見出し画像

麻雀徒然草・第十一回『維新』


代わり映えしない、私はそう感じはじめていた。

Mリーグは今年で6年目となる。
新Mリーガーも誕生し、新チームも参戦した。
しかし、Mリーグは初年度から何も変わっていないのではないか。
そう、ここ最近感じるようになったのだ。
第十回で、Mリーグの改革の必要性を説いた。
では、具体的な問題点や解決策にはどのようなことができるだろうか。


まず第一にMリーグが抱えている問題を見極めなければならない。
そこで、私が問題として挙げるのはやはり風通しの悪さである。
具体的には、選手が初年度とほぼ変わっておらず、新規参入者を拒んでいるように感じる点だ。
勝つためにはより良い選手をドラフト指名するなり、逆に成績不振の選手を解約するなり方法はいくらかはあるはず。
それにもかかわらず、チームの足を引っ張るように思えてしまう選手を頑なに抱え込んでいる。
だが、ここで留意しなければならないことがある。麻雀にはその性質ゆえに、好調不調の波があることが統計学的に認められていることだ。
よってシーズン中に不幸にも不調期に入ってしまい、思うように成績が出せない場合ができてしまう。
したがって、この場合も含めて監督は総合的に判断をくだし、選手との契約、解約を考えねばならない。

では、総合的に判断をくだすにはどのような手段が適切だろうか。
各個人のシーズン最終ポイント、人気、タイトルを獲得しているか等々挙げればきりがない。
だが、端的に実力テストのようなものを課して基準点を下回れば不採用という、言わばプロテストのようなものを取り入れるのが手早いだろう。
これで基準点を上回った選手の中から監督は即戦力となる選手を指名すればよい。
この方式なら選手を客観的に評価することができ、監督にしても実力がわかりにくい状態を解消することができる。
数多の選手から篩にかけ、実力がある選手だけが残る。
現実ではそこまで完全な状態にはできないだろうが、それでも幾分かましにはなるはずだ。

しかしながら、ここで次の問題が行く手を阻む。
そうMリーグはエンターテインメントなのか、トッププロが集う一流のリーグなのかというものだ。
公式には後者を理念として掲げている。
だが、我々には前者、すなわちエンターテインメントとしか思えないのが現状だ。
タレントや声優、プロ棋士など、敢えて言うならば、部外者が実力ある選手を差し置いて指名されている。
これでは、本当に一流のリーグ戦にしたいのかと疑問に思うのも難くない。
さて、この問題においてどう対処すべきかについてだが、大変難しいものだ。
そもそもMリーグは理念が入り乱れているようにさえ思える。
崇高な理念なのは十二分に伝わるのだが、かえって愚かしいものになっているようだ。
Mリーグが麻雀の魅力を伝えて老若男女問わず楽しめる頭脳スポーツにしたいだけならエンターテインメントで良いではないか
そうならば、トッププロが集う一流のリーグ戦などと法螺を吹く必要はなくなる。
理念が錯綜しているがゆえに、参差錯落なリーグとなってしまった。
何もかもがうまく噛み合わない歯車が正常に動くことができようか。
それならば、いっそMリーグはエンターテインメントとして麻雀の魅力を伝えていくものだと公言してしまえばよいのだ。
そう公言してしまえば、騒がしい外野を多少でも黙らせることができるだろうに。

この二つの問題がMリーグは代わり映えしないと感じさせる主な要因だと私は結論づけた。
6年目になるMリーグは年々視聴者は増加してはいるのだろうが、このままでは頭打ちに終わるのは確実だ。
そしてMリーグは6年目にしてもなお内輪ネタだと感じてしまうのだ。
確かにMリーグのファンはいる。それこそ幅広い年代に。
しかし、実際の認知度はどうだろうか。
おそらく麻雀に興味のない大半の人はMリーグを知らない。そして今なお麻雀の印象は悪いままのはずだ。
麻雀好きの間でもてはやされているとしてもこれでは何とも惨めではないか。
井の中の蛙は自分こそ世界を知っていると誇っている、その外界には大海原が広がっていることも知らずに。
一体全体この現状であの神々しい理念を遂行できようか。
高尚なMリーグはこのような不憫な現状を、この旧弊を打破しなければならない。

Mリーグの記事を書くたびにこのフレーズを何度も用いるのは飽き飽きするのだが、もう一度書こう。
Mリーグはもっと積極的にメディア進出を図るべきだ。
安定するコミュニティに甘んじていはならない。

そして、たっぷり蓄えた贅肉を削ぎ落とすのだ。少しずつでも問題を解決し、進路を見極めろ。さもなければ、一生井蛙のままだ。
ここでMリーグを動かすのは運営陣だろうか、麻雀プロだろうか。
否、動かすのは我々だ。
麻雀プレイヤーやこの記事を読んで頂いた読者などの我々だ。
革命やら維新やらというのは庶民の力が大切なのだ。
アラブの春は一人の青年から広まった。
キューバ革命は二人の有志が中心となって起こした革命だ。
秦は二人の農民中心となって率いた軍により消滅に追い込まれた。
ソ連であれ中華民国であれ少数が始めた運動が革命の引き金だ。

誰か一人が問題があると取り上げれば、共鳴した人から人へと伝播する。
声が上がり、燎原の火の如く燃え広がれば、見て見ぬふりはできまい。
そう我々が維新の要であり、この旧弊を打破するために行動するのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?