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片思いのように考える
野村克也さんの言葉でとても印象に残るものを1つ上げろと言えば、これだ。
監督の時、相手のピッチャーの球がとても良い。特に高めが良い。そこで、選手には「高めは打つな」と指示を出した。
ところが選手は次からへと高目に手を出して凡打終わってしまっていた。
監督は困った。そして考えた。
「低めを、ねらえ」
と指示を変えた。
すると選手たちは、次から次えとヒットを打ち始めたのであった。
日本語は否定の言葉が最後にくる。だから、高めは、と言う言葉を聞いたとき選手の意識は、高めに向かってしまっている。
だから、特に指示を出す時は肯定表現でしなければならないのだ。
♢
生徒に指示を出す時も同じ。肯定か勧誘で指示を出すように心掛けた。教師として、この指示はとても勉強になった。
で、この話のあとに
「では、嘘つけ!というのは、嘘をつくなという意味なのに、なぜ、うそつけ!というのでしょうか?」
と発問していた(^^)
これは、小学生の時から疑問に思っていて、ずっと考えていました。やっと仮説が立ったのは18歳の時。その仮説を胸に、駿台予備校の関谷先生に質問しました。
すると、先生のお考えも同じでした。いやー、嬉しかった。
当時は勿論ネットもありませんでしたから、考えるしかなかった。ずっと考えるしかなかった。
それが良かったんでしょうね。算数の問題はずっと考えることはできなかった私だけど、言葉のことは考えていたんですねえ。
♢
考えるには、入試の時のように集中しまくって考えるものと、片思いのように気がついたら思い出していたのように考えるの二つがあると考えています。
学校では前者は扱いますが、後者はやらないでしょう。なぜなら、これまでの学校は、効率よく正解に辿り着くのが「頭がいい」とされているからです。
しかし、後者の片思いのように考えるは、探究型の学習には極めて重要だと思います。
分からないを簡単に諦めない。
分からないのは恥ずかしいことだと言う考えを改める。
これが大事。
分からないのは、折角分かるへのチケットを手に入れたのだと言うことなのですから。
簡単にネットで調べてしまうのも、勿体ないことです。片思いのように考えるのは、なかなかいいものです。
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