落下と反復について 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』

作中作『スタァライト』

TVアニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』および映画『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は「戯曲『スタァライト』」という作中作が重要なモチーフになっている。それは塔に上り、塔から落ちる物語である。

時代も場所も定かではない架空の国。年に一度の夏の星祭りの夜、フローラとクレールという二人の少女が、願いを叶える星を掴むため「星摘みの塔」と呼ばれる塔に上る。塔に幽閉された女神たちの妨害を乗り越えて塔の頂にたどり着いた二人だが、星を掴もうとするその時、フローラは星の光に目を焼かれて塔から落ち、残されたクレールは罪人として塔に幽閉される。

戯曲『スタァライト』の結末でフローラは塔から落とされる。TVアニメの第一話ではそれをなぞるように印象的な落下のシーンが三度描かれる。

第一話の三度の落下

一度目は華恋が教室で見た白昼夢である。気が付くと彼女は東京タワーのむき出しの鉄骨の上に立っている。高層部を吹き抜ける風に煽られながら周りを眺めていると、後ろから近付いてきた長髪の少女に突き落とされる。地上へ落下しながら、自分を突き落とした相手にどこか見覚えがあることを思い出す(この時点ではまだひかりが転校してくることを知らない)。

二つ目は地下室へ下降するエレベータである。寮を抜け出したひかりを追いかけて夜の校舎に立ち入った華恋は一階の廊下で昼間は無かったはずのエレベータを見つける。扉のボタンを押しても反応がない。が、次の瞬間にエレベータの扉を含む廊下のカベがまるで書割のように切り取られ、画面の下へ滑り落ちでいく。そして画面の上部からエレベータの扉もそっくりな壁が何事もなかったかのように収まる。壁の下降に巻き込まれた華恋は真っ暗な空間を滑り落ちていく。地下室などないはずの校舎の下に巨大な舞台が現れる。観客席に着地した華恋は舞台の上でひかりと星見純那が武器を持って斬り合う光景を目撃する。華恋の隣には人語を喋るキリンが座っている。

三つ目の落下はそのすぐ後に起きる。前述の二つのシーンと異なるのはそれが華恋自身の意思によるという点である。目の前で起きている状況を飲み込めない華恋に向かってキリンは、舞台に上がる覚悟の無い者は立ち去れと突き放す。だが華恋はその言葉に従わず、キリンを踏み台にして観客席から舞台に飛び降りる。「アタシ再生産」というロゴを背景に華恋がゆっくりと落ちていく。溶鉱炉に髪飾りが落ちて剣が鋳造され、滑車が回転し無人で動くミシンが衣装を織り上げる。ひかりと純那の戦いに乱入した華恋は楽曲に合わせて踊るように斬りかかり、瞬く間に純那の上掛けを落として「レヴュー」の勝者となる。

三つ目の落下の時点で、戯曲『スタァライト』の悲劇性とは異なる意味が生じている。落下する過程でこれまでの自分とは異なる存在に変身する、生まれ変わるための疑似的な死として描かれている。
加えて言えば、一度目にひかりに東京タワーから突き落とされたことは、レヴューで再会した後の彼女の発言を見るに華恋を(負ければキラめきを奪われるリスクのある)オーディションから遠ざける意図があったと考えられる。

落下する過程でこれまでの自分とは異なる存在に変身する。生まれ変わるための疑似的な死として描かれている(この変身、生まれ変わるということについて、たとえば2022年12月3日に池袋の新文芸坐で行われた劇場版上映後のトークショーで古川監督が「レヴュースタァライトという作品に取り組むにあたって演じるということの意味を徹底的に考えた。この作品では一人の人間が舞台に上がるたびに違う人間に生まれ変わることだと定義した」という趣旨の発言をしている)。

最終回での結末の書き換え

TVアニメの最終回で華恋は、戯曲の結末を書き換えてひかりを救い出す。

“スタァライトは必ず別れる悲劇。でも、そうじゃなかった結末もあるはず”
“塔から落ちたけど、立ちあがったフローラもいたはず”
“クレールに会うために、もう一度塔に上ったフローラが”

華恋が行ったのは戯曲『スタァライト』を自分の手で翻訳することだった。原書を読み、別の解釈を提示する。読み直すことで元の作品が息を吹き返す。塔から落とされる悲劇であった戯曲『スタァライト』が『レヴュースタァライト』という物語に生まれ変わった。

