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違和感に出会えることを含めて、安心・安全でありたい

安心・安全って何だろう?

子どもにとって、安全地帯でありたい家庭。夫にとっても、私にとっても。

どんなコミュニティでもそこには安心・安全が欲しい。居場所が欲しい。誰にとっても。


対話をするコミュニティ運営をしているが、安心・安全に関して、問われることがある。


いつだったかも書いたが、

対話をするとおよそ二つの事が起こる。

①自分の意見を言ってスッキリする
 共感してもらって安心~~(*´ω`)

②他の人の意見を聞いて 自分との違いを感じて 今までにはない視点と出会って
 「ほぇ~~~!」( ゚Д゚)と関心したり
 「ほんとに?」と考えさせられたり
②の自分と違うものと出会う時、どうやら人は「気付き」を得るよう。
でも、時々、起こります。「気付き」というほど、心地よくないものも。
それは、自分と違ったり、自分にはない発言を聞くと
 「いやいやいや…それはないでしょ、、、」と動揺したり
 「え!?何?私って間違ってる??」"(-""-)"
 「あれ、私って変??」
と揺さぶられる 自分に出会ったりする。これは、一瞬心地が悪い、とてつもなく。目をそむけたくなり、もしくは誰かに話して、「私は間違ってないよね??」「私、変じゃないよね??」って確かめたくなる。
 

対話って、すればするほど、相手との些細な違いがはっきりと見えてくるもの。

夫婦はとっても分かりやすいと思う。好きで結婚した相手、家族にもなった、子どもも設けた、そんな相手なのに「なんで分かってくれないの?」

分かり合える相手だからという前提での「結婚」。「家族」なら○○じゃないの?という前提。あなたの子どもでもあるのにどうして?

結婚したなら、家族になったなら、パートナーになったなら、仲間になったなら、相手と自分はどうやら「同じ」かもしれない、という「前提」を"それぞれが” "それぞれの前提” を知らぬうちに築きあげているんじゃないかと思う。でなきゃ、結婚もしない、家族にもならない、パートナーにさえならない、仲間にさえならない。みたいな。


もちろん、はじめはこの「同じ」ということが心地よくて一緒にいることになることは大いにある。

ただ、この「同じ」が自分のどのくらいの部分を相手は「同じ」と感じているのか。相手の「同じ」は自分のどのくらいと同じと感じているのか。

自分が相手に出している10%を相手は「あ~この人一緒!」と思っているかもしれない。そして、残り90%の相手を発見した時、、、私たちはガッカリしたり、ショックを受けたり、イライラしたりしていないだろうか。


もし、全く同じ。みたいな無菌室みたいなコミュニティがあるとすれば、それは、いわゆる、宗教に違いない。違和感のない夫婦、仲間、家族などいない。


っと、ここまで書いて、私は恐らく「私は孤独である」というアイデンティティを持っているから、こんな風にドライでいられるのかもしれないけど、、、ね。。。


ただ、私はこの違和感に出会えることを含めて、安心・安全でありたい。



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ごきげんママ|育児と人生に安心感を|心とじぶんに自覚的に生きる|あらのたか子
なかなか変われない…それって自分自身のせいじゃなくて、捉え方を変えたら今から変われるもの。そんな言葉を文章で伝えたい。最後はやっぱり自分と向き合い切るかにたどり着くから、その強さを持つ人になりたい。

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