カープダイアリー第8231話「IT革新激動30年…巨人と中日が最下位争いする訳」(2023年4月13日)

誰もがSNSで自分の思いをオープンにできる時代になった。「IT革命」という言葉が頻繁に聞かれた時代はすでに過去のものとなり、その歩みはますます加速する。

IT革命はコンピュータやソフトウェア、データ通信回線などの 情報技術 (Information Technology)の発展と普及に伴い、人類の生活を大きく変えた。水道もガスも通っていない土地の原住民の人々もスマホは手放せない。国家の指導者たちも、自分たちのエゴでSNSを駆使して偽装情報をバラまく。
 
特に人々にとってその存在が身近になり始めたのは日本においては1990年代に入ってからだろう。
 
例えばプロ野球取材現場の記者たちは、それまで1枚10行の原稿用紙と携帯FAX、場合によってはカメラを鞄に入れて全国の球場やキャンプ地を回っていた。記者席で記事を書いて、FAXで送る。よく紙詰まりになっていた。写真も支局の暗所で現像して伝送機に巻きつけ時間をかけて送った。
 
本社のデスクとのやりとりは公衆電話。10円玉、100円玉、テレカがないと始まらない。定期連絡一発目は昼過ぎ、と決まっていた。記者の方から電話するしかない。
 
それが90年代半ばには「ワープロ」なるものがひとり、ひとりに貸与され、電話回線につないで送稿できるようになった。携帯FAXと原稿用紙がこの時点で消えた。
 
しかしほどなく「ワープロ」はパソコンに切り替えられた。
 
時を同じくして記者にはケータイも貸与された。1995年ごろの話だ。のちにガラケーと呼ばれるようになるフィーチャフォンとパソコンが記者たちの取材活動内容を大きく変化させていく。
 
記者たちは球団などの正式ルートを通さずとも選手とつながることが可能になったのである。
 
1977年生まれ、「ガラケー」派で話題?の新井監督がカープのユニホームに袖を通したのは1998年12月。このころ、IT革命はひとつの大きな転機を迎えつつあった。
 
ネットとケータイ、通信の国内外の歴史を簡単にまとめると、次のようになる。
 
 
1980年代 一般には馴染みのない「インターネット」が大学など限定で利用される


1992年 NTTドコモ誕生

1995年 Windows95 MacOSが個人に浸透し始める

1996年 着メロが一世を風靡

1997年 ドコモがメールサービス開始

1999年 ドコモがiモードサービスを開始、カメラ付き登場

2000年 au誕生

2002年 写メ開始

2000年代前半 常時接続できて低料金のISDN、ADSLサービスが広まる、並行してGoogle検索が標準になる

2004年 ネット無料通話Skype登場

2006年 ソフトバンクモバイル発足へ、Twitterユーザー世界で3億人突破
2007年 Apple iPhone端末発売

2008年 ソフトバンクが日本でiPhone端末発売、「パソコンが胸ポケットに入る」時代へ

2009年 ドコモ、Android搭載スマホ発売

2014年 netflix全世界会員数5000万人突破

2016年夏 オーストリア、ドイツ、スイス、日本でDAZNサービス開始
 
2020年 コロナ禍によってリモートへの移行顕著
 
 
近年ではDX(デジタルトランスフォーメーション)が盛んに言われるようになり、IT(人口知能)の分野においては、自動運転はもとより、ロシアのウクライナ侵攻のような技術革新の究極の舞台においては無人兵器での応酬が当たり前となっている。
 
さらにここ数日、国内ではChatGPTの話題が頻繁にニュースでも取り上げられている。
 
ケータイの歴史の分水嶺は2013年でガラケーとスマホの利用率が逆転して、その後その差はイッキに拡大した。
 
こうした話を分かりやすくまとめるために、仮にこれら一連の動きを「新大陸」に例えるとする。ならば「旧大陸」の住民たちはどうなるか?
 
