広告クリエイティブは聖書もわかりやすく語れるのか?その77
普段広告のクリエィティブ業をしつつ、プロテスタントの教会でお子様にお話をさせていただいています。その原稿を公開するシリーズ。今日はユダヤ人ペトロが信仰深いローマ人コルネリウスに会った時のお話し。神様の前ではみんなただの人間、というとても深い言葉。これが伝われば、かの地は平和になるのだろうか・・・。
<不思議な自己紹介>
みなさんは自己紹介しますか?わたしの名前はから始まって、年齢だったり、学校だったり、部活だったり、好きなたべものとか、いろんな自己紹介をしますが、それってなんのためなんでしょうね?自己紹介ってまわりの人とどこが違って、どこが同じかを伝えているんだと思います。わたしが自己紹介をする、みなさんと違うところ、まず、名前が違います。つぎに、北海道生まれ、関西にはあんまりいなさそうなんで、言いました。あと、マレーシアに住んでたことがある。がんばってみんなと違いそうなところを一生懸命さがしてみました。違うところ、一生懸命探して自己紹介します。
もしこんな自己紹介があったらどうでしょう。わたしは鈴木です。ただの人間です。以上。聞いてる方はどう思いますか?いや、なんもわからんやろ、やる気ないやろ、違いも、同じところもわからなかったら、あなたのことわからないじゃないか!となってしまうと思います。今日はこの不思議な自己紹介について。この不思議な自己紹介の意味についてみていきましょう。
<神様が創ったものの中にわるいものは一つもない>
最近は使徒言行録というイエス様が天にのぼられて、そして聖霊をいただいてからのお弟子さんたちの活躍についてお話を聞いています。先週はペトロさんが見たまぼろし、天からテーブルクロスみたいのがおりてきて、当時は食べちゃいけないと言われているものがいっぱいおりてきて、神様からこれ食べなさいと言われたお話し。ペトロさんが、それ禁止されてるやん。蹄が割れていて反芻するものは食べてよくてそれ以外、蹄が割れていても反芻しないものは、食べたらだめなはずですやん!と神様にいったら、私がたべていいっていったら食べていいの!って言われましたというお話し。そこから神様がつくったもののなかに悪いものはひとつもないんだよ。ということを知りましたね。この世の悪いものは人間が関わったから悪くなってしまったのであって、というお話しでした。
<敬虔なローマ人、コルネリウス>
今日もその続きです。ある日ペトロさんのところにコルネリウスという
カイサリアという海辺の街に住んでいたコルネリウスというローマ人から使いが来て、カイサリアに来てくださいといわれました。彼は軍人で、とても信仰心のあついひと、神様を信じていて、そして、恵まれない人にいろんなものをあげたり、本当にすばらしい人だったそうです。ペトロさんはそう言われて、わかりましたと、カイサリアに向かいました。
というのが今日の聖書の箇所の前までのお話し。ペトロさんはコルネリウスさんに会いにカイサリアに行きました。エルサレムから40キロ離れていたそうです。1日かかっていってみるとコルネリウスさん、その家族があつまっていました。そしてコルネリウスさんは、足元にひれふして拝んだ、って書いてあります。
<ペトロがした自己紹介>
そのひれふしておがんでいるコルネリウスさんにペトロさんがした自己紹介がこちら26節「おたちください。わたしもただの人間です。」と。このペトロさんの自己紹介が今日のポイントです。わたしは、ユダヤ人で、とローマ人との違いを言った方がちゃんとした自己紹介ですよね。わたしは、イエス様に会ったことがあるんですよ!と言うのも、ちゃんとした自己紹介ですよね。ところがここでペトロさんは「わたしもただの人間です」って言ったんです。
<ユダヤ人とローマ人は違うのか?>
その理由がこのあと語られていきます。28節「あなたがたもご存じの通り、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問することは律法で禁じられています。」と。当時はユダヤ人はアブラハムさんからつながっている神様から選ばれた民族だと信じていたのでユダヤ人とそれ以外というのを分けて、区別していたんですね。なので、先ほどの自己紹介のように、私はユダヤ人で、あなたはローマ人、だから違うんです。というスタンスだったんです。が、いまは違うんですと、28節「けれども、神はわたしに、どんな人も清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないとお示しになりました」とあります。これは先週おはなしされた、神様が清いといったものは清い、神様がつくったものはぜんぶよいものだ、ということ、あのテーブルクロスにひもがついてつりさげられてきたまぼろしのことを言っているわけです。それをみて、ペトロさんは、何人で関係ないんだ。と分かったんですね。だからペトロさんの自己紹介。「わたしはただの人間です」という自己紹介になったわけです。
<分け隔てない神>
ペトロさんは言いました34節「神は人を分け隔てなさらないことがよくわかりました。」と。分け隔てるということば、分けて、隔てる、隔てるという感じは隔離という言葉でもつかわれる、距離を離すという意味なんです。コロナの時も隔離、とよく言ってました。人間をちがうものとして、引き離す。そんなことを神様はしない。ぜんぶよいものとしてつくられたんだ、とペトロさんは言っています。だからローマ人のコルネリウスさんとペトロさんはおなじ、ただの人間ということ。神様の前ではただの人間だということ。この言葉は本当に重たい言葉だと思います。
人間同士、違うところばかりを探して、そして、違うから、距離をつくって、離れようとして、そして対立してしまう。分け隔ててしまう。それが人間なんです。それは世界中でいまも起こっている戦争が証明していますよね。わたしたちとあなたたちは違う、だから、あなたたちはどこかへいってください、と。それは人間しかいない世界だと考えているから。
<平和を実現するためにただの人間でありつづける>
マタイ5章の9節にこうあります。「平和を実現する人は幸いである」とあります。わたしたちには平和を実現するちからがあると神様がおっしゃってくださっています。そんなことできるんだろうか?と思うかもしれませんが、できる。
神様がいて、神様がわたしたちをよいものとしてつくっていただいたということ。そして神様の前では、わたしたちはただの人間であるということ。人種を超える、違いを超えて、ただの人間であるということ。このことがどれだけ素晴らしいことかと思うわけです。そのことを知っていることが私たちにとって希望になります。
教会にはいろんな人が来ています。赤ちゃんからお年寄りまで、いろんな人がきていますが、神様の前では「ただの人間」その状態で神様にお祈りして、神様の言葉を聞く、そしてわたしたちってただの人間ですよねーと言いながら交流する。それができるのが教会。そんなところはなかなかありません。これからみなさんの人生において、人間同士で比べて、どっちがいいとかわるいとか、そんなことで悩むことがあったら、教会に「ただの人間」になりにきてください。そうすることで神様と出会い、あー自分はただの人間、ただ、生きてるなあと思えると思います。そのことをおぼえておいてください。おしまい。
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