Too old to die.
(21の頃に書いた文が出て来ました)
「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村礒多三十七。」
「それは、何の事なの?」
「あいつらの死んだとしさ・・・・・・」
太宰治「津軽」本編の冒頭らしい。随分と皆若死にだ。
今ならば男盛りといった歳に死んでいる。ロックスターたちにとっての二十七が、物書きには三十六、七あたりにあるのかもしれぬ。
ちなみに、引用をしておいてなんだが、私は「津軽」を読んだことがない。というのも太宰の閉塞感にまみれた生き方が好きではなかったからだ。
そんな鬱々しているくらいなら米でも作った方がよっぽど生産的だコノヤロー、と昔は本気で考えていた。
紆余曲折があり、今では米を作る気にもなれぬ気分の落ち込みというものも生きていれば起こりうると知り、太宰に対する見方も優しくなったと感じている。だが、読んでいない。理由は特にない。
閑話休題。
冒頭の引用をとある文章で読んだとき、ふと父方の祖父の享年を思い出した。
両親が結婚したときには既に鬼籍に入っており、私とは血の繋がりはあれど面識はない。ただ、第二次大戦に出征し、シベリアに抑留され、その間のことを一切家族に話すことなく死んだということだけ聞いた。
享年五十六。
冒頭の明治から昭和にかけての文豪たちよりよっぽど長生きだが、時代背景を考えれば特に長生きとも言えない。
戦前戦後のホワイトカラーらしく、外出時はテーラーで仕立てた背広とパリッと糊の利いたシャツ、中折れ帽の出で立ちで、その下に生涯変わらず褌を愛用していたらしい。すべて伝聞である。何しろ私は祖父を知らない。
父が不惑になった秋、私が生まれた。
両親共々若いとは言えなくなった頃に思いがけず授かったらしく、意味は違えど三文安といったところか。基本の躾は厳しかったが、上の兄弟に比べて自由に育てられ、なんとなく進んだ中高一貫校で十五の夏を迎えた。
父の誕生日は真夏の八月である。
私が十五、父が五十六。
抜けるように空の青い猛暑の朝、父は父の年齢に追いついた。
自分の父が超えることのなかった齢の壁を踏み越え、鞄を下げて出勤していった。それから一年経ったのち、父は五十七を迎えた。
母はその一年を緊張でもって過ごしたらしい。「おじいちゃんの歳を超えさせるのを目標に、毎日ご飯を作ってきたの」と漏らすのを後に聞いた。感覚としては、嵐が過ぎるのを必死に待っているようなものだったのかもしれず、母は少し疲れて見えた。
ふと、私の前に広がっているはずの茫漠たる時間を思う瞬間がある。
果てしない荒野か何かのようなもので、よく目をこらせば何か書かれるのを待っているマイルストーンのようなものがたくさんある。その中をひたすら歩いている。
地面の至る所にマンホールのような穴があって、少し間違えると不思議の国のアリスのようにすとんとどこまでも落ちてしまう。天気はころころ変わり、晴天もあれば雨もある。ときに台風が来て、踏ん張っても足元がずるずる滑る。
そんなとき今どこにいるのか知りたくて、石を探す。
方々に散らかっているマイルストーンの中で一つ字が既に刻んであるものがあって、それが親の享年なのかもしれない。
死者は歳をとらず、生者は一日々々を体に取り込むようにして老いゆく。
燦然と文字を穿たれた石は輝いている。
ある者は全力疾走で、ある者はゆっくりと、ある者は這うようにしてたどり着く。そしてある者は、穴に落ちてしまってたどり着くことはない。
自分の父の歳を超えて、父は今年の夏で六十二になる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?