劇場版について

『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は前半と後半で異なる構成をしている。
前半は99期生たちの現在と並行して華恋の過去を描いているが、ひかりの乗った列車が終点に着くのを合図にキリンが「ワイルドスクリーーンバロック」の開演を宣言し、それからは5つのレヴューが続けて描かれる。
石動双葉と花柳香子による「怨みのレヴュー」、神楽ひかりと露崎まひるによる「競演のレヴュー」、星見純那と大場ななによる「狩りのレヴュー」、西條クロディーヌと天堂真矢による「魂のレヴュー」、そして愛城華恋と神楽ひかりによる「スーパースタァスペクタクル」である。これらのレヴューもまた、TVアニメとは違った形で塔と落下の物語を反復しているのではないか、というのがここで主に言いたいことである。

怨みのレヴュー

斬り合いを演じながら双葉と香子が石段を駆け上がる。香子が問いかけ双葉が答える。二人が石段の頂上に到達するとナイトクラブを模した舞台に切り替わり、ホステスに扮した香子と客に扮した双葉が向かい合っている。香子からの問い詰めに双葉は答えることができずに黙り込んでしまう。
新国立第一歌劇団の受験を言わずにいたことについて、双葉は香子から責められている。卒業を前にして二人の進路のすれ違いが表面化してきている。
二人は塔を上るように舞台の石段を上る。TVアニメで描かれた戯曲『スタァライト』の舞台では、巨大な階段状のセットとして星摘みの塔が登場する。「怨みのレヴュー」の舞台である寺社の石段は星摘みの塔に重ねられているように見える。
二人の間の緊張と不和は、石段を駆け上がるのに合わせて高まっていく。そして、舞台の頂上に達した時、緊張状態もピークに達する。

“表出ろや”

という香子の台詞とともに場面が変わり、清水の舞台を模した場所でデコトラを背に二人が再び向かい合う。
香子が問い双葉が答える構図がここで反転する。双葉はここまで口にすることのできなかった、ある種身も蓋もない本音をぶちまける。

“なんで、なんでわかってくれないんだよ!”
“駄菓子買ったり寝かしつけてやったりしたじゃん!ずるい!ずるい!”

そして二人を乗せたデコトラが正面衝突する。舞台の柵を突き破ってデコトラが地上に落下する。双葉と香子は破壊された舞台の手すりにぶら下がっているが、やがてそれも折れてデコトラと同様に落ちていき、桜の花びらが敷き詰められた荷台に着地する。
この一連の動きから見て取れるのは二点である。登場人物が低い場所から高い場所へ移動することと不和や不安の高まりが同調している。そしてピークに達した緊張が地上への落下とともに解消される。
見つめあう二人が和解と別離の言葉を交わしてこのレヴューは終了する。戯曲『スタァライト』のような強いられた別離ではなく自ら選んだ自立である。

競演のレヴュー

昇ることが追い詰められることと同義である、という構図は続く「競演のレヴュー」にも見られる。このレヴューではまひるとひかりが陸上競技場を模した舞台を駆けながら、体操、テニス、バレー、野球といったさまざまなスポーツの選手に姿を変える。このレヴューはTVアニメでまひるが演じた「嫉妬のレヴュー」の変奏と言える。追いかけるまひるに対し事態を飲み込めず戸惑うひかり(華恋)という関係も共通している。
上方向への移動が始まるのはまひるがひかりの肩掛けを落としたところからである。レヴューに集中できないひかりに対し、まひるはこれまでとは一転した低い声色で問いかける。

“どうして演技しないの・・・?”

まひるの変貌と呼応するように舞台の照明も暗くなる。ミスターホワイトのハリボテを叩き割り、

“舞台の上で演技しないなら、何も言えないよね。何されても”
“大っ嫌いだったの。神楽ひかり、あなたが・・・!”

