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【ラジオ】イタリア通信: 倒木/フェンシング/イサムノグチ

西日本放送のお昼の生ワイド番組「CHIT CHAT Radio」内にて、
2ヶ月に一度、イタリアから生電話リポートを行なっています。
珍しい文化や暮らしでの発見、イタリアにあるニッポンなどを紹介。

2023年11月に放送した内容をまとめたものです。


ON AIR


Buongiorno a tutti‼︎

話題1:イタリアを襲った大雨

10月下旬から今月初旬にかけて悪天候が続きました。
イタリアの各地で洪水が多発。もう、珍しくない現象に感じてしまいます。

実は6年前、私の住む街で、山間部と街を襲った集中豪雨により、
大規模な洪水が発生しました。
川が氾濫し、街に水が流れ、住宅地や工場地帯など広大な土地が浸水。
この災害を受けて、市は護岸工事を行いました。
その甲斐もあって、いや、当然のことながら今回は、
前回ほどの大きな水害はありませんでした。

ですが、被害は相当なものだったんです。
というのは、豪雨ではあったんですが、何より風が強かった

風が90km/h の速さで吹いたそうなんです。
相当な強さで、何かに掴まっていないと立っていられないほど。

夕方から大雨が始まり、翌朝は強風が続いていて、
この日は、警報が出ていたために、学校や市の公園は閉鎖になりました。


ここで問題!!

警報が出ると、学校や公園以外にあともう一つ、
イタリアでは、ある場所も封鎖します。
それはどこだと思いますか?


どちらかというと年配者が訪れる場所と言えます。
季節や暦に合わせて行くというより、
それぞれの特別な日に訪れる。主に宗教行事。花を持っていく…

そう、墓地です。
日本のように、一部の敷地に誰でも入れるようなものではなく、
高い壁に囲まれた、外から見えにくい施設です。
出入り口は門から入っていき、夜になると閉まります。


10月31はハロウィンとしてイベントを行った方も多いと思いますが、
イタリアでは、外国からやってきた新しい催しに
ローマ教皇はもちろん、快く思っていない人も少なくありません。

イタリアでは、翌日の11月1日は「諸聖人の日」。
すべての聖人、つまり聖書に出てくる登場人物や、殉教者を意味します。
その翌日は、「死者の日」お墓参りに行く習慣があります。

悪天候は連日続いたので、たまたまこの時期と重なりました。


大雨と暴風の夜には、すでに sns 上で映像や写真が流れていました。
浸水しているために通行できない道路の様子や、
住宅地の至る所で巨木が倒れ、遮断されたり、車が下敷きになっていたり、
高潮でもあったために、海辺の公園は石畳が波によって剥がされ破損、
道路の反対側の歩道まで流木やゴミが溜まっていました。
風により横転している車も。

数日後にバスで通った時には、通りに連立する木の枝が切り落とされて、
幹だけの木も。どの木も何か傷を抱えている。
なんと、10日間で280本の木が倒れたそうです。

高齢者のおばあさんがバスの中で会話していて、
「こんな強風は今までに見たことがない」とも言っていたほど、驚いていました。

幸いなことに、私が住む街では死者が出なかったんです。
6年前の経験もあり、警戒体制と意識が高かったのでしょう。


話題2:日本人との出会い


先日、新たに日本人女性に出会いました。これは珍しいことなんです。


イタリアにおける日本人の数は、2022年の調査によると、
男性1,786人、女性5,069人の合計6,855人
(イタリア全体のわずか、0,14%)

北部の経済都市であるミラノが一番多く、1,641人。
続いて首都のローマに、1,036人
3番目のフィレンツェは、843人。
私の住むリヴォルノ市内には、わずか14人しかいません。

そんな中、新たな日本人に出会いました。
パニーノ屋の友だちが、日本人っぽいと思い話しかけ、
私のことを紹介して、勤めているレストランまで訪ねて来ました。

直接会いに行ったり、snsで探さないと日本人には出会えません。
街で日本人っぽい人に会う確率もかなり低いんです。


今回知り合ったのは、30代後半の女性。イタリア在住歴約9年。
以前はローマの近くで住んでいましたが、パートナーの転職に伴い、
半年前にこの街に来たようです。

ほぼ同世代なので、そんなに気を使わずに話をすることができました。
お互い、ここに至るまでの経緯を話し合いました。

その中で気になったことが2つ…

彼女は岐阜県出身。
学生の頃からフェンシングをしてきたんようなんです。
なんと学生の頃、今はなき大川東高校や高松北高校に来たことがある!

と言ったんです。

高松北高のある牟礼町は私が育った街であることを言い、驚きました。


ところで、高松北高校のフェンシング部が強いことをご存知でしたか?

最近は、東京オリンピックで金メダルを獲得した宇山さとる選手で
高松市にとっても初めてのメダルに注目したと思います。

ですが、メダルを取る前はどうでしたか?

