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許すということ(シンエヴァ感想)


おはよう。
昨日いわゆるシンエヴァを観てきました。
なのでこの記事は、結局何を表すのかと申しますと、“““““““““““““ネタバレ””””””””””””です。読み漁った後に文句を垂れないように。あんまり考察っぽい文章は書けないのでそちらは他の専門家にお任せします。あと結構脱線すると思います。所詮はオタクの自己満足を文章化したものに過ぎないので。

また、他の方のシンエヴァ考察を全く拝読しておりません。独自の感想、独自の解釈であるから、ご了承願います。





現時点で僕はそこまで傾心したファンというわけではなく、かと言ってこのコンテンツに対して全く無知の人間というわけではありません。

ただ、これまで自分の中で何が問題だったか。恐らく読者のみなさんの中にも一定数いらっしゃるかと存じますが、

物語の本筋は理解できるけど、何が言いたいのか(主題)がいまいち掴めない。

ということです。
もちろん、
人類が補完されて、均等で均質な世界が実現されて、もう僕らは“差”と“感情”に苦しむことはなくなった、よかったね
とか、
シンジは己の葛藤に苦しみ、父との不和や自分の行いへの後悔を経て自分を考える
とか、
綾波レイ派なのかアスカ派(惣流と式波でも分かれる)なのか、ミサト派なのか、はたまた加持リョウジなのか(恋愛に性別は関係無いため)、冬月と将棋をしたいのか
といったところはわかるんですが

結局、エヴァは私たちに何を語りかけているのか。
何を伝えたいのか。
これを理解できない分には、まだまだファンと名乗るのは難しいのかなという思いが個人的にありました。

僕は、一端の物書きというか、趣味で文学系の創作をする人間ですが、
「で、結局君はこの作品で何を伝えたいの?」などと聞かれた日には恐らく激昂するかもしれません。表面的にじゃなくても後から藁人形でも作って呪うかもしれない。

何かを伝えたいから書いてるんじゃない。
自分の世界を形にしたいから、自分の脳内に留めておくのが勿体ないから、これを書けるのは恐らく自分しかいないから、そういった欲望や使命感のために、突き動かされているに過ぎないのに。

そういう気持ちがあるから、僕は友人にせがまれ短編の小説を見せた時、作品の意図を聞かれて、半ば絶縁しようかと考えたりもしました。


ただ、一般的には、そうじゃない。
求められているのは、現代文の課題でもよく見かけるように、「作者の伝えたいこと」なのだから。どうしてかわからない。そこに必ずしも考えがあると思い込むのは、何かにつけても研究しなければ気が済まない人間の傲慢ではなかろうか。

そうも言ってられないから、という諦めの視点も含めて、然し、あのエヴァンゲリオンならば、きっと自分の期待に“応えて”くれる。これまで解釈の分かれた疑問にも、今回“答えて”くれる。

テストを受けたら解答を読むのが筋なのは共通認識かもしれないけれど、僕は高校在学中、その行為を極端に嫌っていました。たぶん、自分が間違えたという事実をそれ以上引き伸ばしたくないから。

ただ、そこに解答があるなら、知らないと気が済まない。そう思わせてくれたのは、エヴァが初めてかもしれない。

隣の友人に心配されないように、劇場に着くまでは気丈に振る舞っているつもりでしたが、いざ目の前に答えが届いていると思うと、平常心ではいられない。
座席に落ち着いてコーラを右に置くなり、画像のネックレスを握りしめました。


破の終盤、碇シンジがトリガーとなって引き起こされたニアサードインパクトの際、ミサトさんは
「誰かのためじゃない、あなた自身の願いのために」
と叫んでいます。

ただ、Qでは手の平を返して、
「あなたはもう何もしないで」
と碇シンジを一蹴している。

これをネタにするファンは数しれなかったのでは。
僕が出会ったエヴァの有識者でその件に触れなかった人間はいない。

でも違和感があったんです。
たぶんみんなわかってて、その前提の上で言及しなかった可能性もあるけど、ミサトの葛藤についてあんまり触れないなと。
自分の家に住まわせて家族同然の人間を、いつ来るかわからない厄災のために戦地へ送り出すことを常に覚悟しなきゃいけなくて、徴兵に応じないのならばビジネスとしては冷たく「要らない」と切り捨てる必要がある。大人の自分にできることは作戦と命令でしかなくて、実戦ではない。加持にも居酒屋で愚痴ってたし
そんな過酷な精神状態で、そりゃあ酒に頼るしかないだろうし、冷蔵庫にツマミとそれしか収納されてなくても僕は頷ける。
それでも責務だからそんなの仕方ないだろとか、言ったことを撤回するなとかほざける人間は、自分のことを過剰評価しているか、棚に上げている説がある。あくまで説でしかないけど。
人間そんなもんでしょう。言ったことを変えるのが人間とゲンドウも今回呟いていたような。

