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間と行間と余韻

余韻

先日、間と行間について書いた。

すると自分の中で余韻が生まれていた。

胸の奥にじんわりなにかが残っている。

余韻について考えた。
寄席に行くと余韻が残ることが多いような気がした。

落語発表会の打ち上げ。話の内容はほぼ落語である。
先ほどまで落語したにもかかわらず、
終わった後も落語の話で花を咲かせている。
発表会で一席しただけでは、話し足りないのだ。

これは噺家さんでも同じことがいえる。
噺家さんの打ち上げに参加した時も、ほぼ落語の話であった。
プロでもそうなのだ。

これはもはや余韻の仕業でしかない。
落語そのものが余韻が残るようにできていると僕は思った。

恐ろしいことにこの余韻が新たな余韻を生み出してしまうのである。
そして落語の余韻という沼から抜け出せなくなる罠だったのだ。

胸の奥にじんわりなにかが残っている。
今の余韻は、落語ネタを書くことと、寄席に行くことで解消されるようだ。
でも、新たな余韻が生まれてしまう。

余韻の無限ループに入った。

もし刺さる根多でしたら、木戸銭歓迎です。寄席代にして、さらなる刺さる根多を仕入れてきます。