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臨死体験
魂の行くところ。
石原元都知事が亡くなられました。個人的には誰にも遠慮せず、ずけずけはっきりものを言うあの方が好きでした。
私も少なからず似たようなものを感じていたので、共感出来る部分が大いにありました。
しかし、追慕番組が流れている時に、ご自分の死後の世界について述べられた所に、人は死んだら何にも残らないと、虚無と仰っていましたが、それは違いますよ石原さん。
私は小さい頃から精神世界に大いに興味を持って、疑問に思ったことをあらゆる書籍から答えを探していて、時には宗教の世界に入っていて、教理を学んでいた。
お寺で2年余り、のちに韓国の高尚になった知人の僧侶について、仏教の教えを学んだ。
またカトリック教のミッションの女学校に入学して、洗礼や宗教の勉強をした。
その後、同じキリスト教なのに、カトリックとプロテスタントの違いが歴史の授業の内容だけでは足りなかったので、4年間プロテスタントの教会に日曜学校の先生をやりながら知る事ができた。
その後、世界3大宗教としてイスラム教のコーランを知らないのでは話にならないので、モスクに通って、イスラムのコーランを勉強してみた。
それは単純に興味があったからであって、それ以上の意味は特に無かった。
そんな中、初めての妊娠中に腎臓にばい菌が入って膿んでしまうアクシデントに見舞われた。
妊娠7ヶ月を過ぎていたのだが、毎晩40度の熱に苦しんで、当時定期検診を受けていた信濃にある慶應病院の産婦人科へ。
そのまま3ヶ月に及ぶ入院生活が始まり、自然分娩で出産をした後、さらに1ヶ月間の入院で左の腎臓の摘出手術を受けた。
身体の中に新しい命と、腐って膿が溜まった臓器とが一緒に存在して、その痛みは想像を絶するほど凄まじい。
どれほど痛いかと言うと、身体の全身が痛み出して、座ることも立つ事もできないのたうち回ると言う表現が当てはまると思う。
自分がまるで動物園にいる白熊で、じっと出来ず絶えずうろちょろしている白熊になった感じだった。
お腹の赤ちゃんも切迫流産でどんどん下まで降りてきて、お腹はパンパンに張ってしまうし、夜になると40℃の熱が出るので、我慢ができない場合はモルヒネを打ってもらってやっと眠りにつくと言う毎日だった。
病院側もお腹に赤ちゃんがいるので手術が出来なくて、身体に3箇所穴を開けて管を入れて、腎臓に溜まった膿をぶら下げたビニルの袋に溜めての3ヶ月だった。
初めは痛み止めとしてモルヒネ注射は一日1本だったが、3ヶ月後には7、8本に増えていた。
痛みの感覚がどんどん短くなっていたからだ。
まさしく生死を彷徨う毎日だったある日のこと、夜になると決まって熱が40℃になるので、痛み止めの注射を打つ前に色々儀式ごとくやることが多い。
何せ、のたうち回るほど痛み出す身体にモルヒネ注射を打つと、頭のてっぺんから嘘のように痛みがだんだん下へ下へと消えていくのだけれど、それと引き換えに、汗が滝のように毛穴という毛穴から噴き出てしまうのだった。
ベッドのシーツがびちょびちょになってしまうので、必ず裸になって、全身を厚手のバスタオルでクルクルまきにしなくてはならないのだ。
それからナスコールを押すと、看護師が注射器を持って来る。
頭のてっぺんから痛みがずーっと消えていて、身体が軽くなってフワーっと宙に浮くような感覚と共に、毛穴から汗が噴き出るのを感じながら眠りにつく。
そんなある日の事だった。
それは夢だったのか、それとも私は死んで身体から霊魂が抜けて、あの世にいく魂の列に加わったのか今でも確かでは無い。
しかし、30数年経った今でも鮮明にその時の感動や感じた事などハッキリと生々しく記憶に残っているのだから、私はあの時確かにその場所に行った事になる。
あれはまるで真っ暗な宇宙空間であった。
皆さんも経験があるだろうプラネタリウムで見上げた夜空の空間を想像してほしい。いや、それよりもスケールが余りにも大きい空間だった。上に貼ってある写真の中に私がいる事を想像して欲しい。
気がつけば、真っ暗な夜空に輝く星ばかりがある空間だった。音が無い。
ここは何だろうと不思議に思って周りを見回すと、何かがいる。
しかしそれは目に見える物ではなく、ただ感じるだけだった。
強いて言えば、透明なクラゲのような物体が数多く周りに浮遊していて、上に向かってゆっくりと舞い上がっていたのだった。