シンエヴァでは、わざわざ最初の回想に破とQのそのシーンを入れて、観客に振り返らせてくれました。わかってる。

やっぱり、ミサトにはミサトの苦悩があったんです。
父親が嫌いな自分と重ね合わせることさえできてしまう碇シンジを、保護者でもNERV職員でもある葛城ミサトが、残酷な運命に導くこと。あるいは、ヴィレの司令、ヴンダーの艦長として、碇シンジを表向きに頑張ったねと褒められないこと。
構って貰えない、承認して貰えないことの寂しさは、葛城ミサト本人が一番よくわかってるんじゃないだろうか。

ミサトがリツコに諭されるシーンが確かあったんだけど、何て話だったかな。
「碇シンジに会わなくていいの?」
「会う必要が無いから(アバウト)」
「そうやって頑なになってもいいことないわよ(アバウト)」
「……昔からキツいわね」
みたいなやり取りがありました。シンエヴァで。

碇シンジに冷酷になったわけじゃない。むしろ、一度も、迷惑だ厄介だなんて思ってない。
ずっと葛藤の中にあったんです。葛城は。
シンジのことを熱心に想っていたからこそ、エヴァに乗らせたくなかった。
ただ、シンジのせいで(シンジが動かなきゃ諸共死んでたかもしれないのに)家族を失くして、心底彼を恨んでいるヴィレ職員がいるのも、たぶん見当がついていた。だから、自分一人が碇シンジに執着する姿勢を積極的に見せる訳にはいかなかった。恐らくこうだろう。
実際味方に私怨で脇腹撃たれたし、それでも全責任は負うと譲らないし、決意を固めたシンジと抱擁した。これが大人のハグよシンジ君。

僕はその答えを聞いて、ああ、よかった、と胸を撫で下ろした覚えがあります。
想定外が起きなくてよかった、と。
全てはゼーレのシナリオ通り、というわけではないけれど。

エヴァ作品の中でどこまでもアツい女。


父との因縁の場所である南極へ向かい、自身の決着をつける。
最後まで神に抗ったヒト。

タイマン上等と叫ぶシーンとか、あのしっくりこない帽子やサングラスを外して、見慣れた髪型を見せた時、どうしても込み上げてくるものがありました。そう、何を隠そうミサト推しだから。
Qが観ていて辛いのは、そういうところが原因です。何よりもミサトのための作品であると解釈することもできるだろうけれど。


彼女の話をしていると余裕で10万文字とかいってしまいそうなのでここらへんで。


それで、綾波シリーズの「初期ロット」とも呼ばれた通称黒波さん(劇中では専ら「そっくりさん」と呼ばれる)は、日常会話で使う用語も全く知らない状態から生活が始まる。
「おはよう」
「おやすみ」
「ありがとう」
「さよなら」
そういった挨拶を、村の人々に教えてもらって、使えるようになっていく。碇シンジの蝕まれた心を溶かしたのは、「ありがとう」だった。
親友がDSSチョーカーで首から上を爆破された反動、あるいはそれ以前の激しい後悔の末、うつ状態同然の廃人と化し、誰の言うことも拒絶する置物になった彼を、もう一度前へ向かせたのは、「ありがとう」だった。

例の最終回で、「おめでとう」の返答として使われた「ありがとう」が、最後の返答であった「ありがとう」が、続きを始めるコンテニューのトリガーとして機能した。

最後であったはずの言葉(記号)が、継続をもたらす。

タイトルに入ってるリピート記号は、どうもここらへん関係してるんじゃないかなと考えてみたり。

最初に使った擬音は「ほくほく」だった気がするけどいつかの場面で「ぽかぽか」って表現してくれたのが良かった。


それで本題なんだけど
最後の方に碇シンジは、「相補性を選んだヒト」として描かれます。

ゲンドウが望むのは、簡潔にはユイだけれども、彼のバックグラウンドがアニメーションで明らかになったのは初めて?初めてなのかなこれ、とにかく俺は初めて知りました
昔から誰かといるのが嫌で、感情やら煩わしいものを消したいと思っていたが、ユイが現れてからは失いたくないものができ、ある日その大切な存在が目の前から姿を消してしまった。