と続けるまひるに恐怖したひかりはその場から逃げ出すが、ひかりの向かう先々へ幽霊のようにまひるが現れる。追いかけっこが本気の逃避に姿を変えている。
エレベーターに飛び込み、逃げ場のない最上階に辿り着いたひかりは舞台の端でついにまひるに捕まってしまう。ひかりの感じている困惑と恐怖は頂点に達する。そしてまひるの手で地上へ突き落とされる。TVアニメの第一話で東京タワーからひかりに突き落とされた華恋の姿が重なる。
悲鳴を上げて落下するひかりをミスターホワイトの形をした巨大なクッションが受け止める。ミスターホワイトの上ですすり泣くひかりに、クッションの縁から顔を出したまひるが先ほどまでと打って変わって穏やかな表情で声をかける。

“そう、怖かったんだ。一緒だね。私と”

照明が灯り、挿入歌も穏やかな曲調に変化している。
本音を曝け出さざるを得なくなるまで追い詰め、その結果わだかまりが解消するという荒っぽいカウンセリングのような展開は「怨みのレヴュー」と共通するところである。また、「競演のレヴュー」でのまひるは自らの手でひかりを突き落としている。落下することが疑似的な死と再生を意味することは先述のとおりである。TVアニメの第一話でひかりが華恋に対して行ったことを、意味を変えてまひるがひかりに行っているのである。ひかりを、ひいてはその先にいる華恋を再び舞台に上がらせるために。それは最後の「スーパースタァスペクタクル」でひかりが華恋に行うことでもある。
このレヴューで落下は二度繰り返される。レヴューを終えたひかりは華恋の元へ向かうため舞台の奈落に自ら飛び込んでいく。戯曲『スタァライト』が塔に上ることを目指してそこから落とされる物語であるとすれば、「競演のレヴュー」では塔から落ちる(降りる)こと自体に意味が生まれているのだ。

狩りのレヴュー

上昇するエレベータに乗って純那が舞台に現れる。ひかりを乗せた列車を映す横方向の移動ショットの直後に、動線を交差させるように上昇する純那のショットが配置されるため、なおさら印象的である。
ここまでの「怨みのレヴュー」「競演のレヴュー」の展開から言えば、この時点で既に純那は追い詰められている。エレベータが上りきると、舞台のスクリーンに「大場映画株式会社」というロゴマークと現在の純那が映し出され、直後に切腹の場へと場面が切り替わる。
このレヴューには死のモチーフを見ることができる。上述の通りレヴューが始まると同時に舞台は切腹の場となる。軍服を来て正座する純那の前に匕首が置かれ、同じく軍服を来たななが介錯人として日本刀を構えている。続くカットで日本刀が地面の上の帽子に降り降ろされ、血のように赤い液体(トマトの汁?)が飛び散る。また、その後の場面で、心を折られて膝をついて俯く純那の前にななは再び今度は足で匕首を押しやり自害を迫っている。
落下によって疑似的な死と再生が描かれていることは述べてきた。だが、これら一連の動作に、これまでのレヴューであったような舞台から落ちる、突き落とすといった落下の要素は見られない。心が折れるところまで追い詰めてそのまま突き放している。「怨みのレヴュー」での香子や「競演のレヴュー」でのまひるのような、相手の本心を引き出したり発破をかけたりする意図は見られない。いわば再生を求めていない。舞台女優の道を諦めつつあった純那に見切りをつけて完全に(役者)生命を断とうとしている。

“いま君に、美しい最期を”

という台詞でこのレヴューは始まっている。ななはかつて、第99回聖翔祭の眩しい思い出を追い求めて数えきれないほどの再演を繰り返してきた。そして彼女の趣味が写真を撮ることであり、このレヴューでもカメラを構えて純那に迫り、写真に剣を突き立てていた。美しいものを美しいままとどめておきたい(そうでなくなるなら美しいまま死ね)という思想の、どうしようもない発露である。
このレヴューが異質な点は他にもある。ななは純那を圧倒しながらも肩掛けを落とそうとはしていない。組み伏せ、武器の宝石を砕き、強い言葉を浴びせ、再三自死を迫りながら自らはとどめを刺そうとしない。
レヴューは本心(言えなかった言葉)を曝け出す場であり、そこには仕掛ける者と仕掛けられる者という構図が成り立つ。香子やまひる、後述の「魂のレヴュー」でのクロディーヌが仕掛ける側であり、双葉やひかりや真矢が仕掛けられ、隠していた感情を引き出される側である。その例で言えば「狩りのレヴュー」において仕掛ける側はななであるはずなのだが、ここまで見る限り相手の心を解放するという役割は果たしていない。むしろ、ここで曝け出されているのは、「美しい最期」を求めながら純那にとどめを刺すことのできないなな自身の矛盾した本心である。
このレヴューに落下があるとすれば、それはまず精神的なものである。ななに成すすべなく打ち負かされ、唯一の拠り所であった文学者・哲学者たちの格言(=他人の言葉)を否定され、

