カープダイアリー第8493話「三次と言えば”神主打法”初代トリプルスリー、そして今秋のドラフト1位候補、宗山塁は侍ジャパンリストアップ」(2024年1月14日)

宗山塁の名前が新聞に載るたびに、野球どころ三次の人たちは沸いている。これまで数多くのプロ野球選手を輩出してきた土地柄だから、この手の話には敏感だ。

 

行政サイドも熱心で、街をあげて女子野球にも力を入れている。必然的に女子の競技人口も増える。カープ黄金時代に活躍した原伸次さんのように、地元で鍛えられた女子中学生が例えば広陵に進学してそこでまた腕を磨く…そんな人材供給の流れが女子でもできつつある。

 

なぜ、三次が野球どころなのか?そこを掘り下げたり、研究した書籍などにはあまりお目にかかったことがない。だが、カープファンにとっては永川・梵の三次コンビもいるし身近な地域となっている。

 

三次出身のプロ野球選手、一番の大先輩は岩本義行さんだ。少し前までカープ一軍公式戦も行われていた、みよし運動公園野球場「三次きんさいスタジアム」正面に、記念碑もある。2008年に96歳で亡くなった。

 

戦前戦後にプロ野球で活躍した岩本さんは1912年(明治45年)生まれ。この年、7月30日には元号が大正になる。

 

梵さんの母校でもある旧制三次中学から、2年時に旧制広陵中に転校して右投げ右打ちの外野手として活躍、第17回全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高校野球選手権大会)に出場した。明治大学に進むと2年時に打率・390で首位打者になり、豪快なプレーで神宮を沸かせた。

 

大学時代に編み出したのがのちに「神主打法」と呼ばれる特異な構えだ。バットを体の正面にほぼ固定してほとんど手を捕手側に動かさずにボールを捉えにいく。

 

「ジー…と構えて、球が来たら小さくステップしてそのまま打つんですよ」80歳を過ぎたころ、本人はそう語っている。

 

プロでのキャリアは1940年の南海(現ソフトバンク)からスタートした。日本職業野球連盟が東京巨人、大阪タイガース、名古屋、東京セネタース、阪急、大東京、名古屋金鯱の7球団で発足したのが1936年(昭和11年)。そういう時代だ。

 

 

戦時下のプロ野球界で活躍した岩本さんは、戦後37歳でプロ野球に帰り咲いた。長いブランクをモノともせず、2リーグ分裂後の1950年、松竹でセ・リーグ第1号本塁打を放った。同年、38歳で打率3割1分9厘、39本塁打、127打点をマークして“初代トリプルスリー”(当時にはこうした表現はない)となってリーグ優勝の立役者になった。翌51年8月1日の阪神戦では1試合4本塁打、18塁打のプロ野球記録を樹立した。

 

167センチ、71キロと小柄で、しかも当時のバットやボールは今とは比べ物にならないぐらいに質が低かった。今となってはにわかに信じがたい。まさに「神」打法…

 
通算成績は856試合に出場し打率2割7分5厘、123本塁打、487打点。東映、近鉄で通算7年監督も務め、1981年に野球殿堂入り。

宗山塁は明大の偉大なOBである岩本さんのこともきっといろいろ聞かされてきたはずだ。そして三次出身者として日本球界を代表するような選手になれ、と…

 

この日、一部メディアは3月6日、7日に京セラドーム大阪で開催される侍ジャパンと欧州代表の強化試合メンバーに、宗山塁の名前もリストアップされている、と報じた。ドラフト指名前の大学生が初めてトップチームに名を連ねることになるのか?その評価はますます高まることになりそうで、すでに1位候補にあげているソフトバンク、日本ハムも含めて争奪戦の気配が漂い始めている。

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