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差別を否定するという行為自体に差別的な思考が内在してるんじゃねという話

研修に久方ぶりに行きました。今回のテーマは差別。差別を否定していくことができる人間になろうというテーマで話が進んでいきました。

「差別の否定」…。んー、何となく違和感を感じてしまいます。それは差別することと否定することは非常に近しいものがあると思うからです。差別は、もちろんいけないことですが、差別する者を否定する者も同じ土俵に立ってしまっているような感覚を覚えてしまうのです。
(そもそもこう感じてしまっている時点で、自分自身に差別的要素が内在している気もします)

現代は多様性が複雑化しています。画一的な「こうあるべき」というものが徐々に失われ、様々な人が様々な視点で自分の立場を主張できます。むしろ、こうあるべきを問いた方が、炎上するなど、少し前には考えられないことが起きています。

なのであるならば、必要なのは差別の否定だけでなく、差別がある、起きてしまうことを認識した上で、この世界はそんな人もいていいのだと考える視点ではないでしょうか。誰もがいていいのだと考えると、お互いがちょっと我慢して、ちょっと受け入れてもらうという誰もが過ごせる場作りが目標になると思うのです。

差別の否定ではなく、自分とは違うものも受け入れる度量の広さ…。うーむ、身につけていきたいものよなあ。

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