区別されない。また、アバターのクリエイションや改変などは、このコミュニティの文化に内包されるものとして捉えている。

「広義のアバター文化」、つまり「広義のアバター」がもたらすコミュニティの構造は、既存のネット社会で既にある程度構築されていた物と考えている。一方で「狭義のアバター文化」は、これをかなり視覚的に示し、誰にでもわかりやすい形に落とし込む効果があったとも考えている。逆に言えば、「狭義のアバター文化」の成立においては、既に「広義のアバター文化」が暗黙のうちにネット文化として成立していたために受け入れられやすかったとも言える。

直接的な関係性と、ネットを介した関係性

具体的な話に移る。例えば大きな駅のコンコースを歩いているといろいろな人とすれ違うと思う。会社員、学生の一団、家族連れ、カップル。これらの人々は、まず目に見える形、すなわちその場に居る人間同士の関係性を持っている。フェイス・トゥ・フェイスな、身体性を伴う直接的な関係性である。また、かなりの人がスマートフォンを手にしている。スマートフォンの利用は、ハイパーテキストによる情報閲覧やゲームプレイなどの他では、SNSやメッセージングサービスによるソーシャル的な利用が主であると思う。このソーシャル的な利用からは、それらの人はその場の直接的な関係性の他に、インターネット経由で「その場に居ない人」とのつながりも同時に持っている事がわかる。

実際には、連絡を取り合っている「その場に居ない人」のうちでも、多くの場合は直接的な面識がある人物であることがほとんどではないかと思う。例えば家で待つ家族であったり、取引先の担当者であったり、学友であったりである。しかしながら、一定数そうでない人もいる。すなわちソーシャルネットワーク上で知り合い、互いに本名も顔も知らないが仲が良いと言えるような人間。いわゆるネットで知り合った人である。

この時、その人をそれ以外の他者と識別する際に用いられるのがSNSでは多くの場合ハンドルネームとアイコンであり、これら自体と、ここから表象として浮き上がってくるペルソナが、前述の「広義のアバター」である。インターネット上で個人を識別する際に、「広義のアバター」は空間を伴わないスカラーな形で身体としての機能を発出しているとも言えるかもしれない。

しかしながら、直接的な関係性は必ず地理的な制約を受ける。居住地が遠すぎれば会うことは難しいし、生活圏が異なればそもそも知り合う事すら難しい。何らかのメディア/媒体を通してでなければお互いの存在すら知り得ない。この点において、直接的な関係性は地理的制約を受けている。また年齢や文化的背景、社会的地位などにも制約を受ける。これは単純な話で、例えば中学生が企業経営者とフラットな関係性を直接的な関係性のみで持つのは中々稀である、といような話だ。

一方、ネットを介した関係性は、地理的制約や社会的制約を多くの場合で無視する事ができる。前述の通り、ネットを介した関係性は仮面舞踏会に例えた「広義のアバター文化」がベースに存在する。実名で活動しても、匿名で活動しても、どちらも変わりない主体として捉えられる一種の平等性が、ある程度下地として存在している。故に、中学生が企業経営者と偶然フラットな関係性を結ぶ事もあり得る。実際、そういう例はネット文化においてしばしば見られる。これが、最初に述べた再接続である。

「ネットの繋がり」と「リアルの繋がり」

再接続を意識した時、「広義のアバター文化」は、本来であれば出会わないような人々に新たな関係性をもたらす。地理的制約をほぼ全く受けないし、世代による差もかなりフラットな物になる。勿論世代や文化背景については言葉遣いや関心の方向性である程度推測はできるが、それらが殆ど同じ場合、直接的に会うまで全くわからない場合もある。その平等性の上で、各人の持つ関心の方向性によって新たに関係性が築かれていく。俗に「ネットの繋がり」と言われるものがそれである。

この再接続された結果である「ネットの繋がり」がわかりやすく表出する例は、いわゆるオフ会や同人イベントである。本来であれば接点がなさそうな人間同士が、ほぼ関心事のみを共通点として集まる会。何も知らない外部の人間からは奇異に映る事もしばしばあるだろう。どういったご関係ですか?と尋ねられた経験がある方もそれなりにいるかもしれない(少なくとも私は何度もある)。

