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「天才じゃん」って君が言ってくれたから。

文章を書きはじめて、もう4年ほどになる。痛々しくて消してしまったものも多いけど、ざっと300本は書いてきたんじゃないだろうか。カバンの中身を紹介した記事、世間に中指を立てるオピニオン、愛やら恋やらを書き散らしたエッセイまで。どこにでもいる薄顔の男子が、インターネットの海に文章を垂れ流している様子はなんとも奇妙かもしれない。

そうやって書くことを続けてきたぼくだけど、「誰かに読まれる」ことに関しては、25歳になった今でも、気恥ずかしいような、後ろめたいような、要するに、「読んでくれ!うおーっ!」と真っ直ぐな気持ちで言えないところがある。別に反社会的な文章を書いているわけでもないし、極度にポエ散らかした文章も(自分では)書いていないつもりだ。でもどこか、「自分は変なことをしてるんじゃないか」という気持ちがずっと拭えない。

よく考えてみると、まだまだ自信がない現れなんだろう。なにかの賞を獲ったわけでもないし、フォロワーがめちゃくちゃいるわけでもない。所詮は一般人が趣味程度に書いている。そういう自覚があるからこそ、真っ直ぐ相手を見つめて「こんなの書いてるんだ」と言えないんだろう。


だけど。ぼくが嘘偽りない本心を出しているのもまた、この文章の中だけだったりする。会社に行って同僚と話したり、バカ騒ぎする飲み会の場では決して出すことのない、自分の素の部分。あまり心をオープンにしないひねくれた性格だから、何年間も何百本も、文字に乗せて自分の思いを吐き出してきた。

そうやって、「リアルより文章のほうが素の自分だ」と分かっているからかもしれない。本当にほんとうに大切に思っている人には、自分が文章を書いていること、文章に乗せている考えを知ってほしい。とても陳腐な表現をすると、「素顔のぼくを見てほしい」という感じだろうか。リアルの自分だけでは嘘をついている気がして、文章もコミコミのぼくを知ってほしい、と思ってしまう。


さっきも書いたけど、文章をさらけ出すのは結構なハードルだ。実力もない、有名なわけでもない、書いていること自体が変だと思われるかもしれない。そんな拗らせた自意識がジャマをして、「実は文章書いてるんだけど」の一言がなかなか言えない。それは十年来の友人にも、大好きな恋人に対しても、だ。

だけど、やっぱり知っていてほしい。大好きで大切な人だからこそ、押しつけてしまうようで申し訳ないけど、「こんなの書いてるんだ」ってちゃんと言っておきたいんだ。


それはもう、めちゃくちゃに緊張する。14歳の夏、人生ではじめて「付き合ってください」を言ったときと同じくらい。自分の文章を見せるのって、怖くて恥ずかしくて不安なことで、言おう言おう…と決めてから2週間経っていた、なんてザラだからさ。


そうやって、今までの人生25年間で、何人かには文章を書いていることを打ち明けてきた。それはずっと仲良くしている男友達だったり、「この人とずっと一緒にいたいな」と思う彼女だったりした。もちろん心臓はバクバクで、下手したら嫌われるんじゃないか、そんな不安でいつもいっぱいだった。


だけど、どうしてだろう。ぼくがドキドキしながら打ち明けたみんなは、いつもいつも優しかった。

「めっちゃいいじゃん」「天才」「もっと早く言えよw」

あんなに不安と緊張でいっぱいだったのがバカらしくなるぐらい、温かい言葉をかけてくれて。全部読んだよって言ってくれる人もいて。「もっと知りたいって思った」なんて、これ以上ない褒め言葉だ。大好きな人たちにそう言ってもらえるなら、地道に書いてきた甲斐があるよなあ。


この先、性懲りもなくぼくは書き続けるんだと思う。どこに向かっているのかも分からない、なんのために書いているのかも分からない。そんな手さぐりのまま、ぼくは思いを文字に乗せていくんだろう。

そんな迷子のぼくは、きっとみんなの言葉に支えられていて。「おもしろい」「一気に読んじゃった」「早く次書いて」って、君はなにげなく言ったのかもしれないけど。

でも、君のまっすぐで、優しい言葉があったから。今日もぼくはキーボードを叩いて、書いては消し、書いては消しを繰り返している。


かすみ草の花言葉:清らかな心

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