“君は、美しかったよ”

と過去形(=死んだ存在)で扱われ、そしてそこから復活(開き直り、本心の発現)する純那は、追い詰められて落下するというここまでのレヴューの流れに重ねることができる。
舞台少女以外のものに目を向ければ、レヴューの最中にはさまざまな舞台装置が降って(落ちて)きているのが確認できる。一つは物質化した「星」である。レヴュー前半の表現の特徴として、駆け回るななの足元に純那が引用する格言を映す演出がある。言葉が視覚化されている。その流れの中で「星」という文字をかたどった大量のオブジェが天井から落ちてくる。これらの格言、あるいは(彼女の苗字にも掛けてある?)「星」の字は、ななによって否定されるものである。その否定が、それら文字そのものを破壊したり踏みつけたりすることで表されているのではないか。加えて言えば後半の純那の口上(「他人の言葉」ではないもの)は視覚化されない。
もう一つは純那によって切断・破壊される舞台装置である。立ち直った純那の刀の一閃ごとに飾りや舞台そのものが真っ二つにされていく。そして二つに割れた舞台の片側からジャンプして(第一話の華恋のように飛び降りて?)ななに斬りかかり、同時に巨大な照明の吊り紐が切れて落下し、舞台が崩れ落ちる。落ちていくものは舞台、つまりレヴュースタァライトという作品そのものに思える。ここで描かれた舞台装置の崩壊は続く「魂のレヴュー」「スーパースタァスペクタクル」にも見られる。

キリンの落下について

劇場版で落下するのはもはや舞台少女だけではない。
まひるとのレヴューの後、雲の上の終点に辿り着いたひかりはそこでキリンと対峙する。

“なんなのよ、ワイルドスクリーーンバロックって”

というひかりの問いかけに対し、キリンが語り出したのは燃焼を媒介にした舞台少女と観客の関係である。

“わたしはあなたたちの糧。舞台に火を灯すための燃料”
“近づけば燃えてしまうほどの熱。危険ですねえ、舞台少女とは。危険だからこそあたなたちは、美しい”

自らを燃料だと称すると言葉通りキリンの身体が燃え上がる。手を伸ばすひかりのカットが一瞬挟まれた後、キリンは燃えながら落ちていく。
TVアニメではキリンは他の登場人物たちと異なる階層の存在であった。キリンは舞台少女たちが戦う「オーディション」の主催者であると同時にその観客とされている。この設定には作品のテーマの一つである、演じる者と見る者の共犯関係という意味が込められている。演じる者が見る者を魅了する。その一方で、見る者がいなければ舞台は成立しない。舞台役者と観客についての考察であると同時に、レヴュースタァライトという作品とその視聴者の関係が重ねられている。キリンは作中人物でありながら視聴者の擬人化として作品の外側にも足をかけているのだ。
そういう意味で作中の誰よりも安全な場所に立っていると言える。TVアニメの最終回ですら、華恋の行った「キラめきの再生産」に驚きながらもレヴューの最中に発言をやめることはなかった。そんなキリンが、このシーンでは舞台少女たちと同じように落下するものとして描かれている。
“ああ、私にも与えられた役があったのですね。舞台に火を灯す、その役が”
舞台少女たちと同じように、「役」を与えられた存在になる。「舞台に火を灯すための燃料」に生まれ変わり、華恋が歩いている線路に火を付ける。
演じることを生まれ変わることと定義したこの作品では、生まれ変わるための疑似的な死が落下に象徴される。演じる者は落下によって生まれ変わる。逆に言えば、落ちていく者は演じる者、作中人物である。キリンも作中人物として落ちていく。このシーン以後、キリンが登場することはない。
ここでキリン=観客が作中人物と化したことで、最後の「スーパースタァスペクタクル」で観客を舞台装置に見立てるロジックが出来上がったのではないか。

