ヨガはリアルなRPG/パンチャコーシャ解説Vol.1
私たちは、何のためにヨガを行っているであろうか?
痩せるため?
キレイになるため?
ポーズの上達のため?
身体の健康のため?
ココロの健康のため?
ヨガ講師になって有名になるため?
ヨガビジネスを成功に導くため?
はたまた..
念のため?
というように、人によりけり、それら多々あるであろう。
私が体系化したヴァイクンタヨガや、アサナロジーにおいては、上記で挙げられた、『個人がヨガに求める数々の希望やベネフィット(利潤)に関しての効率的な取得方法』についての言及も、もちろん含まれているのではあるが、
実はそれらの恩恵を、あなたが受け取った後にも、実のところ、更なる恩恵があなたを待っている。ということを、すべてのヨガ練習生にお伝えしたく、今回、私はペンを取ったのである。
そして、私たちの先人である古のヨギたちは、その未知なるヨガの恩恵を取得できるまでの道を示した、宝の地図を残しておいてくれていたのである。
しかしながら、その宝の地図の暗号を、あなたが読み取るためには、多少の知識の教育も必要であることから、
アサナロジーの基本概念である、パンチャコーシャについての解説を、今回と次回の2回の分けて行うものとする。
まずは、以下よりその概要を説明していこう。
パンチャコーシャ(Panchakosha)とは、
パンチャコーシャとは、サンスクリット語で「五つの鞘」を意味している。
パンチャコーシャの概念は、インドの聖典ヴェーダの哲学部門を担うウパニシャッド聖典に、その源を認めるものであり、
その後に成立した、ウパニシャッドの研究機関・インド六派哲学の一派である、ヴェーダーンタ哲学派において、パンチャコーシャは、自己探求者であるヨギの為の実践理論における規律として体系化されたのである。
その概要とは、人間の存在を五つの異なる階層、鞘(さや)で表した、人類の構造に関する規律である。
以下に、パンチャコーシャの五つの構成要素に関して、順を追い表層部から深層部までの解説を行うものとする。
パンチャコーシャ(人類五層論)
第五階層: アナマヤコーシャ
(Annamaya Kosha)肉体(物質)の鞘。
この鞘は最も外側にある表層部であり、物質的な身体を表している。身体が五感を介して物質的な活動を行うことで、個々の主体(真なる存在)が物質界と関わり合う能力を示している。
第四階層 : プラーナマヤコーシャ
(Pranamaya Kosha)プラナ(生命力 / エネルギー)の鞘。
この鞘は、生命力やプラナ(エネルギー)を表しており、身体における呼吸やプラナの流れを通じて、個々の主体が現象世界において生命力を得て活動する能力を示している。
第三階層 : マノマヤコーシャ
(Manomaya Kosha)チッタ(思考や感情)の鞘。
この鞘は、心や思考を表しており、それらの働きを通じて、個々の主体が現象世界を経験し、情報処理や内面の感情を宿し表す能力を示している。
第二階層 : ヴィジュニャーナマヤコーシャ
(Vijnanamaya Kosha)知識の鞘。
この鞘は、潜在意識の領域をも含んだ知識を表しており、知性や洞察力、直感、判断力、自己認識、知覚などを通じて自己探求を深め行くための知識を獲得し、最終的には高次の聖なる知覚や知識獲得を目指すのである。それは、より高い次元で自身を理解する能力であり、そのことは、最深層に至るための扉のキーであることを示唆している。
第一階層 : アーナンダマヤコーシャ
(Anandamaya Kosha)至福(主体)の鞘。
この鞘は最も内側にあり、一過性でしか無い物質的な喜びや快楽に私たちが惑わされることなく、永遠の純粋な幸福の獲得を目指すことを示唆している。そのことは、個々の存在である主体そのものこそが、本質的に至福の源であるという真理を示しており、それは自己探求の道においてのヨギのゴールである。
これらの5つの鞘は、私たち個々の人類の存在が持つ様々な層を表しており、それは、物質的な側面から根本的な面までを包括しているのである。
小さなお宝箱ゲット!
