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現されているものの中に入っていって、そこから丸ごと味わう


思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ

                                              俵 万智


を扱った模擬授業があった。

学生は、体言止めが何故使われているのか、どんな効果があるのか、一つ一つの言葉を大切にするということはどういうことなのかを指導の目標にしてやっていた。


ところが、まだ十分ではなかった。

体言止めの効果は? と聞けば「強調」というのは、直ぐに出てくる。大事なのは、本当に強調しているのか? 強調しているとすればそれはなぜなのか?を、テキストに即して読み取らせることにある。


麦わら帽子のへこみ

麦わら帽子のへこみがある


この二つはどう違うのかを考えさせなければならない。


『なぜ「へこみ」を体言止めで強調しているのか。何を現しているのか?』

と授業をした学生に問うと

「私は、例えばですけど、〜のように思うのです」

と説明するので

『なんで?』

と問うと

「いや、なんというか私のイメージでは、この歌はマイナスのイメージです」

とするので、

『それでは足りないなあ』

となる。


テキストに即して、答えなければならない。

『確かに、この歌のイメージはマイナスです。でも、それはあなたの思いを述べていてはダメで、書かれているものから答えなければならない。そうでなければ、先生の解釈、いや、解釈ではない、先生の思い込みの押しつけになってしまい、それは国語ではなくなる』


学生たちは、自分の思いの押しつけの授業をしたくてしているのではない。寧ろしたくない。しかし、してしまう。それはテキストに戻ると言うことが出来ないからだと思う。


『「へこみ」でしょ。「あー、失敗した。凹んだ」って言うでしょ。「あー、車をぶつけて凹んでしまった」って言うでしょ。へこみは、マイナスの言葉でしょ。でも、このマイナスのへこみを、思い出の一つのように思っているのが、この短歌ではないの?


麦わら帽子。つまり夏だ。夏の思い出は傷ついた思い出。だけど、それはそうであっても大切に残しておきたい思い出。それは何だろうな? というのが解釈でしょ』


と解説。


体言止めを教えるのではなく、体言止めで現されているものの中に入っていって、そこから丸ごと味わうことが大事なんだよなあ。学生たちも分かっているんだけど、そこまで辿り着かない。指導を重ねよう。


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