魂のレヴュー

「魂のレヴュー」において真矢とクロディーヌは上昇と落下を交互に繰り返す。相手より高い場所へ移動し、相手を地上に落とす。落とされた方がさらに高い場所に立つ。
戯曲『スタァライト』の結末はフローラが地上に落ち、クレールが塔の頂上に残されるというものだった。「魂のレヴュー」での真矢とクロディーヌは、一方が地上に落ち一方が頂上に残るという構図を反復する。重要なのは、その構図が立場を変えて繰り返される(一度では終わらない)ことである。
「魂のレヴュー」は「ACTⅠ 序章」「ACTⅡ 黒の悲劇 或いは舞台人の無色なる願望」「ACTⅢ 神真似を暴く 徒矢の如く」「ACTⅣ 私たちは ともに、」の四幕で構成されている。
まず高みに立つのは真矢である。「劇作家」(真矢)と「悪魔」(クロディーヌ)の対決が「ACTⅡ」で繰り広げられる。クロディーヌの一撃が真矢を捉えたかと見えた直後、剣は空を切り真矢の付けていたマントだけが残される。観客席に座る真矢はクロディーヌが“ライバルの「役」”であり、自分は“空っぽの神の器”と言い放つ。そして劇作家の衣装を脱ぎ捨て、純白のドレスの姿を見せる。真矢の立っている場所がせり上がり、巨大な階段状の舞台に変形する。階段状の舞台は戯曲『スタァライト』の星摘みの塔に重なる。
続く場面は階段上での斬り合いになる。天井から大量の額縁が降り注ぐと同時に真矢の剣がクロディーヌを捉える。星を落とされたクロディーヌは階段から転落し動かなくなる。真矢はそれを見下ろしながらポジション・ゼロを宣言しようとする。これが繰り返しの一度目である。二人のうち片方が高所に立ち、もう片方が落ちるという構図は劇中の他のレヴューよりも戯曲『スタァライト』に忠実だと言える。しかし「魂のレヴュー」はそれだけでは終わらず、上る者と落ちる者が反転する。
ポジション・ゼロのマークにシャッターが閉まり真矢の剣が弾かれてしまう。レヴューの勝利条件は満たされていない。クロディーヌはもうひとつの星を口から取り出して見せる。

“交わした契約を忘れたの?このレヴューが終わるのは、誰も見たことがないキラめき、それを見つけた時だけ”
“死んでも死んでも私は蘇る。天堂真矢、ライバルであるあんたをねじ伏せるために!”

階段の下から真矢に向かって言い放つと、クロディーヌは剣で自分の身体を刺し、どろりと溶けて消える。直後に照明が落ちて真矢が振り返ると、レヴュー衣装に着替えたクロディーヌが舞台の頂上に立っている。ここで連想するのはTVアニメ最終回の華恋の台詞である。

“塔から落ちたけど、立ちあがったフローラもいたはず”
“クレールに会うために、もう一度塔に上ったフローラが”

塔から落ちてもそこで終わりではない。“死んでも死んでも私は蘇る。”とクロディーヌが言ったように、落ちた者が再び(何度でも)塔の頂上を目指す。
神の器(=天堂真矢の魂の化身)として舞台に登場していた巨大な鳥のオブジェをクロディーヌが切り落とすと、剣と衣装を残して真矢の姿が消える。そして画面は真矢がクロディーヌを見下ろしていたカットと同じ構図になる。一度目はクロディーヌが真矢を見上げており、今回はクロディーヌが舞台の頂上に立っている。舞台の奈落からレヴュー衣装の真矢が登場する。塔に残ったクレールと塔から落ちたフローラが、相手より高い場所へ立つために上昇と落下を繰り返すライバルの姿へと読み替えられている。互いにこの構図を反復した真矢とクロディーヌは最後の「ACTⅣ」の舞台に立つ。
ここではもう一つの転落描かれている。それは「神の器」を自称する真矢を人間に引きずり下ろすことである。真矢とクロディーヌはACTⅢまで対照的な描き方をされている。真矢は白い服で舞台の高所に立ち、クロディーヌは黒い服で舞台の下に立つ。舞台上に飾られた絵画には跪いた悪魔(クロディーヌ)が劇作家(真矢)を見上げる姿が描かれている。この対比がACTⅢまで続く。
真矢は一貫して「感情とも本能とも無縁の空っぽの神の器」であることを台詞で強調している。ここまで作中で行われた他のレヴューが感情を曝け出す場であったことと比べると、真矢は何も曝け出すことなく(曝け出す感情などないかのように振る舞い)レヴューに勝利しようとしている。それに対してクロディーヌがとった戦略は真矢の感情を引き出すこと、そのために異なるルールを持ち込んだことである。星を落としてもレヴューが決着せず、もう一つの星を取り出して見せたクロディーヌに真矢は激昂する。レヴューの冒頭で悪魔に扮したクロディーヌが真矢に賭けを持ちかけたことによって、上掛けの落としあいとは異なる勝利条件がレヴューに持ち込まれたのだ。ここではじめて真矢が演技ではない感情を見せる。そんな真矢にクロディーヌは

