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[2023.10.17]密室づくりが仕事のぼくは、侵略的外来種と戦争に戸惑う

秋になると、線路沿いにススキと一緒に咲いている黄色い花をよく見かける。これが、セイダカアワダチソウという名の、侵略的外来種の生物ワースト10に入る植物だということを知る。
ススキの根を侵食して、やがてススキを駆逐してしまうらしい。

ススキの花なのかな。黄色くてきれいだな。くらいに思っていたその花が「侵略的外来種」だと知った途端、おどろくほど恐れや怒りの対象となった自分の心情に驚く。
一度気になり出すと、横須賀線の沿線をはじめ、ここもあそこもどこかしこにも「侵略してきた」セイダカアワダチソウが咲き乱れており、そのほとんどが、確かにススキと折り重なるように群生している。
このままではセイダカアワダチソウに侵略され切って、ススキが頭を垂れる「美しい国日本」の秋に似つかわしくない風景になってしまうのでは?
今までつゆほども気にしていなかったくせに、そんな浅はかな問題意識じみたことまで感じてしまう。

「池の水全部抜く」みたいな番組を見ておもしろいと思う人がいるのであれば、きっとこの感情と同じなんだろうなと思う。
外来種がはびこり固有種をおびやかし、生態系を壊してしまうから、池を掃除して、外来種を根絶やしにして、固有種を大切にしましょう。
学者の目線ではきっと正しいことなんだろうけど、浅い知識のままその正しさをエンタテインメントとして見た時、その正しさだけを易々と鵜呑みにして、妙な正義感が生まれてしまう気がする。
が、そもそもそこに生きる侵略的外来種と呼ばれる生物のうち、自力で「侵略」して来た生物なんてどれくらいいるんだろう。その多くはきっと、人間が勝手に持ちこんだもので、「侵略した」とされるその生き物たちは、見知らぬ土地でただ生きて、本能に従い子孫を残そうと一所懸命なだけなのに、侵略者だから捕獲せよと言われてしまう。
鎌倉で見るアライグマやタイワンリスはとんでもなくかわいくて、もはや生活の風景の一部である。
しかし市民は、侵略者を見つけたら餌を与えるな、行政に通報せよと言われる。

セイダカアワダチソウを見つけたら引っこ抜いてススキを守りたい。という、この浅薄な、正義感まがいの感情ときちんと向き合いたい。
自分の生活になんら影響のない、なんなら日本の秋を彩るものだとすら思っていたはずの生物に対し、その出自と、ある機関による分類を知っただけで、ここまで悪意を持ててしまうことを恥ずかしく思いたい。

一人の人間が一人の人間を殺したことが発覚したら、罪に問われる社会で、戦争だから人を殺しても致し方ないという理屈が理解できない。

民間人や女性や病人や子供だから殺されてはいけないのではない。男も殺されてはいけないし、男が殺してもいけない。
兵士も殺されてはいけないし、兵士が殺してもいけない。
誰かに誰かを殺すことを命じてはいけない。
人を殺してしまった人だとしても、その人を罰するために殺してはいけない。

戦争や死刑は、人が人を殺すことに正当な理由を与えてしまう言い訳になってしまっているが、どれも誰かが誰かを殺していることに変わりはない。ただの人殺しだ。
こんなごくシンプルなことが判断ができなくなってしまうのは、家に入って来た虫や、道端に咲いた外来種の草花を許せない気持ちと、実は密接に繋がっている。だからとても怖い。もし自分の生活圏や、大切な人や生き物や景色が、何かの暴力によって脅かされた時、果たして自分はこのシンプルな正気を保てるのだろうか。

小さい頃、ネズミだらけの家に住んでいて、ネズミ獲りの仕掛けにかかったネズミに熱湯をかけて殺してから捨てる役割を与えられていた。
ものすごく悲痛な叫び声を上げるので、絶対にやりたくない作業だったのだが、殺すことへの罪悪感はなかった。生活を脅かす汚いものであり、家に侵入して食物を荒らす不届き者であるからだ。ある日、仕掛けにかかったまだ小さなネズミに熱湯をかけようとしたその瞬間、物陰から大きなネズミが飛び出てきて、自分に襲いかかって来て噛みつかれた。
母ネズミだったのではないかと思う。ものすごく怖かった。
シンプルに襲われたことも怖かったけれど、何かを殺すということに、別の何かがこんなにも怒るということを身をもって感じて、今まで自分が「殺す」という行為に無感情だったこと自体が怖くなった。
それ以来、父親にサボるなとか腑抜けとか役立たずとか、どんなに罵倒されようともネズミを殺すことができなくなった。

