見出し画像

ドレスの人

3月。ここはどこだ。
制作、遊び、労働、実に混沌としている。

退勤してゴミ置き場のあるビルの裏口に出た。僅かな明かりの中にふわりと浮かぶ、白地に緑の植物が鮮やかなドレス。眩しいくらいにメイクアップしたその人は、タバコをふかしながら微笑んでいた。軽く会釈しただけで去ろうとする私に「お疲れ様です」と。不意にもらった声は、低く艶やかだった。私も「お疲れ様です」と、それより少しだけ高く消えそうにでも届くように返し、薄寒い雨の街にビニール傘を開いた。

色とりどりにネオンが灯る街に放り出された私は、いつも一旦野良猫になる。歩くリズムに乗って徐々に帰る場所を思い出す。今夜は何を作ろうか。

たったったった…

背後の確かな気配は、直ぐに向かいのビルへと吸い込まれた。それを目で追うように振り向くと、先程出会ったドレスの人が傘も持たずに走って道を横切り、真っ赤な絨毯の階段を地下へ降りて行くのが見えた。この先があなたの場所か。

その時。

ドレスの人は振り返って地上を見上げ、一層華やかな笑顔を私に向けた。身体に電気が走った。どうして私が見ているとわかったの?
私も驚きを混じえてさっきより親しみを込めて微笑み返した。あなたの昨日と明日は想像もつかないけれど、この夜を頑張ってねと。少しわがままな私の生き方も、この人には気に入ってもらえるかもしれないと、不思議な安堵さえ得られた。

ほんの15秒かそこらの出来事。でも二人の間には澄み切った友情があったと思いたい。

あ。「ご来店をお待ちしています」の笑顔だったのかもしれない。どっちでもいいか。私も光のひとつになって駅へと足取りを早めた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?