“空っぽの神の器?笑わせてくれるわ。あんたは神の器でも空っぽでもない。驕りも誇りも妬みも憧れも、パンパンに詰め込んだ、欲深い人間よ!”

と言い放つ。
ここまで描かれた「怨みのレヴュー」「競演のレヴュー」「狩りのレヴュー」では、相手の感情(本心)を引き出すために一方がもう一方を追い詰める形で展開していた。真矢が常に優位に立っているかに見えた「魂のレヴュー」もじつは同様の構図であり、仕掛けられていたのは彼女の方だった(ACTⅢのタイトルが「神真似を暴く」である)。
真矢が感情を引き出されたことで二人は対等になる。劇作家と悪魔ではなくレヴュー衣装でともに最後の舞台へと上っていく。

“なんと醜い、感情にまみれたこんな姿”
“もっと見せろ天堂真矢。観客は、それが見たいのよ”

戦う二人が見せるのはどの役でもない真矢とクロディーヌ本人である。そうして始まった最後の激突はどちらかがどちらかを蹴落とす戦いではない。この映画でも群を抜いて目まぐるしいアクションが繰り広げられるACTⅣでは、高低差の生じる暇がない。クロディーヌが宙づりの足場を駆け上がれば真矢がすぐさま横から飛び込んでくる。クロディーヌが飛び降りれば真矢も足場を釣るワイヤーを斬って後を追う。上下動する巨大な舞台に「ともに」跳ね上げられ、「ともに」落ちていく。落ちていきながら互いの衣装を掴むシーンが象徴的である。このレヴューの最後のセリフである、“私たちは、燃えながら、ともに落ちていく炎”を体現している。

スーパースタァスペクタクル

この最後の一連のシーンで華恋は二度塔を上り、二度落下する。繰り返しはそれだけでなく、華恋とひかりが対面するこの状況が、映画の冒頭、そしてTVアニメの最終回を反復している。

東京タワーの階段を上って華恋はひかりの待つ上層階に辿り着く。華恋の衣装がレヴュー服に変わっている。そしてひかりに歩み寄ろうとする。

“やっと会えたね。ありがとう、ひかりちゃん。あの時、誘ってくれて。あの時、教えてくれて”
“ひかりちゃんとの約束があったから、ここまで来れた。ひかりちゃんとの約束があったから、ここに立てた。やっぱりわたしにとって、舞台はひかりちゃん”

神楽ひかり

東京タワーの内部と、横倒しになった東京タワーの上という違いはあれど、この構図はTVアニメの最終回と同様である。どちらのシーンにおいても華恋は“わたしにとって、舞台はひかりちゃん”という台詞を発する。だが、最終回の結論といえるこの台詞が「スーパースタァスペクタクル」では否定される。

“それはあなたの思い出?それとも、この舞台のセリフ?”