勿論そういった「ネットの繋がり」の交流には、ある程度の利害関係や打算などによるある種の行為も含まれることもある。しかし基本的には利益追求などの目的はあまり存在しない、近代的な社会においてはかなり純粋な趣味と興味の世界である。この点で、ネットを介した関係性においては、ゲマインシャフト(共同体組織)的な関係性のある集団の再構成が行われていると思っている。

ゲゼルシャフトからゲマインシャフトへの回帰

ゲマインシャフトとは、20世紀前半のドイツの社会学者テンニースが提唱した概念である。大まかな説明だが、テンニースは近代社会の成立をゲマインシャフト(共同体組織)からゲゼルシャフト(利益社会)への移行として捉えた。ゲマインシャフトは友愛的な関係により融和する自然発生的な社会構造であり、典型的な物は家族や村落、中世の都市とされる。対してゲゼルシャフトは企業や近代国家など、利益・契約関係に基づく人為的な社会構造であり、利己的・打算的な関係性を内包する。前者は融和的・共同所有的だが、後者は排他的・個人所有的である。ゲゼルシャフトは、利己的な利益追求と利害関係を前提としているため、構成員同士の関係性は排他的なものになる。勿論、利害の一致から協調関係を結ぶ場合も当然あるが、根源的には競合性を持ち、友愛的・人格的結合の視点で見た場合に構成員各人は、多くの場合孤立状態になる。これは私の理解なので正確なところは各人で調べてみて欲しい。

さて一方で、「ネットの繋がり」に対して「リアルの繋がり」は、全てではないにせよ、ゲゼルシャフト(利益社会)的なものが多いと思う。いわゆる社会人同士の関係性はまさにそうで、これは目的を持って人為的に形成された会社組織、あるいはその目的達成の過程で生まれた繋がりである。いわゆる「ビジフレ(ビジネスフレンド)」は、こちら寄りの存在である。学校のつながりは果たしてゲゼルシャフトかと言うと、例えばクラスは教育という目的を持って人為的に作られているためゲゼルシャフト的だが、クラブ活動などは構成員個々の興味関心によるものであるためゲマインシャフト的であると言える。ただし、学校という枠組み自体がマクロでみれば教育政策に基づいて人為的に作られたものであるため、そのゲゼルシャフト的な枠内での局所的なゲマインシャフトではある。血縁関係について「リアルの繋がり」ということはあまり無いかもしれないが、少なくとも「ネットの繋がり」ではないのは自明だ。ただし血縁関係はテンニースの定義においてはゲマインシャフトに分類される。そのため、この段落最初の断り書き通り、「リアルの繋がり」全てがゲマインシャフト的というわけではないが、一度社会に出た場合においては、恐らく多くの場合で新しく構築される人間関係はゲゼルシャフト的な繋がりであると思う。

「ネットの繋がり」は、このゲゼルシャフト的な近代社会のもつ人々の関係性の持ち方・有り様にある程度変革をもたらした。前述のゲマインシャフトへの回帰である。「ネットの繋がり」の多くは契約や利害関係によって構築されたものではなく、興味関心の方向性を同じくした人々が、何らかのプラットフォーム上で形成した融和的・和合的な関係性が多い。いわゆる「○○クラスタ」「○○界隈」などはわかりやすい例かもしれない。その中で分離や反発も勿論生じるが、本質的には融和志向を持つ関係性だ。信頼性や共感性が物を言う世界になっている。勿論ネットの繋がりと言われる物の中にも利益追求などを目的とし、打算的な行為を含みうる関係性もあるが、それはオフ会の例と同様に少数派ではないかと思う。近代社会はゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの移行として捉えられるが、これはそれに逆行する流れである。

ただ実際のところ、SNSでのつながりと「リアルの繋がり」がほぼ等号である人の方が多数ではないか、とも思っている。俗に言う"リア充"な運用スタイルだ。ただこれは単に比率の問題で、多くの場合SNSでのつながりと「リアルの繋がり」は完全な等号ではなく、大抵は、多数のリアルの繋がりと少数のネットの繋がりを1つのアカウントで内包している、と想像している。Twitterでやり取りする人は直接会った人のみに限る、という運用形態はどちらかと言えば少数派だろう。またこのやり取りにはいいねなどのリアクションも含む。リアクションのみの関係性も存在するからだ。勿論アカウントを分けるなど、リアルの繋がりとネットの繋がりを完全に分離しているケースもある。

