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広告クリエイティブは聖書もわかりやすく語れるのか?その79

普段広告のクリエィティブ業をしつつ、プロテスタントの教会でお子様にお話をさせていただいています。その原稿を公開するシリーズ。今日はダビデがゴリアトを倒す話。大変有名な話で、キリスト教圏では小が大を倒す時によく言われる言い回しです。ジャイアントキリングですね。普段の生活をどう捉えているか、がテーマです。

サムエル記上17章37節から54節
37:ダビデは更に言った。「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」サウルはダビデに言った。「行くがよい。主がお前と共におられるように。」 38:サウルは、ダビデに自分の装束を着せた。彼の頭に青銅の兜をのせ、身には鎧を着けさせた。 39:ダビデは、その装束の上にサウルの剣を帯びて歩いてみた。だが、彼はこれらのものに慣れていなかった。ダビデはサウルに言った。「こんなものを着たのでは、歩くこともできません。慣れていませんから。」ダビデはそれらを脱ぎ去り、40:自分の杖を手に取ると、川岸から滑らかな石を五つ選び、身に着けていた羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手にして、あのペリシテ人に向かって行った。 41:ペリシテ人は、盾持ちを先に立て、ダビデに近づいて来た。 42:彼は見渡し、ダビデを認め、ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったので、侮った。 43:このペリシテ人はダビデに言った。「わたしは犬か。杖を持って向かって来るのか。」そして、自分の神々によってダビデを呪い、 44:更にダビデにこう言った。「さあ、来い。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」 45:だが、ダビデもこのペリシテ人に言った。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。 46:今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。わたしは、お前を討ち、お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。 47:主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」 48:ペリシテ人は身構え、ダビデに近づいて来た。ダビデも急ぎ、ペリシテ人に立ち向かうため戦いの場に走った。 49:ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。 50:ダビデは石投げ紐と石一つでこのペリシテ人に勝ち、彼を撃ち殺した。ダビデの手には剣もなかった。

Copyright: 日本聖書協会

<最強のルーティーン>
いつもどおりの生活って言葉があります。例えば明日大切な試験がある、となっても、いつもどおりの生活をする、とかですね。それはいつもどおりの生活をすることで、いつもどおりの力が発揮できるとおもっているから、なんでしょう。急にジタバタしない、何か大きいことがあるとしても、いつもどおり、ふだんどおりの生活をしていれば、という自信があるんでしょう。普段どおりの生活をしていればいい、という自信はどこからくるのでしょうか?いつもどおり生活していればいいんだ、という生き方ができると、不安もなくていいなあと思います。
今日は「いつもどおりでいいんだ」と、信じて、大活躍したダビデさんのお話です。

<3メートルの男、ゴリアト>
先週はダビデさんに油が注がれるお話をききました。サムエルさんがサウル王の次の王様を探しにベツレヘムという町のエッサイさんという人の家にきて、その男の兄弟の中からひとりを選ぶというお話でした。一番上のお兄さんから順番にこの人かな?この人かな?とやっていったんですが、その場にいる人ではなくて、そこにはいなかった羊飼いをしていたダビデさんがその人だーということでダビデさんが選ばれたーというお話でした。
以前、サムソンのお話でもお話しましたが、近くのペリシテ人にイスラエルの国はよく攻め込まれていました。今回もまた戦争になってペリシテ人に攻め込まれてしまっていました。そして今回はそのペリシテ軍にとんでもない人がいたんです。その人の名前はゴリアトさんという人。身長はなんと3メートル!!バスケットのゴールの高さが3mちょっとだそうなのであれぐらいの高さ、そして、55キロの鎧をつけて、7キロの槍をもって、ペリシテ軍のリーダーとしてドーンと立っていたそうです。ものすごい迫力ですよね。バスケットのゴールみたいな存在感なんですもんね。そんなゴリアトさんがイスラエルの兵隊さんたちにいいました。おれと一騎打ちしよう!と。で、私が勝ったら今回の戦争はペリシテ軍の勝ちってことで、はやくイスラエルの兵隊の中から私と一騎打ち、1対1で戦うやつを出してこい!っていったんです。3メートルのバケモンみたいな人からそんなこと言われたらどうなっちゃいますかね。びびっちゃいますよね。