大切な物や、大切な者や、暮らしている場所、そしてもちろん自分自身を攻撃された時、それはもう生き物の本能として、抵抗し、攻撃的になるものなのだろう。それはきっと、仕方のないことなのだと思う。

自分自身が危険に直面していない場合はどうだろう。
ケンカしている二人がいたら、ほとんどの場合、それぞれのことを諌めて止めるはずだ。
片方だけ凶器を持っていたらどうだろう。普通のケンカだったら止めに入った人の多くも怖くて動けないかもしれない。それでも警察に通報して、凶器を持っている方を止めようと動くだろう。
両方が銃を持っている場合はどうだろう。自分とは関係ない世界のことだな。止めるとかより自分の身を守らねば。となる気がする。それでもやっぱり通報はするし、どちらが悪いなんて判断は、司法に委ねるはずだ。

これが、よその国の戦争や紛争になると、もはやほとんどの人は知らんぷりだ。
自分にはあまりにも遠く、関係ないと思ったり、どうしたって何の力にもなれないと諦めてしまうのかもしれない。
賢い人や専門家ですら、一方に肩入れしたり、解決は不可能な問題だよねと難しい顔をしたりする。
もっと厄介なことに、賢いつもりでいる人たちは、悪いのはどちら側だと決めつけて、駆逐すべきだなんて平気で言っている。
なんでシンプルに両方にやめろと言えないんだろう。

ガザに対する攻撃をやめろという人はたくさんいるけれど、ウクライナに武器を供給するのをやめろという人はあまりいない。供給した武器でウクライナ兵がロシア兵を殺してよい正当な理由なんてない。
人を殺した人を死刑にする時、死刑を執行する人が人を殺してよい正当な理由なんてない。
誰かがどこかで、人を殺すことに正当な理由を与えたりしてはいけない。
さらに、人殺しにいいも悪いもないと自分で言ったそばから違うことを言うが、戦争と死刑は、「偉い人」の決定に従って「下の人」が殺さねばならないところがとてもタチが悪いと思う。最低だ。

そんな話はしていない
私は本気です
戦争しないです

折坂悠太の正気が聴きたい。

NHK BSで明け方にやっている世界中のニュース番組が見られる番組を見ていると、今回のイスラエルとパレスチナの戦争は、国によって驚くほど報じ方が違う。ドイツのニュースなんてもう完全に「イスラエルかわいそう。ハマスが非道い」の一色だ。
さっきのケンカの例で言えば、片方が凶器を持って一方的に刺しまくっている状況なのに、安全な場所から、最初に手を出した方が悪いと、したり顔で言い続ける野次馬がいる。
それがSNS上の頭の悪い人たちだけじゃない。アメリカやイギリスやドイツや日本の政治家だったりする。気持ち悪すぎる。

世界のどこかで紛争が起きるたびに、それ以外の全員が一斉に、その争いを始めた人たちに、やめましょう。と言おう。だってそこで殺し合いをしている人たちは、個人の意思とは違ったところで殺し合っていて、その殺し合いが、戦況や被害者数としてニュースになり、わずか数人の偉い人がそれを誇ったり嘆いたり応援したり非難したりしてみせるのは、異常すぎる。
プーチンやネタニヤフを非難するのではなく、テロリストを非難するのではなく、とにかく全員誰も殺してはならないと、世界中の人が言い続けないといけないのではないか。どうしてそれがそんなに難しいことなのか、自分にはちっともわからない。

そんな話はしていない
私は本気です
戦争しないです

毎日何不自由なく、美味いもの食べて、楽しいことがたくさんある自分が、こんな甘っちょろいことを正義感ぶって言っていても、何にも変わりはしないなんて言わないよ絶対。なのだ。
東日本大震災のあと、海外に行くたびに、どこの国の人からも、大丈夫だった?日本は混乱も少なく立ち直って強いね。というようなことを言われて、それがものすごくうれしかったし、励みになった。 
あなたたちのことを心配していますというメッセージは、今、とんでもなくしんどい状況におかれている人々にとって、ほんのわずかでも力になれると信じて、世界中、全員で、暴力を否定して、全力で心配していたい。

そんな話はしていない
私は本気です
戦争しないです

折坂悠太の正気が聴きたい。リリースされて、めちゃくちゃ流行ってほしい。

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