いずれにせよ、SNSでのつながりと「リアルの繋がり」が概ね等号であるケースが多くのユースケースを占めているとは想像しているが、「ネットの繋がり」は多くの場合でゲマインシャフト的な繋がりである、という点はこれを踏まえても変わらない。すなわち利害関係というよりも、興味関心の方向性を同じくするという点において構築される関係性である。

「広義のアバター文化」がもたらした再接続

これらを踏まえた上で、再接続という議題に戻る。「ネットの繋がり」に対し「リアルの繋がり」は、まだ完全に地理的制約を克服しては居ない。例えばリモートワークはコロナ禍によって急速に一般化が進みつつあるが、IT業界などの一部を除き、まだ多くの企業で対面での業務が必要な状態であるのは間違いない。まして血縁関係において地理的制約を完全排除することは、それが生み出される仕組み上、極めて困難である。また「リアルの繋がり」の構築には文化・社会的制約も大きい。前述の中学生が企業経営者とフラットな関係性を持つのは難しいという例えがそれだ。立場や世代などが大きく異なる場合、そもそも関係性が構築される機会さえ殆どない。物理的に生活圏や活動時間帯が異なるというのもある。これらは世代や社会的立場による文化的差異、ジェネレーションギャップを生む要因でもある。

対して「ネットの繋がり」は、ほぼ一切の地理的制約を受けない。遠隔地に住んでいても関係性を構築し長期間保つこともできる。さらに社会的立場や世代、文化的背景が異なっていても、関心の同一性のみで関係性を構築することができる。

更に加えて、この「ネットの繋がり」は「リアルの繋がり」を排他するものでは基本的にはない。勿論、余暇時間の使い方次第では「リアルの繋がり」の維持を阻害する場合もあるが、これはリアル・ネットの対比に関係なく発生する単なるコミュニケーション頻度の問題である。リアル・ネットそれ自体が生み出すゼロサム的な阻害ではない。

まとめると、「ネットの繋がり」は前述したとおり「広義のアバター文化」としての性格を持ち、更に「ネットの繋がり」すなわち「広義のアバター文化」は、「リアルの繋がり」を破壊すること無く、共存する形での新たな関係性を構築しうるものである、と言うことができる。

「狭義のアバター文化」がもたらすペルソナの意識化

さて、ここまでの「広義のアバター文化」をベースにした議論は、既存のネット文化で十分説明できる上、既に構築された社会構造であるのは既に述べたとおりだ。ここに「狭義のアバター文化」が導入された結果、どうなったか。

「狭義のアバター文化」の代表例はVtuberだろう。Vtuberが急速に注目され始めた時期と私が捉えている2017年末~2018年初頭にかけ、言葉遣いとしては「魂」や「ガワ」などの言葉を使いつつも、ペルソナのあり方に注目が当時集まっていた。これにより、それまでのネット文化では暗黙の物、または全く気づかれない物であったネット上のペルソナが、改めて多くの人において意識化されたのではないかと考えている。いわゆる「中の人」の話である。現在でもVtuber界隈においてはメタ的な「中の人」の議論はタブーとして避けられる傾向にある。人形浄瑠璃的な純粋なエンターテインメントとしての楽しみ方、または「狭義のアバター文化」内の人間関係における姿勢としては正しいと考えているが、ペルソナの議論においてはどうしても不可避の話である。何れにせよ、ここで重要なのはペルソナが意識化されたという点である。

ペルソナと「繋がり」

ペルソナと「繋がり」について補足しよう。2018年5月のナンバユウキ氏の記事「バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン・ペルソナ・キャラクタ」の言葉を借りた場合、ここでのパーソンが、ペルソナを介して本稿で述べている「ネットの繋がり」と「リアルの繋がり」の両方を持っている事になる。「ネットの繋がり」ではネット上のペルソナが、「リアルの繋がり」では実社会で培ったペルソナがそれぞれ表出する。ただし、これは「狭義のアバター」を持つVtuber・VRSNSユーザーに限らず、「ネットの繋がり」を持ち「広義のアバター」を持つすべての人に共通する。