この男が目指す人類補完計画とは、全てがL.C.L.に還り、均等で均質な世界が実現されること。そこにはどんな感情も、いかなる格差も認められない。
「相補性」とは対義となる思想です。イマジナリー。

そもそも相補性とは何ぞや。

Wikipediaによれば、
相補性とは、光や電子の粒子性と波動性や、古典論における因果的な運動の記述と量子論における確率的な運動の記述のように、互いに排他的な性質を統合する認識論的な性質であり、排他的な性質が相互に補うことで初めて系の完全な記述が得られるという考えのことである。
らしい。

実際、補完が実行されつつある状況では、首から上無しの人体(これがたぶん、不完全な生命体を克服した完全生命体と呼ばれるもの)が、ぶつかり合うこともなくグルグル回っていたり、歩いていたりする。文字通り規則正しく。
あのまま永久的に状況が続くなら、“一定”はいつまでも継続することになる。誰も誰の力も借りず、完成された作品として。つまり、相補的ではない。

一方碇シンジは、時にお互いがお互いを受容し、時に拒絶する、つまりは性質が相互に補う(人と人とが関わりあって作られていく“社会”)相補性のもとに生きることを選ぶ。リアリティ。

「おはよう」「おやすみ」「ありがとう」「さようなら」
全部基本的に、相手がいなければ成立しない挨拶です。

思えば最初から、人間のそうした温もりにはスポットライトが当たっていた。


ただ、ヒトを捨てたはずの碇ゲンドウが碇シンジへの恐怖によってATフィールドが展開したように、相手を拒絶するということも、一つの営みである。

『時に壁を隔て、時に壁を壊せ。
誰のためでもない己のために、まず自分の存在を許し、他人を感じてほしい。』

これは僕が去年末くらいにパソコンで打ち込んだ卒業文集を切り抜いたものです。誰に向けて書いた啓発なのか、未だにわかりませんが、唯一つわかるのは、三年間で思ったことをまとめるというのは、予想以上に大変な作業だということだけで。散々イキった作文に脱字を一箇所見つけて、病んで仕方がなかったりしました。

受容と拒絶は、善悪の区別じゃない。表裏一体のもの。
人は、何かを受け入れ、何かを拒むことで成立している。
何かを受け入れるということは、何かを拒むことで、何かを拒むということは、何かを受け入れるということだから。

これに関して、ここまで考えが一致するとは思ってなかった。


僕は、ここ最近ずっと拒んでいました。最近というより、物心ついてからずっと拒んでいた。
誰かとわかり合うことも、誰かと懇意になることも、誰かの向上を喜ぶことも、誰かの失態に寄り添うことも。
親はいつも俺を認めてくれなかった。面と向かって嫌いと言われたり、激昂されて凍える外に追い出されたり、そんなことも出来ないのかと罵倒されたり、感情論を徹底的に排除された上で対話を対論にすり替えられたり、弟への乱暴を庇って床に押さえつけられ首を絞められたり、趣味を女々しいと否定されたり、目の前で大怪我した時に助けてくれなかったり、膝小僧が抉れた傷を見て気持ち悪いと吐くジェスチャーをされたり。
愛をもらえなかったのなら、愛を与えることはやめよう。愛を持っていないのだから、自ら愛を与えられなくて当然だ。傷をつけられたら、傷をお返しするだけだ。俗に言う愛着障害かもしれません。そうして段々、同じようにひねくれて、同じように拗らせる自分が、この世で一番憎い人物の二の舞、二番煎じでしかないと思うようになって、徹底的に嫌うようになった。こんな人間には存在価値など無いも同然だ。誰も好いてくれる人などいない。こんなの産まれてこなければよかった。弟と母に申し訳ない。迷惑をかける厄介な子どもでごめんなさい。無駄に金を使わせてごめんなさい。
誰も許せなかった。自分を中心とした円をチョークで描いて、それ以上立ち入らせなかった。食事の時も、寝る時も、下の階から騒がしい家族の声が聞こえる時も、未だにイヤホンで外界の音声をシャットアウトしています。聞いても無駄だから。
リアル碇ゲンドウのATフィールドです。俺は今回の作品でかなりゲンドウのこと好きになった。同族嫌悪を超越した好意。

