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「否定と肯定」の原作本が明確にする「印象に支配される生き方」の危うさ

 デボラ・E・リップシュタット教授の著書「否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い」は、2016年のレイチェル・ワイズ主演の映画「否定と肯定」の原作で、書籍の方はもちろんのこと、映画版も多少の脚色を交えながらも、極力真実を伝えようとした素晴らしい作品だった。

 劇中では「ホロコーストはなかった」とする歴史家デヴィッド・アーヴィングの主張を、データや証言をもとに次々に突き崩していく様が、ある種の痛快さを生み出しているんだけれど、時間的な都合もあるので、原作のかなりの部分が省略されている。

 映画が「事実をもとにした物語」であるのに対し、被告として名指しされたリップシュタット教授自身が記録した本書は、「歴史書」と言ってもいいほどの公平さと詳細さを持っている。
 この裁判において、アーヴィングはその主張をことごとく論破されるんだけれども、彼はそのたびに「これは大した問題ではない」「ささいな勘違いだった」と軽くスルーする。それは外部から見れば「おい、そんなわけないだろう」と突っ込まずにはいられないことばかりだ。虐殺された人々の数、決定的な書類や出来事の日付、実際にはなかった出来事の創作、1グループのユダヤ人に関する言及を「全ユダヤ人」と意図的に言い換えたり、明らかな誤訳などなど、あらゆる間違いに対し、アーヴィングは「大したことない」と繰り返すのだ。
 こうしたアーヴィングの呆れた発言を、しかしリップシュタットの法廷弁護人を務めたリチャード・ランプトンも、裁判長も深く追及せずに質問を打ち切ってしまう。一方で裁判長は度々アーヴィングに対し、彼の立場を尊重するような態度や発言をする。これにアーヴィングはご満悦となり、リップシュタットの方は不安に包まれることになるんだけれど、ここは日常の会話と裁判で行われるやりとりが本質的に異なることを示す重要なポイントだ。
 アーヴィングに代表されるようないわゆる「歴史修正主義者」たちは、「実はこうだった」と様々なとんでもない主張をするものだが、その実態は出典も明らかにしなかったり、事実を劇的に捻じ曲げて創作しているケースが多い。それを学術的に立証しようとはせず(しているように見せかけてはいるけど)、あくまでも人々の「印象に残るような話し方や主張」を繰り返している。

 確かに人はそれまでの認識が覆るような話を聞いたとして「そうだったんだ」と思うと興奮するし面白がるものだ。今の日本のバラエティなどにこうした演出の番組が多いのもその証左だと思う。バラエティだから実は「間違っていても許される」とどこかで思っているのではないかと勘繰りたくなるほど、間違った内容のものがよくあるし、たいていの場合、「個人の意見です」というテロップで事なきを得ている。しかし裁判では「個人の意見です」では済まされない。

 昨今、過激な発言をすることで悪目立ちをして物議を醸し、多くの人の反発を受けながらも同時に支持者を増やすことで「著名人」となっている人が多い。実業家や学者、そして政治家にもこうした「印象だけを重視」し、「立証を放棄」している人々が一定数いるのが残念に思う。話が少し逸れた。
 メディアの番組などと違って、法廷とは真実を明らかにする場だ。だからアーヴィングが何も立証できず、最後に「これは大した問題ではないんです」「ささいな勘違いでしかない」と言ってのけても、そうした「印象操作」が何も意味をなさないことをランプトンも知っているからこそ、質問を打ち切る。アーヴィングのこの発言で彼が「立証できなかった」ことが立証されたからだ。

 そして裁判官はあくまでも「公平でいなければならない」から、度々、それをアーヴィングにも認識させるために寄り添った発言をすることで、後々アーヴィングが「不公平だった」と強弁できないようにしているわけだ。裁判長のこの慎重さというか丁寧さは驚くほどのものだが、そうしなければならないほど、アーヴィングの発言の数々は「明らかに滅茶苦茶」だった。彼に寄り添った裁判長の言動は、「アーヴィングの立場もちゃんと理解しているし、あらゆる可能性を考慮していますよ」という、単なる「可能性」の確認作業でしかないのだが、論理的思考をせず、詭弁を弄した「印象」だけを重視してきたアーヴィングはそこに気づかない。

 当然、アーヴィングは敗訴となるが、映画ではそれでもテレビで盛んに主張するアーヴィングの姿を映し出す。これは決してなくならないであろう「不誠実な歴史修正主義者たち」のメタファーとしてのフィクション描写だ。実際のアーヴィングはこの裁判の結果によって破産している。
 このように「否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い」には「正しさを立証することの難しさ」が非常にわかりやすく示されているのだが、本書で最も肝に銘じなければならないと思ったのは以下の文章だった。

「ダライ・ラマはわたしがホロコーストの講座を持っていることを知ると、迫害された経験を持つ人々にとって、加害者への憎悪で凝り固まらないようにすることがいかに大切かという話をしてくれた。
わたしもアーヴィングへの怒りが憎悪に変わるのを抑えるために努力しなくてはならない。アーヴィングにそんな値打ちはない」

 日本人の多くはディベートができないから、余計に議論において「怒り」を感じる傾向にあるし、それがまた容易に「憎悪」へと育ってしまっていると思う。SNSなどで炎上騒ぎが起きたり、ネットリンチと呼ばれる事象が繰り返されるたびに、このことを思い出すのである。

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