更に補足すると、酷く無粋な話だが仮の話として、ここにもし単一のパーソンが存在しなかったとしても、この議論においてはそのペルソナを支える全ての人員がパーソンとして振る舞っていると仮定できる。そこにはそれぞれのペルソナを介した「ネットの繋がり」と「リアルの繋がり」の両方が存在するのは変わらない。

なお余談だが、パーソンの「広義のアバター」が持つペルソナをそのまま「狭義のアバター」としてVtuberの文脈に持ち込んだのが、いわゆるVtuberでいう「転生組」であるとも言える。ただしVRSNSユーザーの場合は、元々持っていた「広義のアバター」自体の匿名性が高く「リアルの繋がり」でのペルソナと乖離している場合や、そもそも「狭義のアバター」に合わせ「広義のアバター」を再設定している場合などがあり、一概に「転生組」であるとは言い難いと考えている。完全に余談なので話を戻す。

しかしながらこれも前述の通り、多くの人においては、自身が持つリアルを含めた幾つもの関係性のうち、「ネットの繋がり」が占める率は低い割合に留まるのではないかと思う。現状ここまでの議論は基本的に「ネットの繋がり」が前提となっていたが、「ネットの繋がり」より「リアルの繋がり」の方の比重が大きい人の方がマジョリティであると考えられる。

「狭義のアバター」を持つには何らかの理由が必要である。「広義のアバター」を持つ理由については、「リアルの繋がり」を離れた匿名での活動を目的としたSNSアカウントの取得、という形で、SNS全盛期を迎えしばらく経った今日においてはかなり明確に存在している。しかしながら、現状「狭義のアバター」については、注目されてから2年程度しか経っていないこともあり未だ用途が限定的で、こうしたVtuberやVRSNSでの活動以外の目的はあまり浸透しているとは言い難いと私は思っている。

浸透と書いたが、「狭義のアバター」の浸透や普及それ自体は本稿の目的ではない。あくまでも冒頭に書いたとおり「アバター文化」それ自体がもたらす再接続とペルソナの意識化の話である。それを踏まえて、現状では「アバター」を持たない人の殆どは「リアルの繋がり」に比重があるが、これら全体がもし「アバター」を持ち「ネットの繋がり」に比重が傾くとしたら、どこに注目すべきなのだろうか。

「狭義のアバター」は身体性のみではない

まず現在「狭義のアバター」をもっている人の多くは、既に「ネットの繋がり」の比重が大きいパーソンがほとんどなのではないかという話だが、これは2つの推測に基づいている。1つ目は「広義のアバター文化」に慣れ親しみ、ペルソナの概念をペルソナという語を知らずとも、肌感覚で知っている人々であるがゆえに「狭義のアバター」を受け入れ易かったのではないかという推測と、2つ目は、この「狭義のアバター」の情報にアクセスできる層自体が「ネットの繋がり」の比重が大きい文化圏に属する層であったという推測である。これをやや乱暴かつ端的に言ってしまえば、オタク層かつアーリーアダプター層である。受け入れられやすい文化的土壌があり、個々の嗜好や関心の方向性から「狭義のアバター」を取り巻く文化が魅力的に映ったこと、かつアーリーアダプター的な行動力とメンタリティを持っていたことが、これらの人々を「狭義のアバター」の獲得に動かしたのではないかと思う。ここで注目すべきは、「狭義のアバター」がもつ身体性それ自体は直接的な獲得の理由にはなっていないのではないか?という点である。

また「リアルの繋がり」に比重があるパーソンが「狭義のアバター」の獲得に動きにくいという話の関連として、「狭義のアバター」の主な用途であるVRSNSやVtuberは、「広義のアバター」の主な用途である既存SNSと異なり、単純に人口の母数が少ないがゆえにコミュニティが狭く、「狭義のアバター」を取得しても、上手くコミュニティとマッチングしなければ維持する理由がなくなってしまうという点もある。既存SNSと比較した時にVRSNSのユーザー数がそれほど多くない事や、コミュニティへの属し方が難しい事などがこれにあたる。Vtuberにおいても同様のことが言え、視聴者層/配信者層どちらにも認知されなければ「狭義のアバター」を持ち続けるモチベーションは維持しにくいと考えている。いずれにせよ人が少ないのだ。現状「狭義のアバター」の用途としてコミュニケーションコンテンツとしての比重が大きいため、「狭義のアバター」で身体性を獲得しても、相手が居なければその運用コストに対し得られるものが少ない状態に陥ってしまう。