歴史的に見れば新たな勢力によって旧大陸の人たちは生活の場を失うことになる。
 
この“チャンネル”は新大陸に属する。新大陸の住民はGAFAから個人発進のSNSまでピンからキリまで、だ。
 
「旧大陸」の住民たちはと言えば、メディアで言えば新聞社、雑誌出版、テレビ・ラジオの放送、折りこみチラシ、無料配布情報誌などなど…
 
すでに町の本屋さんはここ20数年で消滅しかけていて、さらにコンビニの書籍棚も縮小されつつある。
 
高校生・大学生は新聞を読まないだけでなく、テレビ視聴時間もどんどん減らしている。…なのでNHKなどは若者向け番組の充実に必死で、見ていて涙ぐましいほどだ。
 
折りこみチラシはアプリなどに取って代られたため新聞配達店は儲けの手段を失った。販売店が次々に姿を消すことによって1カ所あたりの守備範囲が広くなる。しかも配る件数は少ない。まさに負の連鎖だ。
 
販売網が維持できなくなれば新聞社は生き残れなくなる。社名を変えてネットに移行するしかないが、それがなかなかうまくいかない。

米国ではとうの昔に新聞協会なるものは旧大陸の呼称を捨てている。
 
うまくいかないから新聞各社は新聞以外の商売に手を出す。カープ応援紙の中国新聞が企業連合を組み3月31日、旧広島市民球場跡地にオープンさせた「ゲートパーク」はその典型例。しかし、おそらく立ち行かなくなるだろう。

オープンから8日後の4月8日にはパーク内の高さ10メートルを超えるケヤキが風で倒れた。そこに子どもでもいれば大惨事だった。そんな大事故をスルーするのが中国新聞。ゲートパークの未来を暗示しているようなものだ。
 
全国の一般紙の部数が減少し始めたのはネットの普及にともなう2000年代初頭からだが、顕著になり始めたのは2010年代になってから。トータルで5000万部も見えていたのに、瞬く間に2000万部ちょっとまで減らした。完全に終わっている業界だ。
 
新聞部数激減の流れの起点になったのもやはりガラケーとスマホの利用率の折れ線グラフ交差点だ。
 
2004年、新井監督がカープ四番として“失格の烙印”を押されそうになっていた第二次山本政権の4シーズン目、突如として旧広島市民球場に登場した赤ゴジラがセ界を相手に咆哮一発…
 
この年、日本球界は再編の嵐に見舞われて、実際、近鉄球団が消滅した。カープ球団もその流れには逆らえず自分たちの意思とは関係なしに福岡に移転させられダイエーホークス(当時)に吸収合併される運命にあった。
 
こうしたストーリーを画策したその中心人物こそ、旧大陸メディアの主、巨人軍・渡邉恒雄オーナー(当時)だった。
 
その時点ではまだ新聞業界は昭和、平成の時代を経て培ってきた財産を確保してはいた。しかし、やがて来るであろう「新大陸」時代に向け、自分たちが主導権を握り続けるために、12球団を8球団まで減らして人気コンテンツとしての価値を維持しようとした。要するに人気球団同士の対戦で新聞部数や視聴率を取ろうとした。
 
その新聞が母体となっている巨人と中日が今、最下位争いを演じている。旧大陸同士の潰し合い、である。

巨人も中日も放送媒体とのつながりが非常に強いが「テレビ面白くない」のは誰もが認めるところで、スポンサーにとって一番大切な階層の視聴者はスマホやパソコンなどでnetflixやDAZNを見ている。

放送局の製作費は削られる一方で「作品」のクオリティにおいても旧大陸の住民には勝ち目がない。民放から流出する優秀な人材を片っ端からNHKが引っ張り込むからNHKだか民放だか判別不能な番組が雨後の筍のように顔を出すようにもなる。
 
広島東洋カープは松田元オーナーの所有財産に過ぎず、トップが新聞や放送に偏れば旧大陸、ネット側に偏れば新大陸とどうにでもなる優位性を有している。
 
当チャンネルでは、カープ球団と球界のこうした動きをまさに1990年代以降、つぶさに見続けてきた。
 
その過程で当チャンネルは中国放送(RCC)の「RCCカープ」iモード、公式携帯サイト(有料、現カープ公式アプリカーチカチ!)として2000年10月1日にスタート。以後、広島アスリートマガジンの携帯サービスを経て、2013年12月にはスマホで閲覧できる「田辺一球広島魂」にその連載が引き継がれ、note に移行された、のである。

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