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石炭をば早や積み果てつ。

これは、時代の不可逆を示す言葉でもあるらしく。

時代は繰り返すというのは本当か。
核で終われば核が始まるのは本当か。
分断と接続の先にあるのが同一と言い切れるか。
もしそうでないなら、「時代」と「不可逆」は類義語であるから、「時代の不可逆」というのは些か変ではないか。

そういうコマゴマしたことを考えたり。



棘のある人っているじゃないですか
口調がキツかったり、態度が怖かったり
なんとなく関わりたくないな、と思うこともあるかもしれない

ハリネズミはお互いに傷つかないように一定の物理的な距離を置くらしいですが

みんなこの「棘」って持ってると考えてるんです
誰しも、産毛のように柔和でも、「棘」はある
人間は基本的に棘のある生き物になった

これは悪いことではなくて
自分を自分として保つための機能なわけです
誰彼も混ざってしまったら不便でしょう

他にも、どうしても譲れないこととか
許せないこととか、我慢できないこととか
我々は棘の存在を他人に示したり、あるいは隠したり、はたまた刺してしまったりしながら、生きているんですね

そういうのは自分には無いな、と思ってました
何年か前までは
「寛容」が長所だと考えてたんです
性癖でも思想でも、一回口に入れて「ああ、そういう感じか」と噛み締めて反芻すると、なんとなく「わかって」くる
ただ、これは「わかった」フリをしているだけかもしれなくて

つまりは、自分の「寛容」を守るために、何もかも許してしまえるように装うということです
棘は無いんじゃない、あるんです
棘は隠されてるだけ

君がその意見を持つことを尊重するよ
というのは、
君の意見を肯定します
とは当然違いますよね

これを一緒くたにしちゃうとまずいんですね
自分はこの「意見の尊重」が大変に大変に素晴らしいことだと考えて、スタンスに組み込んでるんですが
たまに、何でも許してしまいそうになる

ただ、その許すというのは再三書くように、他人を尊重するということでもなく、優しさでもなく
「寛容」を守るための行為ということで

何を伝えたいのかというとですね、いや今回にしても何かを伝えたいというのは特に無いんですけど
「あなたが実行しようとしていることは、本当に他人のためですか」
ということかな
寝起きの散文に付き合わせて申し訳ないね

例えば、あなたは学級委員長になります
クラスのために、学校をより良くするために、あなたはそういう向上心を持って仕事するわけだ
偉くなりたいんじゃない、優れた統治をしたいんだと

じゃあそれって、どうして?
どうして優れた統治をしたいの?
みんなのため?みんなが笑顔になってほしいから?
みんなが笑顔になって幸せになると、誰が得をするのか?
みんなが得をするのか?

そりゃあそうでしょうみんな得するよ、そんなめんどくさい仕事に立候補する奴もそうそういないしね
って思うかもしれないけど、これって付随するものでしかなくないですか
というのは、
みんなが幸せになることで自分が幸せになりますよね
みんなの幸せが自分の幸せなわけだから
根源は、自分の幸せを手に入れるための行為というわけです

パンの一切れを求めるホームレスがいて
あなたは丁度、そのパンの一切れを持っている
渡すか、渡さないか
渡す?渡したらどうなるか
ホームレスは更に求めるかもしれないが、一旦は満足して、あるいはあなたに感謝するだろう

ホームレスが喜んだのはあなたのおかげだ
ホームレスが満足して安心しましたか?

いや確かに偉いかもしれないが
比較的な富裕が比較的な貧困に渡していけば、世界はフラットになるかもしれない

その行為は“最初”、誰のために行われたか。
ホームレスのため?ホームレスが困ってたから?
そうじゃないですよねってことなんですよ
ホームレスが充足を得ることで自分の心が満足するからだ

ホームレスにパン切れを渡すのも、学級委員長として仕事するのも、ゴミ拾いをするのも、突然の大雨に傘を渡してあげるのも
理由はいくつもあれど、
全部全部、最初は自分のためだと
利他は利己に内包されている

これを忘れちゃいけないなと
忘れるとどうなるか
自分が正義を実行する偉大な為政者と錯覚して、突っ走ってしまうかもしれない

その「自分の幸せ」と、「他人にとっての幸せ」が偶然にも合致した時、はじめて「良い人」という立ち位置になる
あなたは「良い人」なんじゃない
あなたが「良い人」に合致しただけだ