神楽ひかり

ひかりがそう問い返すと、巨大なカーテンが開き、二人の視線は画面のこちら側に向けられる。

“見られてる。誰かに”
“観客が望んでいるの。私たちの舞台を”

愛城華恋 神楽ひかり

いわゆる第四の壁を超えた演出で、舞台に立つ役者と、映画のスクリーンに映る作中人物が重ねられている。ここで初めて華恋は他者の視線を意識し、舞台に立つことの恐ろしさを実感する。見ることの加害性は、それを自覚したうえで乗り越えた時、観客の存在は(キリンがそうなったように)糧、燃料になる。TVアニメの華恋は他者の視線を自覚しないという点で無敵のキャラクターだった。ひかり、あるいはひかりと二人でスタァライトを演じるという約束だけを見つめることで他者の視線から無傷でいられた。その危うさがここで暴かれている。

“なのに私は、見えてなかったんだ。ひかりちゃんしか”
“どうしよう。何にもないや。スタァライトを演じきったら”

愛城華恋

華恋の無敵さの喪失はひかりとスタァライトを演じるという約束を果たしてしまったことが原因である。その後の自分には目指すものも拠り所になるものも何もない(と思ってしまっている)。不安が限界に達した時、床に置かれていたトマトが弾ける。倒れた華恋は息をしていない。
トマトが弾けるのも映画の冒頭と合わせて二度目である。それは華恋の一度目の死であった。TVアニメの最終回で目的を果たし(失い)、冒頭の別離でひかりという動機を失う。ここで失ったものが弾けたトマトに集約されている。そこから東京タワーに上るまでの道のりは、拠り所を再び見つけるための(回想という)旅だった。砂漠の中の線路を歩み、ひかりとの出会いから現在までを回想することで再構築した舞台に立つ理由を表しているのが、床に置かれていたトマトである。
ではなぜ舞台に立つ理由の再構築は失敗したのか。それは“やっぱり”という言葉を発してしまったからではないか。
この映画では二種類の死が語られている。生まれ変わるための死と、停滞・停止である死だ。前者は落下することに表される。映画の全体として、後者の死を回避するために前者の死を選べ、というテーマがある。

“変わらないものは、やがて朽ち果て死んでいく”(101回のスタァライト台本の台詞)
“あんたとのレヴューに満足して、朽ちて、死んでいくところだった”(西條クロディーヌ)
“列車は必ず次の駅へ。では舞台は?私たちは?私たち、もう、死んでるよ”(大場なな)

繰り返すこと、それと同時に前とは違うものに変わること。それが作品内における演じることの定義である。“わたしにとって、舞台はひかりちゃん”という言葉を繰り返す華恋は、変化することができていないために死んで(停止して)しまう。

二人が対面している状況は映画の冒頭の反復でもある。この映画のラストシーンでは東京タワーが真っ二つに折れて地面に突き刺さる。映画の冒頭でも同様に、東京タワーが二つに折れるシーンがある。というより、真ん中で裂けて地面に転がっている。だが、映画のラストのように先端部が地上の巨大なバミリ(ポジション・ゼロ)に刺さることはなく、ただ崩壊しているだけである。
東京タワーの崩壊は作中で台詞として繰り返されてきた「塔から降りる」というテーマが視覚化されたものだと考えられる。であれば冒頭で倒れた東京タワーも塔から降りた誰かがいることを示しているだろう。今立っている場所を捨てて次の舞台へ立つこと。ひかりはTVアニメの大団円(華恋の元に戻り、二人でクレールとフローラを演じる)を捨てて華恋の前から去った。しかし塔から降りたのはひかり一人だけである。華恋は取り残されている。華恋が“ポジション・ゼロ”と困惑気味につぶやくが、レヴューを終わらせるためのバミリも、そこに刺さる剣やタワーも描かれてはいない。ひかりが華恋との関係に決着をつけられていないまま去ったのはその後描かれる華恋の不調によっても明らかだ。

華恋が死んでしまったところから、この場面のやり直しが始まる。華恋の死が作品のルールに背き、変化のない繰り返しをしてしまった結果であるとするなら、再生はそのルールに則ったやり方で行われる。
何度となく描かれてきたことであるが、落下することは変身や生まれ変わりの比喩である(産み落とされている?)。TVアニメの第一話で華恋が舞台少女に変身したように、キリンが炎と化したように、変身を起こすため、ひかりは華恋の亡骸を地上へ落とす。落ちていきながら華恋がバミリの形の棺桶に姿を変える。
華恋は再び、今度は前と違うやり方で東京タワーを上る。落ちていく棺桶が列車の屋根に着地すると、スピーカーから爆音を流しながら列車が走り出す。砂嵐を突き抜け、ロケットの炎で加速してレールを駆け上がると棺桶の蓋が開き、華恋は再びひかりの前に立つ。

