学生「社会への信頼度が低いかもしれない」って

1カ月もnoteを更新しないままにしてしまったー!秋学期(後期)の授業もオンラインが決まり、私はむこう3か月先の仕事のうち、外に出て講義をするのは某養成講座講師の代講1日のみですぜ。

授業準備や協会の大学キャリア教育講座の準備などで忙しかったのもあるけれど、なんとなくnoteを書くキモチになれなかったのは、8/29に開催された協会のシンポジウム(Zoom)での教え子さんの発言に圧倒されたからかななんて思っています。*写真はシンポジウムの様子(紗をかけてます)

授業で卒業後の「働く世界への移行」について扱うと、なかには「働く意味について、私は社会貢献ができるように…」などといっぱしに言う学生も、実は働く世界への移行が怖くてたまらなかったり、不安を抱えていたりする。そういった学生は、どちらの学校にも(註:私の勤務する非常勤先2校。もっと言うと、これまで勤務してきた非常勤大学にはどこにでも)いる(参考:拙著note記事「『社会人になる』ことへの不安を受け止め、一緒に考えるシンポジウム」)。

そんな彼らを心にとめながら今回のシンポジウムに出たんだけど。

登壇する4人の若者のうち、2つの勤務先の授業の履修学生に1人ずつ登壇してもらった。1人は相当緊張していたみたいだけど、質問にも一生懸命考えて言葉を紡ぎだしていて、見ていて頼もしいぐらい。だけど、彼らによって語られる内容を考えていくと、そのまま自分の授業をどうかじ取りすればいいかのブーメランにもなる。

彼らの不安

「失敗するのが怖い」という言葉は、カウンセリングなどの若者支援現場でもよくきく。シンポジウムではそれについての話題の中で、学生Aは「失敗するかもしれない不安というよりも、失敗した後で『やり直しがきくか』のほうが不安」と。また、学生Bは、「なにがゴールかわからない(のが不安)」とも。

とくに考えてしまったのは、学生Aの「たしかに…社会への信頼度が低いのかもしれない」という発言。これは社会に属する「人」…つまり、私に対してもそうかもしれない。信頼できない人から教わるものに、果たして信頼できるのだろうか。さらに、卒業後は信頼できない社会に入らざるを得ないと思っているとしたら… 結構不安度の高い状況なのではないだろうか。

彼らがこういう不安を根底に持っているのに、授業で社会理解を進めることの難しさに圧倒されてしまった…というのがヘコみポイント①。とはいえ、上述したように、こういうことを全く知らなかったわけじゃないし、授業の中でも彼らとできるだけ信頼関係を築いたうえでそういう本音を聴く機会があった。

「やり直しがきく社会」には、確かにまだまだなっていないなって思うけど、じゃあ「やり直しがきく社会になったよね」っていう世界はいつやってくるのか。たぶん、私がばぁさんになったって、やってこないんじゃないのか。ゴールがどこにあるのかなんて、私だってわからないまま二十数年社会人をやってきてしまっている。来年度だってどうすりゃいいんだ。

いまの私は立場も不安定だし、おカネもないし、自分でも状況としていいとは思わないけど、そんな私でも彼らからすれば、自分で仕事を選択することができ(→彼らはどんな仕事に向いているのか、天職はなにかを知りたがる)し、おカネをいただいて授業をやっているいっぱしのオトナに見えるだろう。ちゃらんぽらんでも案外なんとかなるもんだ(コラコラ)。

「大丈夫、経験を積めば!」っていう精神論でいいのかっちゅう。

若者からそんな悩みを打ち明けられれば、オトナとしては「大丈夫、なんとかなるよ!」「失敗することは大事だよ!いい経験しているんだよ」と肩ポンポンしたくなったりするんじゃないだろうか。すこしでも気持ちを軽くしてあげようっていう思いやりでもあるのかもしれない。それでひらりと飛べるなら。

シンポジウムでは、チャットがものすごく盛り上がっていて、そこでもそんな感じのやり取りが盛大に展開されていた。実は、そこにものすごく違和感を持ってしまって。

「『失敗することは大事』というのは、オトナからみればそうなんですが、それが怖いという人たちに「自分の経験から大丈夫だよ」とオトナが言ったところで、根性論と一緒でひらりと飛ばせるのは難しいでしょう。そこをオトナの方々は踏まえていただきたい!と思ってしまいます。

ってコメントしてしまった。「大丈夫だよ、経験してみればいいだけだよ。失敗が怖いって?そういうのは失敗とは言わないよ。成功へのヒントだよ」って言ったって、若者は「わかりました、飛んでみまーす」とはならない。私たちオトナが経験してきた「怖さを乗り越える」体験っていうのは、彼らにも通用するんだろうか。

私は終了後しばらくモヤモヤと歯がゆい思いでいて、Facebookに親しい人限定で吐き出した。コメントもメッセージもたくさんもらった。「このモヤモヤの正体はなにか?」が分からなかったけど、「『社会』の捉え方が(若者とオトナたちとの間で)違う」とある先生はおっしゃっていて、ああそうかと腑に落ちた。

こういうモヤモヤについてはその後先生方と少しやり取りして収まってきた。さすがだ。とはいえ、保護者や地域のオトナならともかく、大学教育に携わる人であればもう少し考えないといけないんじゃないかなぁ ←これが凹みポイント②だった。チャットがそういう場じゃなかったということだ。

大学キャリア教育の授業現場はどうあればいいんだろう

モヤモヤが続いたシンポジウムだったけど、大学キャリア教育に携わる端くれとして、こういうことに「もやっ」を感じる自分であり続けたいし、きちんと声を挙げられる人でありたいって思う。つかれるけど(*´з`) そこに慣れてしまい、「大丈夫、ひらっと飛べばなんとかなるから」と安易に言わない端くれでいたい。

じゃあ授業現場でそういう彼らにどうしたらいいのかっていうと、答えはまだない。まだないけど、単に社会理解について綿密に計画を立て、それを伝えて満足しているようじゃだめなんだろうと思う。それを受け取る彼らをつぶさに観察し、本音を引き出す。そういう場を設けて真摯に話を聴いてあげることなんだろうなぁ(そういう授業展開にしていくのは、クラスの雰囲気、シラバス、学部カリキュラム…等でなかなか大変ですが(^-^;)。それでも、「じゃあどうすれば?」に対して、一緒に考えてあげればいいのかなぁ。

授業はカウンセリングの延長だと思っている。限界はあるけど、そんな授業を今期も心掛けたい。

(書きにくいので、今回からです・ます調をやめました…)

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