まだまだ珍しく、競技人口の少ないスポーツですよね。


フェンシングのプチ歴史

いつ日本に入ってきたのでしょう…?
日本にフェンシングを持ち込んだのが、岩倉具視のひ孫。
1932年のフランスから帰国し、法政大学や慶應義塾大学の学生などに教えたようです。
1940年の開催されなかった幻の東京オリンピックでの競技になることから、
この頃、東京から精力的にフェンシング部を創設していきました。

そこから、徐々に生徒数が増えていったんです。

で、私は、高松北高校がある牟礼町で育ちました。
そして、フェンシングはとても身近なものでした。
同級生が「フェンシング部」だったんです!

部室で着替えて、装具を持って、練習しに行くのは、
隣にある「高松北高校」だったんです。
その姿が、エキゾチック!日本のものじゃない雰囲気。
剣道や柔道をしている、武道場の前を通って行くんですよ。
うらやましくて、かっこいい!

北高校でなぜフェンシングを教えていた人がいたのかは謎。
この辺り、取材のやりがいがありそうですよ。
香川県とフェンシング。これが調べてみるととても興味深いんです。

          

金メダルを獲った宇山さとる選手は、

1991年生まれ。
この年は、フェンシングの体育館として牟礼町の総合体育館が誕生した記念すべき年。
私はこの近くで育ったので、できる前もできた後も私たちの遊び場でした。

宇山選手は、2004年に高松北中に(中高一貫校)に入り、フェンシングを始めました。
高松北中は、2001年に創立した県で初の中高一貫校。


今回イタリアで知り合った、友だちは、「中間一貫校がポイントだ」と力説していました。
競技人口が少ない中で、高校生に混じって練習できる環境や、
中学生で早くから取りかかれたことで、高校になって芽が出る人が多いと言うんです。

それで、彼女は高松北高ともう一つ、大川東高校へ行ったと言っていました。
なんと、そこには強いチームを築いた重要人物である監督がいたんです。
それが、市ヶ谷ひろき先生。
調べていると、この人がキーパーソンだなと。香川のフェンシングを築いた人です。

なんと、二度もオリンピクに出場している、世界を経験した人。
その後もフェンシングの大会で記録を残してきました。

選手としてだけでなく、教えることにも長けた人だと分かったのは、
フェンシングの過去の大会結果(昭和からの記録)にあります。
上位に、大川東や三本松が出てくるんです。
いくつもの選手を表彰台に送り出したまさに名監督。

何人もの生徒にフェンシングの素晴らしさや魅了を伝えてきました。
そこから、家族、友だち、地域へと、フェンシングの輪がどんどん増えていった…

大川東高校が閉校になると、三本松高校へと転任。
その後、高松高校へと転任になるんですが、現在は岐阜の大学で教えているようです。


では、子どもに早く触れさせたい!と思った方、
香川県には2つのジュニアクラブが存在しています。

私の育った牟礼のクラブは、30年前から存在しているようです。
牟礼人の私にとって、フェンシングは身近なスポーツでしたが、
実は特別な環境であったんだと改めて感じました。。

もう一つ、東かがわジュニアフェンシングクラブもあって、
とらまるてぶくろ体育館で行われているようです。
白鳥の友だちに普及具合を訊いてみると、「友だちの子どもが通っている!」と。

かつては、高校生から始めるのが一般的だった競技は、
30年の時を経て、小学生から触れる機会があるようです。

市ヶ谷先生だけでなく、ほかにも優良な経験者がいることから、
牟礼や東かがわ市だけではない地域にも、興味を持つ人たちがいるようです。

とはいえ、まだまだ競技人口が少ないフェンシング。
お子さんの習い事にいかがでしょうか。


話題3:イタリアでフェンシング

新たに出会った、彼女との話で気になったことが…。

大学の時に、フェンシングをしていて、
イタリアからの選手に通訳できる人を探している。という
情報を聞いて、最初はへぇ~と思ったようなんですが、
そこからイタリア語を勉強して、自分が通訳者になればいいだ!と、
思い至ったようなんです。

その夢を叶えるために、現在イタリアで子どもたちにフェンシングを教えています。

実は、私の住む街は、フェンシングの強い地域で、
最も多くのチャンピオンを出したフェンシングの教室があります。
1892年から(牟礼町の100年前から!)あるんです。
親子3代に渡る有名なフェンサーがいることで、強い選手が育っていきました。

彼女は、文化も育ちも違うのびのびとしたイタリアで、
教える苦労や、言語の問題、教え方など日々奮闘しているようです。

いくら翻訳機能が発達したとはいえ、選手の通訳は瞬時に行わないと意味がありません。
今後、イタリア語とフェンシングという二つを掛け合わせ、二つの国を股にかけようとしている彼女に天晴れだと応援してくなります。


話題4:イサム・ノグチの足跡


フェンシングの町でもある牟礼町で育った私。
牟礼には、世界に誇る美術館があることを認識していらっしゃいますか?

美術館は、牟礼とニューヨークにしかありません。
(牟礼町とNYですよ!こんな二大巨塔があるでしょうか!)