だけどきっとシンジのように、あるいはゲンドウのように、何かを許さないこともある。一方で、きっといつか、何かを許せるようになる時も来る。一生何かを許さなくてもいい。一生何かを受け入れ続けてもいい。それが人の営みだから。これは善悪のステージではない。
そう考えると、僕はこれまでの態度を、許されてもいいのかなという気持ちになります。それに、何かを許すということ、それ以前に自分自身を許すということは、そこまで悪いことじゃないのかなと思えました。

まだ僕はゲンドウ寄りです。もし均質な世界が実現するなら、その目標のために遂行する意思がある。苦しみも喜びも取り除いてフラットにするために。
ただ、相補性の中に生きる以上、俺は何かを受け入れることを、試してみてもいいのかもしれない。


僕はたぶん、あの卒業文集を、自分以外の読者(主には後輩や同輩)に向けて書いたつもりだったのでしょうが、今になって、自分もこの円の中に、入ってもいいのだなという気持ちになりました。昨日、初めて自分に許されたのかもしれない。

何かを許し、何かを拒む。
何より己を許すこと。
何より他を感じること。
我々は何かを“する”存在の前に、“いる”存在である。

要するにこれが、エヴァが伝えたかったことなのではないかなと。お得意の実存主義思想がハミ出ちゃってますね
少なくとも俺には、シンエヴァで一番伝わった主題がこれです。トウジの落とし前とかケジメとかのワードは、それだから強調されたのかなとか。


映像表現については、裏宇宙でのシンメトリーとか、補完された後の実写とか、13号機へ攻撃する時のポリゴンショックみたいなフラッシュとか、マリが海に落ちてくる前の作画で原画そのまま使うとか、撮影現場というリアリティのある場所をメタファー的に使うとか、ヌルヌルしたエヴァの動きにモーションキャプチャを使ってるとか、そういったことしかわからなかったので、また勉強してシンエヴァに帰ってこようと思います。総じて、従来のものから考えてかなり挑戦的な表現を極めて上手く利用したのかなと。さすがに旧劇の作画がシンジとレイの後ろで展開された時にはじわっと来たけど

音楽については、最初のラテン?アレンジっぽいのがよかったです。もう、音楽が“好き”という才能しか無いから、大したことは書けません。音楽人ではあるけれども、専門ではないから、妙に知識人ぶるのはやめます。


あとは、シンジがうつになって行った先が、序か破で登場したセカンドインパクト前の生物を保護する施設の廃墟っていうのが好きかな。
綾波レイがそこで、シンジの「もっと広いところで泳ぎたいだろうに(アバウト)」みたいな台詞に「ここでしか生きられないの、私も一緒」みたいな返答をしていたんですよね。
シンエヴァのその場所で黒波がL.C.Lに還るということは、やっぱりネルフ(水槽の中)でしか生きられないということで、もう一々話の内容が過去とリンクしすぎちゃってて辛いし、シンジはよくあれ見て前向けたなと思う。だって、綾波は綾波だって理屈で名前付けてあげた後だよ。ということは、別人とは思えてないってことでしょ。

ヴンダーは元々何かを攻撃するための船ではなくて、地球のあらゆる生物の種を保存するための所謂ノアの方舟的なポジションで描かれていたのが良かったな
加持の意向だったのかな?あれは
ただそれを戦艦として使うミサトの判断もな、良かったな
“本来の役目じゃないことをやる”ってシチュエーション結構好きなんだよな


また二回目以降のシンエヴァで気づいたことがあれば記事にするかもしれません。マリがユイと知り合いでイラストリアスの名前からして使徒かもしれないとか、マリがアスカと降下作戦を遂行してる時タフネスすぎるだろお前が一番の功労者だよとか、マリおっぱいでかいなとか、オリジナルのレイが髪伸びて存在しててよかったとか、Qに引き続き伊吹マヤがフェミニンからボーイッシュになっちゃってあんまりタイプではないとか、トウジの妹さくらがヒステリックに叫ぶところが狂おしく好きだとか、隣で観てた友人が異性だったのでアスカやマリの裸体が出てくる度に一々ヒヤヒヤしたとか、帰ってから「変態糞主席監察官」というタイトルの加持リョウジのモノマネ朗読を聞き直して泣いたとか、そういう小話なら今すぐにでもできるんですが。
さておき約6000文字読破おめでとう。長文に付き合ってくれてありがとう。今後とも変わらぬお付き合いをよろしくお願いします。さようなら。

絶望の槍だけ持ってます
ガイウスも商品化してください。


おやすみ

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