やってない。誰が証明した

こんにこ。

突然ですが、名義を変えました。
変えた理由は、変えたかったからです。以上。

イキリキナコから途島になっていますね。

名前の由来はありません、、、、。

強いて言えばあれかな、「ストーリーの途中で立ち寄ることになる特に何も重要じゃないマップ」ってクソ気にならない?めっちゃすこなんやが……ってことで、「途中の島」って概念から抽出した名前です(後々になって考えた)

DPtのヨスガシティの教会とか、BWのビレッジブリッジとか修行の岩屋とか、XYの空ろの間とか、そこらへん。きあいだまの技マシンが手に入るとか、ジュペッタナイトが手に入るとか、そこらへんは知りません。自分で思い出を補完しろ。
あとはナナシマとか。特に重要じゃない島って概念はそこらへんから取りました。

でもそういう場所って多分、主人公にとって重要じゃないだけで、そこで生活している誰かしらにとっては重要であったりもするので、中々面白い。
だって主人公とかいう完全に優越した立場であるのに関与できない部分があるって面白くない?誰も俺の感覚についてこれないか…………

最近そういうの無いよね、ポケモン。
剣盾になってから顕著になった気がします。個々のマップは積極性という観点で「意味のあるもの」しかない。

ワイルドエリアだって、どの固定シンボルが出るのかとかどのレイドが出るのかはマップによって違うし、殆どどの町にもジムがある。プラッシータウンとかは別として。

最近追加されたヨロイ島については、全部が探索エリアみたいになってるから、個々で見ると意味の無いマップであっても、全体としてそれ自体に意味が発生してきてしまっている。
俺があんまり好きじゃないディズニーで例えると、トムソーヤ島みたいな感じです。意味の無いものが集合すると結局、意味のあるものになってしまう矛盾。

つまり話したかったこととしては、有意義を集めて効率を追い求めることは、convenienceを追求することには繋がるかもしれないが、必ずしもinterestingを生成するとは限らないということです。当たり前ですね。

noteの中には(というかnote全体が)それ自体に価値のあるもの、
例えばその人の貴重な経験とか、あるいはそこから見出された何かしらに対してのメソッドであったりという記事が多い。それが往々にして取り沙汰されて、持て囃される社会であって、日記という形式は、ある程度の人気を獲得したインフルエンサーでなくては閲覧されにくい。
人気を獲得するには、勿論外部での活動は必須とも言えるほど重要である。
もしケイスケホンダがnote始めたらそりゃあみんな見るでしょう。

そうじゃなくても、Twitterで面白い投稿をしている万垢であったり(マンカスじゃないです)、これはある意味皮肉ですが、闘病中で余命が僅かな人間などには、同情やら共感やらでそれなりに人が付くことが多い。

これの例外としては、所謂スピリチュアルババアくらいです。そういう記事は閲覧しないように僕はエリート教育を受けているので大丈夫ですが、本当にそういう記事に触発されて、ガンズ水なるものを生成して、挙句には息子に飲ませようとする人間が世の中にはいるのです。

なんとも恐ろしい。

親ガチャ、もしかして俺の引いたキャラ、毒親の中でも良い方だった?と思いかねないもん。いや、そんなことはない。俺の片親は間違いなくゴミクズの最低レアです。それはともかくとして。

とかく僕は、noteで意味のある記事を投稿している“光ある者”(通称“陽の者”)に対抗する形ではなく、共存していく形で、意味の無い記事を生成し続けたい。みんなの心の中のナナシマでありたいのです。好きな時にここに帰ってきて、一息ついて、また出発するための安息でありたい。
最悪ずっとここにいてもいい。いやずっとここにいろ。

殆どの人間、効率を突き詰めては息苦しい。
僕は逆に効率を追い求めなさすぎ、寄り道しすぎですが、人生、幾らか怠惰であっていい気がします。現代社会は些か勤勉すぎて、僕には合ってないみたいです。死にてえ。

今日の記事は以上です。
初投稿なのに有意義な記事を書けなくて申し訳ございませんでした。

ちなみに今回のタイトルは、YouTubeにあがっている「変態糞物理学者」から名言として動画が視聴できるので
良かったら検索かけてみてください。

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