<ゴリアトを倒せる自信の源>
そんな大変な状況のなかで、ダビデのお兄さんもペリシテ人との戦いに行っていて、そこにダビデさんがお弁当を届けにいきました。そこでダビデはゴリアトさんが叫んでいるのを聞きました。おれと1対1で戦うやつでてこい!!と。それを聞いたダビデさん、サウル王のところにいって、言いました。わたしがゴリアトさんと戦いますと。そんなこと言われてもってなりますよね。まだダビデさんは子供です。サウル王はまだ無理やろーといいました。そこでダビデさんはいいました。いけます。戦えます。倒せますと。その理由「普段、わたしは羊飼いをしています、羊飼いをしていると、ライオンや、クマがでてきて、羊をとろうとしてきます。そのときはわたしは、ライオンや、クマを倒しています。だから、わたしはあのゴリアトさんも倒せます」といいました。普段からやっていることと同じなんで大丈夫です、と。そして、ダビデさんは最後にこう付け加えます。「彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」と。神様はこちら側にいるんで大丈夫です、と。自信を持って答えました。普段通りですし、神様がこちら側なんで大丈夫です、と答えたんですね。そして、さらに37節「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも私をまもってくださるに違いありません」と。普段、あれだけ私を守ってくれているんだから、こんかいも守ってもらえる。この、いつも守ってもらえてる、それを知っているということがとっても大事なんですね。今日のお話のポイントはここです。普段の生活が、誰に守られて、生きているのか、を感じて生きている、それがダビデさんなんですね。それを聞いてサウル王も、おう、そこまでいうなら、となってサウル王はダビデに自分の兜と鎧と剣を貸してあげることにしました。そしてダビデさんはきてみました。けれど、ダビデさんまだ小さかったのでブカブカで、こんなの着てたら歩けないでいらないっすとなって結局ダビデさんは普段の格好でいきます、となります。

<普段通りのダビデ>
これも、普段どおりで大丈夫だとダビデさんは信じているということなんです。そしてダビデさんは杖と、石を5つと、石投げ紐をもって、ゴリアトさんに向かっていきました。
それをみて、ゴリアトさんは言いました。「わたしは犬か。杖を持って向かってくるのか」と。なめてんのか?ということですよね。それに対してダビデさんはいいました。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名によってお前に立ち向かう」と。武器で戦うのではなく、神様のチカラで戦うとダビデさんはいってるんですね。さっき、サウル王さんからそういう武器を渡されそうになったけど、それも、いらないといったダビデさんだから言えることばです。

<ジャイアントキリング>
そして、いよいよ、ダビデさんがゴリアトさんに向かっていきます。ダビデさんは石なげ紐に石をいれて、ブンブンと振り回して、ビューっと投げました。その石がゴリアトさんの額、あたまに食い込みました。そして、ゴリアトさんは、3メートルあったゴリアトさんが、ドターーーーンと倒れました。大きな木が倒れるみたいな感じだったんじゃないですかね。ゴリアトさんというリーダーを失ってしまったペリシテ人は、わーーーって逃げてしまって、イスラエル軍が勝つことができました。このダビデさんがゴリアトさんに勝った話、この話から何を感じることができるのでしょうか?
ダビデさんが、サウル王さんの前で語ったことば、「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも私をまもってくださるに違いありません」これが今日のポイントです。これを信じていたから、サウル王からの武器ももらわなかったし、いつもの石投げ紐だけで戦って勝つことができたんですね。
 
<普段の生活をどう受け止めるか>
わたしたちは生きていて、いきなり3メートルの男の人と戦うことにはなりません。でも、3メートルの男の人じゃないですが、いろんなピンチ、いろんな壁に当たることがあります。それを前にすると怖くなって、不安になってしまうことがあると思います。その時はこのダビデさんの普段通りでいく、いつも通りで大丈夫だという自信を思い出してください。普段から神様にお祈りをして、神様に感謝をして、神様を信頼して生きていれば、ピンチが、壁があったとしても、普段から守ってくれる神様がいるから、今回も大丈夫だ、と生きていくことができるんです。と普段、何事もなく、生きている日々があると思います。その日々をどう生きるか。その日々を感謝して、守っていただいていると思って生きているかどうか、それがないと、何かあったときに、神様に守っていただこうと思えなくなってしまいます。みなさんこれからいろんなことに出会っていくと思います。その状況の中で安心して生きていくことができるかどうか、それは神様を知っているかどうか、神様に守っていただく、その実感があるかどうか、にかかっています。ぜひ神様を知るために教会に来てください。おしまい。

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