さて、では前出の一般的な私たちのヨガに対する希望項目を、ヨギが外枠から内枠へと向かう内面世界のお宝探しの地図である。上記のパンチャコーシャに当てはめて考察してみよう。
痩せるため。キレイになるため。ポーズの上達のため。身体の健康のため。
という様々な上記の希望項目はすべて、第5階層の肉体の層であるアナマヤコーシャに属している。
そして、ココロの健康のため。
という希望項目は、第3階層のチッタの層(思考と感情)であるマノマヤコーシャに属しているのである。
最後に、ヨガ講師になって有名になるため。ヨガビジネスを成功に導くため。
という希望項目に関しての回答は、どの階層においても言及は無いのである。
したがって、その2つの俗世の欲望を源とした願望実現をお望みの方には、大変残念ではあるが、今読まれている、この私の文章とは全く役に立たない無用の知識となる。
では、それら一部を除き、あなたがたのすべての希望とは、ヨガの修練を通じて取得可能なものである。
しかしながら、それらの『小さな、または中くらいのお宝箱ゲット!』より更に進んだ深層の内面世界において、
私たちはヨガからどのような更なる恩恵を受けることができるのであろうか?
またそれは、どのような行程を辿るのであろうか?
ヨガから授与できる更なる恩恵
このようにパンチャコーシャの概念とは、古典ヨガやインド哲学において、人類の存在の本質を表現するものである。
個々の存在とは、物質的な身体(アナマヤコーシャ)を含む五つの鞘を通じ、各自の人生において、幸福、知識、思考と感情、プラナ、そして肉体として、物質界との関係を経験していく、多様な側面を通じ、存在していると示しており、
そのことは、私たちが単なる物質的な存在ではなく、より高い精神レベルの自己を持っていることを示唆している。
パンチャコーシャ全体の構造は、図解のようなマトリョーシカのごとく、5層の入れ子構造になっており、その外部よりレイヤード構造になっている各層を取り除いていくと、最後に残った、その中心部には本体である小さなマトリョーシカが存在し(アーナンダマヤコーシャ)、その中に至福の宝が在る。というような構造形態を示している宝箱への地図なのである。
また、その宝とは、金銀財宝というような物質的なお宝ではなく、実のところ、本当の自分自身である主体(アートマン/プルシャ/魂/自己)であり、そのことから、ヨガとは自己(主体)探究の道と呼ばれているのである。
このことは、俗世間で言われている『なりたい自分になる!』というような『職業選択の自分探し』では無く。
『自分を探しに海外に行く!』というようなものでも無い。
『ヨギは外に自分や神を探さない。大切なモノは内に在ると教えられ、自身の内面深く潜りゆくのである。』
『本当の自分である魂を探しに、自身の内面を奥深く進み入る。それは、精神世界においての自分探しの自己探究の旅なのである』
そして、その最下層にある、宝を手に入れることにより得られるモノとは、本当の自分自身であり、それは一時的で物質的な喜びでなく、永遠で高次の精神的な喜び、幸福であり、本当の意味でのアーナンダ(至福)である。と説かれているのである。
それは、古のヨギたちが、後発のパタンジャリチルドレンである私たちヨギが、自己探究の道で迷わぬように残してくれた、本当の自分自身を探し出す為の内面世界の旅の地図でもあり、また、そのダイレクション(方向)とは、外から内へと、外層から内層、その中心へと向かう旅路を指し示しているのである。
そして、聖パタンジャリの規定した、ヨギの八段階の修練法であるアシュタンガとは、
実のところ、パンチャコーシャの全五層を浄化するプラクティカルな掃除方法なのである。
臨場感溢れるYoga RPG
