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天才!もバカ!も存在しない。

モーツアルトやシューベルトなど、幼児の時にはすでにピアノを操りオーケストラの曲を作曲したとされる。現代でも身近に二刀流と騒がれて活躍中の大谷選手や各種でも凡人以上の実力で世間を驚かす人は確かに居る。

その人たちを指して人は「天才」と言う。

天才までいかないまでも、凡人のレベルを超える人は周りにも居ると思う。同じ事を教わっているはずなのに、その人達はそれ以上を理解して先々に進めて行くのだ。

あるいは教わってもいないのに、一生懸命に習ったものを実習しようとする横から、肩越しに見ただけの人が私より遥かに上手くこなすのを見ると、もう嫌になっちゃう。

その能力の差を説明するすべが無いから、余計に自分の不甲斐なさを嘆き情けない思いをしたり、相手の優れた能力を目の当たりにすると、怒りよりも、どうせ越えられないものに対する諦めと理不尽さだけが虚しく残るのだ。

その反面、バカも確かに居る。

どうしてそんな簡単な事が理解できないの?どうして出来ないの?どんくさいわね!もう〜、ちゃんと聞いてる??

何をやらしても鈍臭くて、ノロマで失敗ばかりする残念な人もいるのだ。

どうして、この世の中には天才と呼ばれる人達がいて、何をやってもヘマばかりして怒られっぱなしのバカと呼ばれる人達がいるのだろうか。

その真ん中の層である人々を凡人と呼ぶ。

生まれて来る子たちがどのグループに入るかに親達は大きな期待を胸に子供の成長を見守るのだが、天才と呼ぶには程遠いと分かると、せめて凡人グループに居てほしいとハードルを下げて願うのだ。

我が子が凡人グループからも脱落してバカのグループに入ると、親は大きな落胆と溜息を吐く羽目になるのだ。

しかし、宝くじじゃあるまいし、どのグループに入るかが何を基準に決められるのか、誰が決めるのか、どうしたら天才グループに入られるのか、だあ〜れも分からないのだ。

そこで面白い話をしよう。信じるか信じないかはあなた次第!

前回書いた「輪廻説」の続きになるが、生命を持つ、いわゆる霊魂を持った生き物の全てを生命体と呼ぶとして、それは入れ物である体が成長を重ねて老化したり壊れたりして、そこに止まれなくなると、その入れ物から魂だけが抜けて行くのだけれど、それを人は「死」と呼ぶ。

だから、霊魂が抜けた身体を抜け殻、死体、亡骸など呼ぶのだ。

その抜けてしまった魂は、新しい身体をもらう前に、どんな行いをして来たかによって、宗教ことに審判を受けるようだ。

仏教では、生きていた時に犯した罪や悪さなどが記録されて、その分の「カルマ」と呼ばれる「業」と言う、行いの結果を背中に背負って次の身体に入るのだと言う。

だから前世と現生が繋がり、未来の性に影響しているのだから、まさしく人生は「旅人」と言えるだろう。

その審判によって、誰かは恵まれたお家に生まれて何不自由無く幸せに暮らす事ができるし、カルマが大きくて償うものが大きいと、罰として酷い環境で様々な障害を乗り越えて生きる事で償わせるらしいのだ。

だから、理不尽な環境で生まれて、何で私だけがこんな目に遭うのだろう、こんな酷い親の元に生まれて、理不尽でしょうがないと思う人達は、理解するのは不可能だけれども、前世の行為の結果が現生の状況でのスタートだと思うと、それは乗り越えないと答えが出ない事なので、来世では少しでもマシな環境で生まれて、憧れの人生にしたいのなら、その場で嘆くのでは無く、受け入れて乗り越える準備と、望むような来世に出来るように頑張ることだ。

仏教の輪廻説では、自然界のあらゆる生命体が変わる代わる生まれては死んでいくことの繰り返しをする。

あるものはコバエで生まれて何日間の命で次の者に生まれるが、セミは7年もの土の中で待機して、やっと地上に上がって7日間を悲しく泣き続けて死んでいくのだ。

また、樹齢200年とかの木は、ただただ200年を耐え忍んで立っているだけだし、運よく空を自由に飛ぶ鳥として生まれても、鷹に狙われてあっという間に次の命として生まれる羽目になるのだ。

だが、幸いに一番位の高い人間として生まれることが出来ると、なんと!続けて7回もの続けて人間として生まれるチャンスを貰えるのだ。

すごい特権だと思いませんか?

ついこの前まで、牧場で草を食べていた牛だった人が、人間のために身体をささげて肉食になった挙句、生まれ変わったら何と人間の赤ちゃんとして生まれるのですよ!

そうやって初めて人間世界を学習しながら人間をやっていくわけよ。初めは手探りで学ばなきゃならない事がてんこ盛りです。それで年老いて死んだ。

2回目も人間として生まれるわけだから、しかも1回人間世界を経験したので、少しばかり「要領」と言うものを身につけるわけですよ。それで年老いて死んだ。

3回目も人間として生まれて、もう少し人間世界に詳しくなりました。それで年老いて死んだ。

4回目、5回目と続くうちに、人間世界の事はもう慣れました。しかしその分、狡さも増していくので、罪を犯す悪さの大きさも増えます。周りからは、あの人は何でも出来る人として一目置かれます。天才までいかなくても、何をやらしても上手に出来る羨む人になります。それで年老いて死んだ。

7回目となると、悟りの境地に達すか、どこかの教祖になって人を惑わして金儲けをするか、世界を唸らす詐欺師になって人々を手玉に取るかレベルになるわけ。

しかし、これが最後のチャンスだから、それまでに真面に生きて、人の役に立って、正しく生きたのだったら何にも問題はないけれど、その反対に世の中のことが神になったかのように分かって、自分の思いのままだと悪さの限りを尽くすと、審判が下されて、おそらく生命体の最低レベルのドブネズミかウンコの中に生息する虫として生まれるかもしれないのだ。

始めに言った「天才」とは、6、7回目に生まれた人達の事で、偶然にも人の好嫌いや趣向は変わらないので、モーツァルトやシューベルトなどは何回か生まれる時にピアノや音楽が好きで勉強したり触れたりした経験を持って生まれたとしたら、新しい身体は7才や8才の子供かも知れないが、学習された音楽の知識はDNAに組み込まれたままだとしたら、魂はその延長線で音楽の偉業を成し遂げたとしてもうなづけるのだ。

だから、周りの天才を目撃したら、あ〜あの人は何回も生まれ変わって何度も同じ経験をしてるのね、「魂の古い人」だね、と思ってください。

それを羨ましいとは思わなくなります。自分もいずれその天才になるのだから。

また、周りで鈍臭くて、ドジばかりで残念だなと思う人がいたら、あ〜この人はこの前までクジラだったかもしれないな、空を飛ぶく美しい鳥だったかも。と思ってください。

何と言っても、人間を初めてやるのですから、厳しい目ではなくて、優しく人間世界の先輩として教えてあげてくださいね。

この世界が初めてなんですよ。優しくね。

ね?腹も立たないでしょう?その人が何度も経験ずみのプロなのか、全く新しく勉強を始めた素人なのかで「天才」にも「バカ」にもなるのです。

だから、羨んだりバカにしたりしないで、新しい見方で周りを見てください。

そして、密かにご自分だけのジャッジをして見てください。

あ〜あの人、魂の古い人ね。

あ〜あの人は真新しい魂の新しい人ね。

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