また既存SNSでの活動の多くは「広義のアバター」で事足りてしまうという点もある。これはしばしば起こる立ち絵を置いた配信者とVtuberの差に関する議論にも見ることができる。「狭義のアバター」の持つ身体性のみに注目した場合、上手くここを解決する現実的な解釈を導き出すのは割と難しいのではないかと考えている。

「狭義のアバター」はペルソナの意識化を加速させる

こういったハードルはあるが、何らかの形で「リアルの繋がり」に比重があるパーソンによる「狭義のアバター」の獲得が進んだとしよう。現状のネット社会においては「広義のアバター」による再接続が進んだことは既に述べたとおりだ。加えて「狭義のアバター」が加わった事によってもたらされた変化は、ネット上のペルソナが改めて意識化されたという点にあるとも述べた。統合すると、「狭義のアバター」の獲得が進むことによって、このペルソナの意識化もまた、加速度的に進行することが考えられる。

「狭義のアバター」のもつ効果として注目されているのは、「狭義のアバター」の身体性に纏わる側面であることが多いと考えているが、私はこのペルソナの意識化、すなわち「狭義のアバター」がペルソナという観念自体を意識化させ、ペルソナをある種の手法あるいは一種の道具とさせることができるかもしれない、という点に注目したい。文明の発展において、特定の手法や技術の登場などによる抽象的な観念や概念の浸透が、人々の思考や発想を加速させていった歴史上の事例は数多く、それと同じことがペルソナにおいて起きるかもしれないと私は考えている。

比較的具体的な例として、2019年4月に行われたバーチャルマーケットのメディア向け開催発表(当時私はHIKKY所属ではなく、外部メディアの記者として参加していた)にて、SHOWROOM代表の前田裕二氏が、人格数が増えると一人あたりGDPは増えるかもしれない、という旨の話を述べられていた。これはSNS上でのサブアカウントの取得により自分の生来の人格とは別に新たな価値を生み出していくことが出来るようになる、という可能性の話だ。ここでのサブアカウントや人格は、本稿における「広義のアバター」に相当しているが、もし仮に「狭義のアバター」によりペルソナの意識化が更に一般に浸透していった場合、この別に価値を生み出せるという利点についても同様に意識化がなされていくのではないかと考えている。つまり、リアルの他にネット側にも意識的にペルソナを持ち価値生産を行なう人口が増える。意識的にという部分が重要で、偶発的副次的な効果ではなく、ペルソナが意識的に価値生産と高効率化の手段として取られるような流れが生まれるかもしれない。

また、ペルソナの意識化が進みその活用方法が編み出されていけば、そのペルソナの獲得のために「狭義のアバター」が更に求められる、という状況にもなりうるのではないだろうか。そうなれば、「狭義のアバター」とペルソナの意識化は相互補完的かつ加速度的に進展をみせることにもなるかもしれない。

概念浸透後の世界

ただ正直な所、「狭義のアバター」とペルソナが生み出す具体的な未来予測は極めて困難だ。ペルソナ自体がかなり抽象的な観念である事以上に、情報社会におけるペルソナの観念、しかも意識化されたインターネット上のメディアペルソナを用いて人々が何を思いつき実行に移していくか、それを予測できるなら私は今頃こんな文章を書いていないでさっさと会社を起こして事業化しているだろう。だが、それが「狭義のアバター」によりもたらされ得るという想像はできる。なので今、忘れないようにこの文章を書き留めている。

「広義のアバター文化」が生み出した再接続を背景とし、今後起きうるかもしれない「狭義のアバター」によるペルソナの意識化、これは現時点では可能性の話に過ぎず、ペルソナの意識化もまた、「狭義のアバター」以外が起こすかもしれないし、そもそも永遠に起こらないかもしれない。だがいずれにせよ極めて興味深い話ではあり、私はこれをここに書き留めて、数年後に自分で見返した時に2020年の育良はアホだな…と思うのか、やっぱ天才だな…と思うのか、行く末を見守りたいと思う。





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