では悪い人とは一般的に誰なのか?
「自分の幸せ」が「他人にとっての不幸」になってしまう人間のことだと思ってます
当たり前かもしれないが

根源はどっちも同じなんですよ
どっちも最初は「自分のために」やってる
2分の1の「他人にどう作用するか」が違うと評価もまた180度変わる
当たり前だけどその当たり前を常に意識するのは難しくないですか

要は大事なのは“自覚”だけで
何か自分が他人に良い働きかけをしようとしている時も、誰かにとっての不都合を遂行しようとする時も、等しく、「立志において全ての根源は自分なんだ」というのを念頭に置いて、その上で言動を考えないといけないと思うんだけど、ってことですね

だから何って感じですよね
俺もここまで書いておいて自分で自分に「だから何」って感じです


前に会った人が僕を見て一言、「君は怒っているな!!!!!!」って突然ヘビメタのシャウトもビックリな声色で語りかけてきたんですが
今思えばスピリチュアル系かもしれないけど特に宗教勧誘みたいな感じでもなかったしな

君は怒っているな、常に激しく怒っているが、その対象は特定ではなく、自分に接近する者に等しく差し向けるものだ
それでいて君は常に泣いている
ただそれを無関心の三文字で片付けてしまえるから、外殻の中に隠しきれてしまうから、単にそうしているだけなのだ

と云うんですね
当時はふーん、って感じでしたけど

確かに、こいつが当たり障りの無いことを俺に当て嵌めているだけかもしれないが、思い当たらないこともないかなーと考えたりもして

要はこれが棘なんですよね多分
棘っていうのは自分が傷つかないためにあるものでありながら、他者との余計な摩擦を防ぐための機構でもあるでしょ

ただ、根源は書いた通り“自分”なんですよ
まず最初に“他人”は出てこない、絶対に出てこない
だから棘の役目としてどっちが主体的で、どっちが副次的なものかというと、自己防衛が先頭なのは明らかなわけだ

見せかけのハリボテを他者と関わらない理由として認定してはいけない、つまりは、「自分と関わると傷ついてしまうかもしれないから、それが他人にとって苦しいものだから、誰とも仲良くならないんだ」というのは、二次的で美化された、浄化を経た思考であって
本来君が認識しなければならないのは、「誰かとの摩擦が起きるとまた自分が傷ついてしまうし、その過程で傷ついた他者を見ることで余計に自分がダメージを受けてしまう」から“棘”を持つということなんだ

自分は自分が思うより醜い
ただそれを自覚することで君は君を掴めるようになる
「全ての道は自分から始まる」と、そう認識できた上で、改めて他者に利益をもたらすのか、あるいは害するのか、策定する必要は万人にあるなと
思います
これができないからみんな他人の仕事に平気でケチつけたりするんですよね、勿論質を向上させるためには批判は大事なんだけど、批判の範疇でないことが明らかに多すぎる


これを習得できると何が起きるかというと
自分に害する他者が出てきた場合に、無駄に激昂したりすることがなくなります
だって行動の原理は誰しも同じ「自分のため」だから
あとは自分の本能的な衝動にもある程度諦めが効くようになる
だって行動の原理は誰しも同じ「自分のため」だから
みんな同じだから怖くないね

でもこうするとね、人に怒れなくなりますね
誰が周りで何をしても、まあいいやってなる
もちろん法を犯されたら訴訟するかもしれないけどそれとこれとは別で

上述の通り棘を“無関心”という立場に隠してしまう人間も多いです
穏やか穏やかになってしまってね、老人のワシは萎え萎え珍珍なわけですED
燃えたぎるような情熱が失われてしまうよED
このまま留まるのか、あるいは改めるのか、それを考えていくのがこれからの俺の課題であって、これを読んでいる君の課題でもあるかもしれないよ

「当たり前」を考えよう!クール・ジャパン
東京五輪はすぐそこだ
みんなで成功させよう
中止だ中止

3000文字近くも書いて偽善とエゴイズムの説明をして何がしたかったんだよ
もっと面白い文を書けや

お疲れ様でした

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