その時、私の近くに一つの透明なクラゲが近づいて来た瞬間、その物からうわーっとあたたかい気配が伝わってきた。
なんて暖かいのだろう。
その時私は何故か、この人は生きていた時に暖かい心を持って生きて来た優しい人なんだなと感じた。
それが私を通り越して行ってしまった後、別のものが近づいて来た。
今度のものからは、嬉しくて仕方がないと言う、嬉しいと言う感情が伝わってきた。
この人は楽しい人生だと感じていたんだな。
そのようにそれぞれが喜怒哀楽の感情を持っていたのだった。
それ以外は男か女か、大人か子供か、西洋人か東洋人か、肌の色がなんなのか、肩書きがなんなのかなど全く分からない感情を持った透明な物体だけがあるだけだった。
どこに向かうのか分からないが、上を向いてゆっくりと数多い透明なクラゲ達が上がって行く矢先に、今度は反対に降りてくる列に出会した。
多分あれは、新しい身体を得て生まれてくる、新しい人生が始まる霊魂達の列だと分かった。
それらも同じくそれぞれが喜怒哀楽の感情を持っていた。
ふとその中の一つが私の近くに来た時に、言い表せられない冷たい、嫌、怖いと言う、邪悪な気配がウワーっと伝わってきて、心底恐怖心でハッと目が覚めた。
そこはいつもの病室の部屋で、私は大型のバスタオル5、6枚にくるくるまきにされてそのタオルを噴き出た汗でびしょびしょに濡らしていた。
しばらく私は先見た光景が頭を支配していて、記憶を整理するのに時間が必要だった。
しかしその経験は、それからの私の人生観や生き方に大きな影響をもたらす事となった。
男か女かは生まれる時に、化学反応で物理的に作られた身体に入るときに決まる事であって、そこから霊魂が抜けるときは何にも関係しないと言う事だから、男だからとか、女だからとかの線引きで苦しむことがあってはいけないと思う。
もちろん、望んだ身体に入られてその入れ物?(身体)がチョー格好良かったりとびっきりの美人だったりしたらラッキーだろうけど、たまたまの事であると思う。
昔から性不一致問題で苦しんだり命を絶つまで自分を追い詰めたりする人達がいる。
昔本で読んだことがあるが、新しく生まれる際にも、前回生きて来た人生の記憶が習慣などがDNAに組み込まれるために、生まれてからも前の記憶が強く残っている人たちがいるらしい。
女性として人生を生きて来た記憶が強い魂が、たまたま男の身体に入ってしまうと、記憶と実体のバランスが崩れて困惑するらしい。
またその逆もあるわけで、自分はたまたまそんな不都合が起きなかっただけであるので、不都合が起きて戸惑ったり、混乱して苦しんでいる人達を排除したり拒否してはいけないと思う。
次は自分にその不都合が起きるかもしれないのだから、男女で選別をするのではなく、1人の人間として付き合うべきである。
人が人を好きになるって事だから、女だから男だからと騒ぐんじゃね!
またどこの国の人なのか、どこの宗教に属するのかで人生までも決められたんじゃアホらしくて話にならないのに、お互いを殺し合ったり、宗教が違うからと虐待をしてり戦争をしたりと、アホな人間どもはどの時代にも学習をしない。
肌の色が違うからと憎しみ合ったり虐待をした所で、今度は自分がその肌色に生まれて虐待されたり憎まれたりするのにだ。
差別をしたり人を蔑んだりすれば、次に生まれてくるときはやられる方として生まれるのだからやめとけ!アホが。
形に拘らなくなった。
お年寄りでも治らない馬鹿はいるのだし、若くても礼儀正しく正しく生きようとしている者も多い、だから年で選別するなかれ。
社長さんもホームレスでも、それぞれの生き方や生きて来た結果であるのだから、誰が偉いとかホームレスだから可愛そうだと思うのは思う人の傲りだと思うのでやめよう。
大事なのは、その人の本性と言うべき本来持っている魂が善か悪かの問題だけなのだ。
また本能的に感じる、近づきたい人か避けるべき相手なのかだけの問題だと思う。
判断を鈍らせるものは、頭で考える理屈や理由を探す事だ。
本能では分かっているのに頭が邪魔して、どう思われるか、どう評価されるか、どう見えるかなど自ら自分の心に嘘をついて惑わして苦しむ。
人間の悩みの殆どはそれだ。
悩みから解放されたい人は、今から自分の人生を生きてほしい。
自分の心に耳を澄まして、自分はどうしたいか、そう生きたいか、何を求めたいか、何が自分の理想なのかを主人公である「自分」の人生を生きて欲しい。
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