このことは、私たちヨギの内面世界のクシェートラ(フィールド)である、パンチャコーシャの内の四つの層を最上部より、最下層に向けて順にヨガ修練を用いて浄化していくことにより、マトリョーシカの中心部にある第五層への最後の門が開かれ、宝である主体を発見するという、いわば、バーチャルではない、痛みや喜び、涙や笑いをも含む、超リアルな臨場感溢れる体感モノの『Yoga RPG』大作なのである。(ヨガロールプレイングゲーム)
また、その聖なる旅の行程とは、各階層を『面クリア』して行くことに他ならず、各面には小ボスもおり、また、中ボスのトラウマらも待ち構えている。最終ステージ前の第2層では、アハンカーラ(ego/エゴ)という大ボスが、聖なる光の勇者である、あなたを待ち構えているのである。
その第二階層で出題される最後の試練とは、二択から一択を選び出す問題であり、その内容とは『さて、どちらが主体でしょう?』という難問、『ホンモノは誰だ?』なのである。
『アハンカーラ』(ego/偽の自分自身)と、『主体』(プルシャ/アートマン/プルシャ/魂/セルフ/自己)の二択から一択の正解を導き出すことにより、最深部の最終層である第五層への門が開き、本当の自分自身である主体となり、永遠の至福を得られるというエンディングがまっているのである。
第二階層・知識の鞘の徹底解説
しかしながら、パンチャコーシャにおいて、この第二階層のヴィジュニャーナマヤコーシャ『知識の鞘』こそが、格別に理解困難であることから、理論的解釈において、ここで思考の足止めをされてしまうヨギも多いため、
ここは、あなたのより良き理解のために、また、後続のヨギの為に、私的な注訳(解釈)を以下に残しておこうと思う。
さて、この階層での知識とは、潜在意識の領域をも含む知識を表しており、知性や洞察力、直感、判断力、自己認識、知覚などを通じて、自己探求を深め行くための更なる知識を獲得していくのではあるが、
しかし、最終的には高次の聖なる知覚や知識の獲得が不可欠であり、そのことこそ、最深層に至るための扉のキーであることを示唆しているのである。
では、その最終局面において必要となる、高次の知識とは?
『“Jñāna” / ジュニャーナ』と、
『 “Viveka” / ヴィーヴェカ』である。
『“Jñāna” / ジュニャーナ』とは、高次の知識や洞察力を指しており、ジュニャーナ(洞察力)を用いて、主体とエゴを知覚し、ジュニャーナ(知識)に基づき、高次の知識や識別力である『 “Viveka” / ヴィーヴェカ』を用いて、
主体とエゴはヴィーヴェカ(識別)されるのである。
これにより、人類構造の最下層である、第5層アーナンダマヤコーシャへの門が開かれ、本当の自分自身である主体となり、永遠の至福に辿り着き、聖なる光の勇者であるヨギの旅路は幸福のエンディングに至るのである。
西洋と東洋の二大哲人のディベート
さて、ここで、科学、資本主義など、現代の人類文明の思考OSの基盤となるイデオロギーの在り方を解いた、16世紀、西洋の合理主義哲学と近代哲学の祖、ルネ・デカルト大先生に、この難問にチャレンジしていただこうではないか。
もちろんデカルト大先生は、この最終問題に備え、その汗ばんだ右手には、ここぞとばかりに『スーパーひとし君』を握りしめていらっしゃるのであった。
デカルト師の脳裏には、21世紀を迎えた我々現代人の考え方の基盤OSとなる、あの不滅の名言が走馬灯のごとく、こだましているのである。
西洋切っての哲人は、壇上に立ち、こう答えたのであった..
『我思う故に、我あり!』
と.. その瞬間、群衆が地鳴りのようにどよめく..
さあ、どうでしょう?
しかし..
第五階層への門は開かない。
しばらく待てども
門は固く閉ざされたままなのであった。
群衆どよめく中、ある人物が挙手と共に立ち上がったのである。
その人こそ、不二一元論、アドヴァイタ・ヴェーダンタを打ち立てた、あの、仮面の仏教徒、シュリ・シャンカラチャリア大先生であった。
8世紀より、この世紀の大審判に観覧者として来賓されていたのである。
場の一切が注目する中、おもむろに師は群衆に向けて静かに喋り出すではないか..
