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「マチルダ・ザ・ミュージカル」が膨らませる今後のダール作品群への期待

 Netflixはロアルド・ダールの著作のすべてを映像化する契約を結んだと発表していたが、これはそれに先だって進められていた「チャーリーとチョコレート工場の秘密」の再々映画化と大ヒットミュージカル「マチルダ・ザ・ミュージカル」の初映画化にあたって、ダールの著作がいかに映像コンテンツに魅力的なのかをNetflixが再認識したことによる英断だった。

 だから待望の「ロアルド・ダール作品集」の初リリースとなる「マチルダ・ザ・ミュージカル」の冒頭にはブランドとして主張するように「ロアルド・ダール」のロゴが登場する。今後も安定してダールの作品が次々と映像化されるかと思うとわくわくして仕方がないんだけど、まずは「マチルダ・ザ・ミュージカル」だ。

 ダールの原作「マチルダは小さな天才」は1996年にダニー・デヴィート監督ですでに映画化されていて、これもまた非常に評判を取った作品だった。2010年に舞台ミュージカル化され、これが各国の賞を総なめにするなど大評判をとったことは、多くの才能が結集して努力を重ねた結果であることは間違いないんだけど、やはり「ダールの原作」が時代を超えて、というか時代を先取りしていたと表現した方が正しいかもしれないが、とにかく現代にぴったりの内容となっていて、オープニングナンバーの「Miracle」の時点で観客は一気に引き込まれてしまう。ここでのビジュアルイメージや演出手法は、以前「チャーリーとチョコレート工場」を映画化しているティム・バートンの影響を多分に受けていると思う。元々ダールの一連の著作は「奇妙な味」と称されていたんだけど、バートンの作風が正にピッタリだったのは幸運な出会いだった。バートンの方向性を活かすことでダールの世界観は違和感なく観客に伝えやすくなるから。だから「マチルダ・ザ・ミュージカル」のこの冒頭の場面は特に「ティム・バートン風」とも呼べるような誇張した表現が多い。

 で、ここでは「生まれたばかりの赤ん坊たちが歌う」という形になっていて、「子供たちはそれ自体が奇跡である」ということが盛んに歌い上げられる。このメッセージは物語の終盤に近づくほど大きな意味を持ってくるんだけど、とにかく楽しいノリで進むので一気に物語の中に我々は入っていくだろう。そしてそこで早々に(楽しみながら)不快感を味わうことになる。これはもっぱらタイトルロールであるマチルダに対する親からの扱いがひどいことに起因するんだけど、この不快感はさらに 後に登場する校長先生によってブーストされることになる。

 マチルダが通うことになる学校では悪意と偏見に満ちた校長が暴力的に支配しているんだけど、同年齢だけでなく、大人と比較しても圧倒的に知能が高いマチルダは、この状況に甘んじるわけもなく、必然的に校長と対立し、やがて学園に変革をもたらす動きの中心となっていく。

 この校長に代表される「バカだけど支配的な大人」とそれに蹂躙される「不満は持ちながらも服従せざるをえない子供たち」との対立構造はかなりデフォレメされた表現で笑いさえも誘うけど、そんな中にあってマチルダはそれまでになかった経験を通してさらなる成長を促進させることになる。

 注目すべきはマチルダには天才的な知能があり、さらには念動力といった超能力さえもあるということ。これによって彼女は校長の度重なる「攻撃」をクリアしていくことになるんだけど、これらのマチルダの「能力」はすべて「学習によって学ぶことで得られる知見」のメタファーになっているんだよね。無知な人間から見れば、学問を学んで極めた者の言動には理解できない部分がありながらも、現実には様々な問題を解決できる「超人」にも見えるもの。だからマチルダがすごいのは「生まれつき」なのではなく、「学習をした結果」であることをこの物語は遠回しにだけれど描いている。

 同時に無理解で愚かな大人も描いてはいるけど、ここには児童書らしく細かい配慮も成されている。本作で代表的な「愚かな大人」は校長とマチルダの両親になるんだけど、この「マチルダの両親」に対するマチルダ自身の感情が「複雑なもの」であることもちゃんと描かれている。

 マチルダの大人の友人である図書館のミス・フェルプスは、時折マチルダに「仕返し(復讐)はよくないわ」といった助言を行ったり、特に「ウソをついてはいけない」と諭したりする。でも彼女はマチルダの両親には会ったことがないから、マチルダが親から受けている仕打ちを知らない。だから軽い気持ちでマチルダに両親のことなどを尋ねるんだけど、マチルダはここで「両親からは大切にされていて愛されている」という明らかなウソをつく。これはマチルダがフェルプスに余計な心配をかけさせたり、マチルダの家の問題に介入してトラブルにならないため、などいろいろな理由が考えられるんだけど、やはり一番の理由はそのウソがマチルダの「願望」だからなのだと思う。このことは物語のクライマックスでマチルダに迫られるひとつの「選択」の場面でも浮き彫りになる。特に父親に対しては、マチルダはそれまでに数々のいたずらという「仕返し」をしてきているんだけど、最後には「握手をして別れる」という「ハッピーエンド」となる。この「ハッピーエンド」という展開はミセス・フェルプスが繰り返し「物語はハッピーエンドがいい」と語っていたことに対応するものだ。そしてこの最後のハッピーエンドは他でもない、マチルダ自身が導いたことであるところに大きな意味があると思う。

 物語の主な舞台が学園なので、子供たちが歌って踊る場面が多いんだけど、これもまた「子供たちが持つ可能性」を歌いあげるもので、親の無学や偏見に導かれるのではなく、子供の可能性を最大限に活かしてあげることが、真の幸せとなりうることを本作は示している。だから冒頭で歌われる本来子供たちの持っているはずの「ミラクル(奇跡)」を、現実の世界で時と共に「中身のないもの」にしてしまうのは結局のところ、親である場合もあれば、教師である場合もあることが示唆されているわけだ。

 そんな物語だからこそ、クライマックスにおける「Revolting Children」のナンバーは痛快この上ないカタルシスに満ちたもので、最後には自分自身が、世の子供たちに対して自然に思う「優しい気持ち」に満ちていることに気づくことになると思う。

 こうした優しさはダールの作品には多く、まさにそれはダール自身の優しさに起因しているんだと思うけど、個人的には日本ではこれまであまり知られてこなかったダールの世界がどんどん共有されていくことに対する喜びが大きい。1980年代にダールの作品を中心としたテレビアンソロジー「予期せぬ出来事」で「南から来た男」や「おとなしい凶器」「味」などを知って以来、短編集「あなたに似た人」などでその「奇妙な味」を味わうしかなかった。代表作の「南から来た男」はフジテレビの深夜番組「奇妙な出来事」で丸パクリされたりしていたのに誰も指摘せず、そのままこの番組は「世にも奇妙な物語」などという中途半端にダールを模倣したような番組に発展して人気を得たりもしてきた。それもこれも日本ではダールの知名度がほとんどなかったせいで、2005年にジョニー・デップ主演で「チャーリーとチョコレート工場」がリメイクされたことで、ようやく少しは知られるようになった。だからこれまでは胸に引っかかる思いをしてきたものだったけど、Netflixのおかげで、今後はダールらしい「優しい気持ち」で今後を楽しみにしていきたいと思ったのだった。

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