アメリカ人と日本人の間に生まれた、世界的彫刻家イサム・ノグチ
彼がアトリエとして使っていた場所が、現在は庭園美術館として公開されています。

牟礼町で育った私は、なんだか、イサム・ノグチのことが気になって仕方がありません。
かつて西日本放送で働いていた時は、庭園美術館でも取材もしたし、ラジオドラマも作りました。
友だちのおばあさんは、イサム・ノグチの作業場で、石磨きの手伝いをしたという話も聞き、
身近に感じて仕方がなかったのです。

また、イサム・ノグチの誕生日が、私と仁多田さんと2日違いの。11月17日というのも
同じ蠍座として、近い存在に感じているんです。あんまり意味はないですが、
毎年この時期に彼の伝記を読み返したくなるんです。

上下巻あり、〈上〉が生まれる前から幼少期までの不遇の時代。
〈下〉は、いかにして成長していく過程から認められ、現代までが綴られています。

何度読み返しても発見があるし、日本や海外の歴史とともに、芸術や建築についても学べ、
相関図を作りながら記録していくことが、秋の趣味と化しています。


なぜ牟礼町という田舎に?


ところで、なぜ、ニューヨークにアトリエを構えるイサム・ノグチが
牟礼町に決めたのか気になりますよね?
京都や東京など、ほかの地域ではなかったのか。
どうしてだと思いますか?

環境の影響もあったかもしれませんが、

ドウス昌代 著 『イサム・ノグチ 宿命の越境者』によると、

イサム・ノグチは、金子知事を訪ねて香川に来た。
建築家や芸術家を誘致することで街の活性を狙った。
それだけではありません、
小豆島へ石を見にいくイサム・ノグチに同行し、
その後、庵治の丁場にも案内。
金子知事がイサム・ノグチと会うことになったのは、
知事の丸亀中学(現在の丸亀高校)の先輩のある人が関わっています。
その人物と言えば、
丸亀の…芸術家、三越の包装紙をデザインした…猪熊源一郎が紹介したというだけでなく、
金子知事は、裁判官から知事に担ぎ出された。
これという産業がなく、財政規模の小さい香川県を「建築で知られる県」にしよう!ということから、
丹下健三や吉村順三などの、戦後の日本の代表的建築家に次々と依頼そしてのちに、
「建築知事」との異名をとった。というんです。

ドウス昌代『イサム・ノグチ 宿命の越境者』〈下〉より一部抜粋


本当は、好きな京都で作業したかったけれど、
抽象的な作品模型を巨大化する技術がなかった。何年かかってもできなかったようなんです。
ですが、牟礼町の石工さんに素晴らしい人がいました。
後にイサム・ノグチのパートナーとなった和泉正敏さんの存在は大きかったんです。


イサム・ノグチとイタリア


イサム・ノグチとイタリアは関係なさそうに見えて、実はあるんです。
イタリアの石と言えば?


数々の芸術家が彫刻に利用した石を、イサム・ノグチは無視するわけがありません。

白くて高級感ある…


そう、大理石。

私の住む地域は大理石の産地と比較的近い地域にあるので、
大理石は身近な素材です。我が家のマンションは入り口の床も階段も窓辺も大理石。
そしてL字のキッチン台もです。
レモンやトマトの酸味や玉ねぎなどの刺激の強い食材にあたると、白く変色しあとが残る繊細な面もあります。

イサム・ノグチは世界で彫刻を残してきました。
同じように素材を求めて点々としていたんです。
ですが、アトリエを構えるまでもなかった。
そうしないまでも整った環境があったんです。

先日、我が家から車で1時間ほど北上した街へ行きました。
ここに高い山があるんですが、それが大理石の山!


世界でも特に巨大なカルストがある地域。この辺りは
白い大理石が採取できます。

イサム・ノグチがどうしてこの地を選んだかというと、
イタリアの偉大な技術家の影響です。
ミケランジェロも使った大理石。
1962年から山の麓の地域で活動を行いました。

ただ、作りたいから訪れたのではなく、

大理石を扱う企業の社長が、かつてに賑わいを取り戻そうと、
芸術家を歓迎すべく作業場を設けた
ようなんです。


その地へ訪ねることに。。。

(イサム・ノグチを訪ねた話は別の記事にします。)


庵治石の獲れる牟礼町ではどうでしょう。
流政行さんのアトリエは美術館になりました。
その後、現代の彫刻家といえば、アキホタタがいらっしゃいます。
では、若者は?


大理石の街のように、若者に花崗岩に触れらる作業場づくりが
もっとあってもいいように感じます。

瀬戸内国際芸術祭により、世界からアーティストが参加するだけでなく、
訪れる人も、気になっている人も増えています。

イサム・ノグチの庭園美術館は、世界から注目されています。
庵治石の良さを伝えるには、実際に触れてもらう空間が必要です。
新たな彫刻家を生み出す町として、もっと積極的な取り組みを行なってほしいと町に期待します。

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