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余計な親切心

先ほど観終わったNetflixのイタリア映画「エマの瞳」。

あらすじはざっくり、思春期に病気で視力を失った盲目の女性エマと、幼児期に辛い思いがあって、実家や家族に寄りつかなくなった女たらしの広告マンとの恋愛映画だ。イタリア人の世界的に有名な巨匠がメガフォンを取ったと言うだけあって、引き込まれる映画だった。

この映画を観ながら、ある出来事を思い出したのだった。

良かれと思って目の不自由な方の手伝いをするつもりが、返って迷惑行為になってしまったことに、我ながら余計な親切心のつもりで、健常者の独りよがりな行為が逆に身体の不自由な方々を困らせる事になってしまうと言うことを知っておかなきゃならないと思ったのだった。

何年か前に、朝の出勤時間に仕事で駅に急いだ時のことだった。

前を行く男性が、横断歩道の周囲を認識出来ずに、お持ちになっている白い棒でガードレールを叩いているのが見えた。

そっと近ついて、腕を取って、「駅方向に行かれるんですか?ご案内します」と声をかけると、「ありがとうございます。」と返事が。

忙しく歩く人々に混じって、そのかたをお連れして駅に向かって歩いていた。

しかし、駅とは言え、西にも北にも東にも入り口があるし、それぞれが距離があるのでその方にどちらの入り口なのかを聞いたほうが良かったのに、自分がいつも利用している西口に案内をしてしまった。

ぎこちなく改札口に入りながら「ありがとうございました。」と挨拶をする男性を見て、「あ!この方がいつも利用している入り口と違うんだ。」と気がついてしまった。

ならば、お手伝いをしない方が、その方にとっては慣れた道に進んで、いつものように安心して目的地に向かわれたのではないかと、その後一日中反省の気持ちと、独りよがりの気持ちについて考えるきっかけになった。

余計な親切心は、相手の気持ちを考えずに、私が良い事をしているんだと言う行為に酔ってしまう自己満足の押し売りなのだ。一番迷惑な行為であり、それがいけない事だと言う事にすら気が付かない愚かな人間にだけはならないように気をつけよう。

本当の親切心とは、何にも見返りを求めない、誰にも評価されない、誰にも知られない行為でなくてはならない。

そのことを、心に刻もう

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