持続可能な精神エネルギーについて(仮)雑記_8
身体からエネルギーを引き出す方法は幾つかある。
その一つが「構え」といったものだろう。
構えは、上で構える、引いて構える、捻って構える、など様々である。
それらは、上から下への落下エネルギー、捻りの回転エネルギー、引くことのバネエネルギーをそれぞれ保持しておくことが出来る。
では、心構えはどうであろうか。
其処には身体の構えと同じく、エネルギーを引き出すメカニズムだったり、理論的なものがあるのだろうか?
それとも単なる言葉遊びで、心に構えなど無い
のであろうか。
その設問に対して私は述べる言葉が見つからなかったので、一先ず置いておくことにする。
では今度は、身体の構えによって、肉体のエネルギーではなく、精神的なエネルギーに影響を与えるものを考えてみよう。
例えば、姿勢を正せば呼吸は整い、心を落ち着かせるだろう。
もしくは、肩甲骨を前に張れば、緊張感を生むことが出来るだろう。
はたまた、坐禅を組んで眼を閉じれば、迷いを晴らすだろう。
これらの事から、身体と心は密接に繋がりがあることが理解出来ると思う。
また、経験上、相互に干渉をする。
心の状態が良ければ身体に良い影響を与えるものだというのは、実感としてあると思う。
今のところまだ、心だけで行う構えというものは見当たらない。
心に構えはあるのだろうか。
まず、心とはなんであろう。
心を感情と捉えれば、それらは対応や反応というようなもので、それらに対して構えるとは、待ち構える、ということであろうか。
どうだろうか。その構えは心のエネルギーを発生させるのだろうか。狙いを絞るという意味では、集中力は増しそうな気はする。
心と身体では、やはり性質が違う気がする。
となると、構えと心構えでは、性質が異なるということになる。
なかなか本質に切り込めない。
なにか、きっかけがほしいところである。
と、ここに来て、心の構えとは覚悟のことであったと思い出す。
よく心構えをしておきなさい、と言う使われ方をしているが、だいたいは覚悟を決めておきなさい。と同義であろう。
その心構えには2種類あって、それは、かつて経験したことに対してのものと、未知に対して行うものとである。
もし、一度でも経験したものであるならば、
覚悟を決めるか否かの判断材料があるということだが、未知のものであれば、その不安の大きさは想像に難く無い。
そして、覚悟を決めきれなかった時というのは、大体の場合、後者であろうと思う。
では、心構えが覚悟を決めると同義であるならば、覚悟とは何であろうか。
其れ相応のものであるからこその覚悟であろうと考えるとそれは、死、暴力、貧困、嘲笑、迫害、追放、喪失、、、というような生物の本質的な恐怖に値する何かに対して行うものであると考えられる。
仮に未知のものに対する覚悟であると仮定する。
未知に対する覚悟は、大まかに2つあると思われる。
実体験はないが、人づてに聞いたことがあったり、自分の中に準備期間があったもの。
もう一つは、実体験も準備期間も、想像すらしていなかったことである。
後者において、即座に覚悟を決めれる人というのは、そもそも選択肢をほぼ持っていない人という可能性が高いのではないだろうか。
むしろそうする以外に道がない、もしくは、もう一方がより過酷な道である、ということもあるのかも知れない。
とりあえず、心の構えは覚悟であるとして、次に進みたい。
心についてである。
先程、浮かんできた心のイメージがある。
小さな頃は、心と身体は一つであった。
しかし、成長とともに心と身体に分かれる。
そうこうするうちに、身体は身体で成長し、心は心で成長する。
身体と心の性質、構造は異なっていると述べた。
身体の内側には血肉や骨があるが、
心の中には多分、また心があるのだ。
つまり、心は成長とともに二重構造、もしくは年輪のように成長するのかも知れない。
誰しも心の中に、小さな少年や少女の心があるというようにである。
それは多重構造の内側にある。
心の奥で、小さな自分が泣いていたり、淋しがっていたり、悩んでいたりしないだろうか?
身体は、1番外側で自分を守り、其処で守りきれなかったものは、心の表層が守ってくれる。
それでも守りきれなかったら、その小さな子は深く傷つくのだろう。
そんなイメージが湧いたのである。
心構えが覚悟であることに違いはないのだが、先程書いたそれは、生物の防衛本能に基づいたものであったと思う。
しかし、それとは別に、人の意思というようなもの、自分がこうありたい、自分はそうしたいというもの、それが心であり、それに沿いたいという気持ちも覚悟なのではなかろうか。
それはきっと、その小さな子の意思を守るという覚悟、(もしくは自分の中の大人の心を貫く覚悟)なのではないだろうか。
それによって、嫌だと逃げることもあれば、もしくは、逃げたくないと身体が殴られることも厭わず戦うことや、それは違うと伝えることであったり、やってみたいと勇気を出して言うことなのではないだろうか。
その覚悟に殉じた時、精神エネルギーは大きく高まるものだと私は信じてみる。
それでは、おやすみなさい。
END
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