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教育はラグビーに似ている

「教育はラグビーに似ている」。これは私が『新版 教師になるということ』(学陽書房)に書いたことだ。ラグビーカップの動画を改めて見て、やっぱり似ているなあと思うのだ。

私がラグビーを最初に見たのは自分が中学生の頃だと思う。そのときは、非常に変なスポーツだと思った。色々と変なのだが、その中でも特に変だと思ったのは、パスのボールを前に投げられないことだ。

(それってパス?)

と思った。球技でそんなの他にはないんじゃないだろうか。


さらにボールが楕円。キックは前にボールを出すことができるが、楕円なので、そのボールがどこに行くのかがわからない。そんなんで試合になるのか?と思った。いや、そもそものルールはとてもシンプルだ。前に進んで相手の陣地のエンドにボールを持ったまま置くシンプルさ。それだけに目立った。


だけど、私が成長するに従って

(これは面白いスポーツだなあ)

と思うようになった。私が大学生の頃は、冬に国立競技場に見に行っていたこともある。

なにが面白いのかというと、まさにそのボールを前にパスできないことなのだ。キックしたボールがどこに行くかわからないことなのだ。
そして

(ああ、教育に似ているなあ)

と思うようになったのだ。

私は、教師になる前に、なってからも色々なものを先達、恩師から手にしている。とても感謝している。恩返しをしたい。しかし、できない。先達や恩師は恩を返せるほど小さな存在ではない。また亡くなっていたらどうしょうもない。


だが、日本語には恩返しならぬ、「恩送り」がある。恩は返さなくて良いのだ。恩は送ればいいのだ。教師は先達や恩師から頂いたものを受け取り、自分で前に進み、後から来る者に伝えて前に行かせればいいのだ。汚れた部分を拭い、受け取りやすいパスを後ろから来る者に渡せばいいのだ。


時に、遠くに蹴り出すこともある。それは後ろから来る者を信じて、その「ボール」がどこに転がっていくのかはわからないまま

(彼らならそれを拾って、前に進んでくれる)

と信じて蹴るのだ。学級担任をしていたとき、ゼミをしているとき、年に数回、このタイミングを私は経験してきたし、している。

後期の授業が始まった。また、パスを出し続ける日が始まった。


*写真は琵琶湖の上をゆくドラゴンの尻尾、のような雲

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