見出し画像

ワーホリの思い出:NewZealand

20世紀から21世紀になる瞬間、僕はNZのQueenstownにいた。
ワカティプ湖の畔に観光客や地元の人がごった返していて、日本に比べるとショボかったけど花火が数十発上がった。
インターネットが普及し出した時で、NZに出発する前に初めてのメールアドレスを作った。21世紀を俺の世紀にするぞと意気込みiketaku21@というメアドにした。

Queenstownは南島の南の方にあり、まずは飛行機でクライストチャーチまで飛んだ。一人で海外に行くのは初めてではなかったが、英語もほとんど話せないまま21歳の僕はとりあえず行動する、行ったらなんとかなるというノリで迷いなくNZ行きを決めた。クライストチャーチに着き初めてバックパッカーに泊まった。ドミトリーの料金は一泊14ドル、当時のレートで700円くらい。
基本的に誰かと寝るのが苦手なので、ほとんど寝られなかった。

クライストチャーチからバスで6-7時間かけて移動した。少し前まで日本で一緒に働いていたLindaが迎えに来てくれて彼女の家に泊めさせてもらった。Lindaの彼氏Moogsが暮らしていた家は街から丘を少し上がったところにあった。Bedroomが一つ空いているということで、結局そこに住まわせてもらうことになった。家賃は一週間Power/water込みで80ドルくらいだったと思う。

Queenstownについて早速翌日、MoogsとLindaが働くQueenstown raftに面接に行った。マネージャーにLogbookを見せてそれなりに経験があること、ほとんど英語が喋れないながら
I want to work here.
と言って翌日からのトレーニングが認められた。
Queenstown raftではShotoverとKawarauでツアーが行われていてどちらも半日ツアーだったが、さすがNZを代表する観光地ということで常にお客さんが多く、ガイドにも仕事がたくさんあった。
この会社ではKiwi・Aussieのガイドだけでなく、アメリカやカナダなど北半球のガイドも仕事を求めて集まっていた。僕は2000年11月に入ったが、北半球のガイドが集まり始めるくらいのタイミングで結果的にロースターでも仕事が回ってくるところに入ることができてほぼ毎日仕事があった。
夏の期間4ヶ月ほど働いたが、100本近くツアーをすることができた。

Shotoverは世界的にも知られる難易度が高い川で、特にツアーの3/4くらいのところで来るMother sectionはグレード4水量によっては4+くらいになる5つの瀬が連続するセクションだった。ここはセーフティのルールもしっかりしていてお互いにカバーしあいながらツアーを進める。セーフティのために入らなければいけないエディも決まっていて、エディを取れないとTrip leaderに怒られた。
一度午前中のツアーで僕を含め3人連続でエディを取れない時があって、その時はランチタイムに前ガイドが集まってTrip leaderから酷く怒られた。

僕らはプロなんだからプロの仕事をしなきゃいけない。プロなのに3艇連続でエディを取れないなんてあり得ない。午後は気を引き締めていこう。

そんな感じだったと記憶しているが、日本では経験しなかったことでプロ意識をすごく感じた。
当時日本では10年ガイドをしている人はいなかったが、NZでは10年以上ガイドをしている人がゴロゴロいた。ボート操作だけでなく、レスキューのスキルなど本当に勉強になった。

一番苦労したのはやはり英語だった。
毎日仕事に行くとホワイトボードにその日の役割が書かれているのだが僕はいつも

Takuya:Study English

と書かれていた。
21歳だった僕はガイドたちの中でも下から2、3番目の若さだったのでみんなに可愛がってもらった。仕事が終わると毎日事務所の2階にあった World というBarに行き、Jogでビールを買って一緒に時間を過ごした。とにかく英語に触れる時間を作って耳だけでも慣れたかった。日本人の友達もいなかったし、お客さんの9割以上は日本人以外の人たちだったので、とにかく英語環境で毎日過ごした。

Shotover riverはかつて金が取れその運搬用にツアーの最後で200mくらいのトンネルの中をボートで進むのだが、Tunnel positionというコマンドをお客さんに教えなくてはならなかった。このTunnel position 発音が全くできなかった。今でも正確に発音できないが、この時は全く出来ず、同僚のボートにこっそり近づいて自分のお客さんに、こいつの説明を聞いてなんてズルもしていた。

そんなこんなで4ヶ月半は毎日川とBarに通って終わった。
毎日ビールと飯に4-50ドル使っていたが、それでも日本から持ってきたお金に
加えて少しプラス分があった。

初めての海外生活はとにかく楽しくて刺激的な毎日だった。もう少し英語ができたら仲間と込み入った話が出来たかもしれないが、若かった僕には十分満足いく一夏の思い出。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?