「デカルト君の仰る『我思う故に.. 我あり』というその『我』とは、いわゆる『Ego』であり、それは、正解となる『主体』そのものではなく、あくまでも不正解に当たる『エゴ』そのものである。ゆえに最終階層への門は閉ざされたままなのである。」
『すなわち..そのことは..』
『エゴ思う故に、エゴ在り』
『ということに他ならず.. そうして、この方は、アヴィディヤ(無知)ゆえに、マーヤ(イリュージョン)であるエゴを主体と見間違え、今の今、モクシャ(解脱)をその面前で逃してしまったのであり、また、その本質において思考OSの異なった、西洋から来られたこの方に、アートマン(主体)の知覚、識別などできる筈がないのである』
聴衆はその演説をスタンディングオペレーションで向かい入れ、会場である体内は割れんばかりの拍手が、その場を大先生が立ち去った後も、しばしのあいだ鳴り止むことなど無かったのである。
それは、誠に素晴らしき解説であった。
“Last Judgment”/最後の審判
さて、ここで興味深い話をお伝えしよう。全人類の約60パーセントが信じる、旧約聖書の人格神のユダヤ、イスラム、キリストという、3大宗教の共通神である、一神教のその神とは..
世界が終わるその日、地球に降臨し、その最終局面において、人類を一人残らずジャッジメントする(最後の審判/裁く)、その神なのである。
一方、それに対して、その最終局面において、インドの古典ヨガや哲学思想においては、神が人を裁くのでは無く、
このように、人が内なる神(主体)and 偽の主体(Ego)を裁くのであり、
最終的に、ヨガでは、人が神をジャッジメントする(最後の審判/裁く)のである。
え?ジャッジメント?(裁き)
アセスメント(判断、評価)ではないの?
と仰る方もいらっしゃるに違いないし、そのことはある意味において的を得ているツッコミではあるのだが、
ここで、主体かエゴか?を識別する知識とは、先ほどもご説明したとおり、高次の知識であり、その知識は叡智と呼ぶに相応しいものである。なぜならば、それらの叡智とは、森羅万象の摂理である『ダルマ』を源とした高次の叡智で在り、叡智の後ろ盾は、宇宙の法であるからして、アセスメントではなく、紛れも無い『ジャッジメント』(審判)なのであり、
『“Jñāna” / ジュニャーナ』と『 “Viveka” / ヴィーヴェカ』を用いて、
主体とエゴは、『ラストジャッジメント/ヴィーヴェカ(識別)』されるのである。
このことは、両物語のラストシーンである『最後の審判』において、
神が人を裁く (一神教の神)
人が神を裁く (ヨガ)
という、コントラストの効き過ぎた違いであり。そこには、
インド人もビックリの、全くの反転、逆転、裏返しのカルマ(行い)を観るのである。
そのことは、そもそもの『宗教観に根ざしたOSの違い』
という一点に集約される根本原因が存在しており、
それは、Windows で Mac のソフトが、作動しないように、
Mac で Windows のソフトが、作動しないということであり。
それは、表面上は理解している様でも、
その実のところは.. まったく理解できておらず..
パタンジャリチルドレンに、一神教は理解できない。ように、
一神教の神の民に、ヨガは理解できない。
という、『思考システムであるOSの根本的な違い。』
そのものであり、そのことは、どうしようもない、
源の差異、天秤秤の違いに他ならないのである。
また、そのラストジャッジメントにおいて、
一神教の神に裁かれ、敗者の烙印を押された者は、地獄と化した地上に置き去りにされるのであり、
一方、体内会場において、主体を見間違えた敗者は、いつでも再度、最終問題に挑めるのである。
多大なリスクと、皆無のリスク。
その差異も壮大なのであった。
2023年の現代において『私には僕には宗教は関係ないね』と言っている人も世界には多数いるのではあるが、しかし、実のところ、各民族の中で永年培われてきた各宗教の考え方や教えとは、家庭内や文化、社会の中において、また、教育や風習などを通して、現在においても人々の思考や心に深く彫り込まれており、
その事は、現代、日本に於ける神社仏閣に対する私達の関わり方と同じであり、
それは、かつて宗教のあった位置に資本主義というイデオロギーが設置され、過去にパラダイムシフトが起こった結果であるにも関わらず、また、熱心かどうかは人それぞれであるのだが、現代の私たちは資本主義教信者であるにも関わらず、各民族が持つ文化的な宗教観とは、良くも悪くも、世界中の人々に未だに大きな影響を及ぼし続けているのである。
Om
坂東イッキ
…………………………………………
さて、次回は、今回に続くパンチャコーシャVol.2として、
パンチャコーシャと、パタンジャリの規定した八段階のヨギの修練方法である、
アシュタンガとの密接なリンクについて考察していくとしよう。
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