列車は映画の主題とも言うべきモチーフであり、現在、回想、レヴューの様々な場面で登場する。その中で、列車の姿が見えず走行音だけが聴こえるのが、冒頭と最後の場面である。
冒頭の場面には見えない列車が存在している。東京タワーの瓦礫に重なって、何かの影もしくは手書きの線のような線路が伸びており、その真ん中で華恋が仰向けになっている。瓦礫の上に立ったひかりが口上を述べると、画面は再び華恋に移る。画面を斜めに横切る線路の中に立っている。線路の形は歪み輪郭が滲んでいる。先ほどよりもさらに絵筆で引いた線という印象を受ける。不安げな面持ちで正面を見据える華恋の顔がアップになる。華恋の顔が近づいてくるのに合わせて列車の走行音が聴こえる。“さようなら”というひかりの台詞の直後、列車の姿は現れないまま華恋が跳ね飛ばされる。そしてタイトルに移る。
砂漠を爆走する列車に乗って再び東京タワーに上った華恋、それからひかりが新たな口上を述べ合うシーンの後、「Revue Song スーパースタァスペクタクル 最後のセリフ」というテロップが現れ、ひかりと正対する華恋の後ろ姿のカットになる。宙を舞う結晶の破片という形で華恋から見たひかりのキラめきが描かれる。華恋の剣が折れると、ひかりが

“貫いてみせなさいよ。あんたのキラめきで”

神楽ひかり

という、冒頭と同じ台詞を放つ。冒頭と同様に画面が華恋の顔に寄っていく。列車の走行音が聴こえるのはここである。しかし、冒頭の困惑した表情とは異なり、涙をこぼしながら力強く掛け声を発し、ひかりに斬りかかっていく。その次のシーンで二人は至近距離で見つめあっている。華恋の胸にはひかりの短剣が刺さっている。ここで華恋の発した「最後のセリフ」が彼女が見つけた舞台に立つ理由である。そのセリフとともに二度目の東京タワーの崩壊が始まる。

破片の奔流の中に一瞬落ちていく華恋が見える。東京タワーの内部にはひかりが残っている。フローラが塔から落ち、クレールが塔に残るという戯曲『スタァライト』の結末がここでまた繰り返されている。そして東京タワーの先端が巨大なバミリに突き刺さり、“ポジション・ゼロ”が宣言される。

劇場版が反復したもの

劇場版そのものがTVアニメに対する変化を含んだ繰り返しである。関係性の結論がひっくり返され、シーンが構図を変えて反復され、大団円の先の台詞が導き出される。無敵の主人公であった華恋というキャラクターが、過去を掘り下げることで語り直される。TVアニメの最終回で“今こそ星がキラめく時”という台詞が使われるのに対し、劇場版では“今こそ塔を降りる時”という台詞が繰り返される。
「再生産」とはTVアニメから続く作品のキャッチフレーズである。劇場版ではその言葉が問い直されている。一つは糧や燃料の存在である。再生産は(変身、生まれ変わりは)舞台少女自身だけでは成り立たない。その動力として自分以外の何かを炎に換えなければいけない。もう一つは再生産(次の舞台、繰り返し)することの葛藤である。劇場版の開始時点で主要な登場人物は多かれ少なかれ停滞をしている。燃え尽き症候群のような状態。挫折感による目標の喪失。この停滞が「舞台少女の死」という言葉で表されている。

“あの日、私は見たの。再演の果てに、私たちの死を”
“私たち、もう、死んでるよ”

大場なな

停滞し、動けない状態。または、既にある成功を捨てて新たに挑戦することへの恐れ。現実的な出来事としてみれば、その状態を脱して次の目標、卒業後の進路を定めることができるのかが劇場版のストーリーになっている。
聖翔祭の決起集会の場で眞井霧子で同級生たちに言う。

“あ~!怖いな~!第100回、あのスタァライトを超えられるのか、ほんと怖い。でも、怖くて当たり前だよね。私たち卒業公演なんて初めてだし。”

眞井霧子

第100回聖翔祭に対する第101回の舞台。それはTVアニメ版『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』に対する劇場版に重なる。既に完結している作品の続きを映画という媒体でいかに描くか。作り手が直面したであろうその問題が作品に反響している。

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