広告クリエィティブ職は聖書もわかりやすく語れるのか?その 56。
平日は広告クリエイティブの仕事しながら日曜日にキリスト教プロテスタントの日曜学校でお話をするお役目をいただいております。その原稿を晒す試み。モーセさん(十戒で有名な)が神様なとんでもないプロジェクトにアサインされたあと、ファラオとの折衝の末に揉めに揉めましていくところまでいったときのセレモニーのお話です。日本のおせち料理とつなげてお話しています。
<意味のある料理>
みなさんはおせち料理って知ってますか?お正月に食べるお料理です。1年の最初に今年一年こんな一年になりますようにという願いを込めたメニューがいっぱいあるんですね。黒豆は黒く日焼けするほどマメに健康に暮らせますように。筑前煮に入ってるレンコンは見通しがよくなりますように。昆布巻きはよろコブという意味で。エビは長い髭、腰が曲がってるからということで長生きを願うという意味があるそうです。日本だと年末年始にそういう願いをこめたご飯を食べる習慣があります。イスラエルにもこういう意味のある食事がありまして、それが過越の食事という食事です。メインになるのが膨らんでないパンと焼いた羊の肉だそうです。この食事にはさっきのおせち料理とは比べ物にならないイスラエルの人にとって大事な大事な意味のある食事でそれがなんとわたしたちにも関係があるというのが今日のお話です。
<たくさんの災いでファラオを説得するモーセ>
先週モーセさんがエジプトからイスラエルの人を脱出させるためのリーダーになりなさいよと言われたところまでのお話でした。そこからモーセさんはファラオさんに「イスラエルの人をエジプトから元いたイスラエルに帰らせてください。」と何度もお願いしました。でもファラオさん、エジプトの王様はイスラエルの人は働いてくれるので必要だと考えてなかなか「帰っていいよ」と言ってくれません。そこでモーセさんはファラオさんに心変わりしてもらおうと思っていろんな災いを起こします。ナイル川を血に染めて、ナイル川のお水を飲めなくしました。するとファラオはわかったわかった出て行っていいよ、と一度は言うのですが、ナイル川が元に戻るとやっぱりやめた。出ていっちゃダメって言うんです。つぎは蛙のわざわい。ナイル川から蛙が大量発生して王様の神殿を襲うんですね。気持ち悪いですねえ。またファラオさんが分かった、出ていっていいよというんですがカエルがいなくなると出ていっちゃだめ、となってしまいましてなかなか出ていっていいよ、ってならないんですね。そこから、ぶよが大量発生したり、あぶが大量発生したり、病気が発生したり、腫れ物がはやったり、めちゃめちゃでかい雹が降ってきたり、いなごが大量発生したり、そして、暗闇になって何もみえなくなったり、いろんな災い、よくないことをエジプトに起こしたんですが、ファラオという王様は出ていっていいよ、と言ってくれませんでした。すごい頑固ですよね。
<最後の災い>
そして最後のわざわい、よくないことを起こすぞ!となりました。それがここの前の章11章にかいてありますが最後の災いとあります。最後の災いはエジプト中の初子を殺す、という災いでした。初子というのははじめてのこどもです。長男、長女、ですね。エジプト中の子供、一人目の子供を全員殺すというすごいわざわいです。
<過越とは?>
そのわざわいを起こすタイミングで今日の聖書の箇所になります。神様はモーセにいいます。今月を1年の初めの月にしなさいと。まさに正月にしなさいとなっています。そしてこんなご飯を用意しなさいというお話がつづきます。子羊を用意して、それは1歳のオスで、それを、バラバラにして、その時になぜか、6節その羊の血を、家の入り口に塗りなさいとなっているんですね。不思議です。そしてそこからその羊を焼いて食べましょうと一緒に酵母を入れないパン、酵母っていうのはイースト菌というパンを膨らませるための材料ですがそれを入れないパン。そしてそれらを急いで食べなさいと。これはエジプトから逃げるためにそのタイミングがいつ来てもいいようにという意味だそうです。そして11節。これが主の過越である。とあります。この過越というのがとても大事な言葉です。この漢字2文字ですが過ぎる越すということで英語でいうとpass over といいます。通り過ぎるということですね。スルーするということ。
<何を過越すのか?>
さて何が通り過ぎるのかというと、12節です。神様はこれからエジプト中の子供を殺すというすごい災いを起こすのですが、羊の血を玄関に塗った家は、通り過ぎるよと。殺さないよということです。13節あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならばあなたたちをすぎ越す。と。イスラエルの人の子供は殺さないよということです。そういう約束をしてくださいました。
この過越の食事、イスラエルのお正月の食事にはこんな意味があるんですね。日本の黒豆がマメに健康になりますようにとかそういう甘っちょろい感じじゃなくて本当に重い意味があるのがこの過越の食事、羊と膨らまないパンにあるということなんですね。
<過越の祭りで起こったこと>
で、この過越の食事のはじまりからイスラエルの人はこのお正月に過越の祭りというお祭りをしてこの時のエジプトから脱出したきっかけになったこのタイミングを忘れないようにしていたんですね。そしてこの700年後に過越の祭りのタイミングで大事件が起こります。イエス様が十字架にかけられたんです。そういえば、エルサレムにたくさんの人が集まってそして過越の祭りだからということで罪人をだれか許してもいいぞ!ってなってイエス様を許してもよかったのに、バラバという人を許したというお話もありましたよね。そのタイミングでイエス様は十字架にかかりました。そして十字架の上で血を流したんですね。イエス様は何のために十字架にかかって亡くなったのか。これはキリスト教にとってとっても大事な出来事なんですが、イエス様が血を流すことによってわたしたちの罪がゆるされる、ということを信じているんです。血を流すことで助かるというところ、先ほどの子羊の血を玄関につけることでイスラエルの子供たちが助かるということと同じお話のカタチなんです。
<約束の系譜>
新約聖書のヨハネによる福音書でイエス様のことを「世の罪を取り除く神の子羊」と呼んでいるんですね。神の子羊とは神様の子供であるイエス様、その子羊の血によって、わたしたちを罪から解放してくれた、罪のわざわいが通り過ぎてくれるようになった、ということなんですね。このイエス様が流された血ということが旧約聖書の過越の羊とつながっています。そしてイエス様は十字架の前の最後の晩餐でおっしゃった葡萄酒がわたしの契約の血とおっしゃっています。それがいま大人の礼拝でやっている聖餐式につながっています。旧約聖書と新約聖書をつなぐこの大きな約束、羊の血を門にぬっておいたら助かるよという約束、そしてイエス様の血、イエス様の十字架によってわたしたちの罪がゆるされるよ、という約束、この約束のつながりがキリスト教の一番大事なところなんです。
モーセさんの時代紀元前1300年ぐらいのいまから3300年ぐらい前にはじまった過越のご飯、お祭りが700年後にイエス様の十字架につながって、そしていまのここの教会で行われる聖餐式につながっているということ。神様がずっと私たち人間を見守ってくださっている、この長い時間のなかでも約束してくださったことをずっと守ってくださっているということを感じ、感謝する、そのために教会にみなさんもつながりつづけてほしいと思います。おしまい。
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