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知らなきゃハドソン~札幌に一大ゲームメーカーがあった時代~(6)高橋名人誕生

※2019年11月11日に書いた記事に
 加筆修正をしたものです。

ファミコンへの参入をきっかけに
ハドソンの広報部はいくつかの少年誌に
提携の話を持ち掛けていました。

その話に乗ったのが小学館の
『コロコロコミック』だったんですね。

当時の『月刊コロコロコミック』
('84年6月号)

そもそも『コロコロコミック』では、
‘79~’83年に
『ゲームセンターあらし』が連載され、

‘82年にはテレビアニメ化するほどの
ヒット作になっていました。

『ゲームセンターあらし』
('79~'83)

『ゲームセンターあらし』が終了し、

『コロコロコミック』の編集部には
再びゲームを題材にした作品を
連載したいという意向もあったので、

ハドソンとの提携の話は
渡りに船だったのです。

かくして‘85年3月号から
連載を開始したのが
『ファミコンロッキー』でした。

『ファミコンロッキー』
('85~'87)

『コロコロコミック』と提携したハドソンは
‘85年3月に編集部が主催するイベント
「コロコロまんがまつり」に
参加することになります。

そこで実施されたのが、
当時の新作だった
『チャンピオンシップロードランナー』の
実演会でした。

『チャンピオンシップロードランナー』('85)

そして、そのステージに登場したのが、
後に「高橋名人」と名付けられる
ハドソン広報部の
高橋利幸さんだったのです。

「ゲームは1日1時間」の名言で知られる高橋名人

高橋名人の談によれば、イベントの看板には
「ハドソンの高橋利幸さん来たる」と
大々的にその存在が
アピールされていたそうです。

広報部・高橋さんのプレイを
熱いまなざしで見つめていた
子どもたちはステージが終わっても
なかなか帰りませんでした。

会場だった銀座の松坂屋に集まった
200~300人ほどの子どもたちは
広報部・高橋さんの
サインを求めたのです。

当時の子どもたちにとっては
「ゲームができるお兄さん」が
かっこよく見えたのでしょう。

私も小さい頃は
自分よりもずっとゲームが上手かった
従兄弟のお兄ちゃんたちに

「憧れ」のような感情を
抱くことがあったので、

当時の子どもたちの気持ちが
わかるような気がします。

こうして大盛況のうちに
イベントは終了しました。

同年5月には同じく
「コロコロまんがまつり」にて

6月に発売予定だったハドソンの新作
『スターフォース』で
ファミコン大会を実施します。

『スターフォース』('85)

このステージに再び登場した
広報部の高橋さんは
将棋などの称号になぞらえて、
初めて「名人」の称号を携えたのです。

これが「高橋名人」の誕生の瞬間でした。

そして、ハドソンはこれらのイベントでの
成功を活かし、ゲーム大会で全国を行脚する
「ハドソン全国キャラバン」を
企画することになります。

【参考文献】
ITmedia ビジネスオンライン「“高橋名人”という社会現象」 https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/0903/12/news087.html

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